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『志賀直哉随筆集』書評

『志賀直哉随筆集』書評

  言わずと知れた「小説の神様」志賀直哉。しかし、志賀直哉の小説は一見した印象ほど、わかりやすいものではない。私小説だったり、心境小説だったり、そう評されることも多い志賀直哉は、反自然主義から出発している。たとえば晩年の芥川龍之介が『文芸的な、余りにも文芸的な』で「『話』らしい話のない」「詩的精神」に満ちた「純粋な小説」の例としてあげたのが、志賀直哉の小説だった。なかでも「焚火」は、芥川自身も大いに感銘をうけて、彼に「海のほとり」という作品を書かせている。『暗夜行路』を除き、そのすべてが短編という志賀だが、それは、いわゆるショートショートのような明確な起承転結やオチがあるものではない。

 近代の優れた作家が、随筆を書かせても一級品である例は少なくない。たとえば谷崎潤一郎『陰翳礼讃』。これは光と影にまつわる日本(東洋)と西洋の美意識の差についての文化論であり、書き手ののちの創作への姿勢をも示唆している。さらに現在でも、西洋で建築を学ぶ者にとって、この文章は必読のものであるという。

 これだけ内容に富んでいながら、優れた随筆は、必ずしも小説ではそうではないが、きまって、流れるように読めてしまう。それは、必ずしも文章が上手いからでも、ましてや内容が軽いからでもない。随筆。「随感」=「思うまま、感ずるまま」という言葉もあるが、「随」は、訓で読むと「したがう」である。筆に随う。書き手の筆の早さと読み手の目の動きがぴたりと一致するような書き方ができている随筆だからこそ、流れるように読むことができるのだ。

 その点、志賀は意識的に書く早さを考えていた作家である。処女作のひとつ「或る朝」について、こう語っている。

 

 私はそれまでも小説を始終書こうとしていたが、一度もまとまらなかった。筋は出来ていて、書くとものにならない。一気に書くと骨ばかりの荒っぽいものになり、ゆっくり書くと瑣末な事柄に筆が走り、まとまらなかった。(「創作余談」)

 

 それでいながら、志賀直哉は、他の同時代の作家と比べるとあまり随筆の印象がないようである。それにはひとつ原因があると思われる。「続創作余談」から。

 

「豊年虫」のような物は何といっていいものか自分でもよく分らない。私では創作と随筆との境界が甚だ曖昧だ。(「続創作余談」)

 

 くつろいだときの自分のことを書いた、と明言する「豊年虫」。「創作と随筆との境界が甚だ曖昧」とは? しかし事実、志賀の随筆がまとめられているこの『志賀直哉随筆集』(岩波文庫)に収められているいくつかの作品が、「創作余談」「続創作余談」「続々創作余談」といった、全集の著者解題なる文章のなかでは小説作品と並んで取り上げられている。書く物が、本人ですら創作か随筆か曖昧なのだから、読む者にとっては、まさしく「随筆」だといったような印象は残らなかったのだろう。

 推敲すればするほど短くなっていく、なんて逸話も残る志賀の文章の特徴は、その極限まで無駄をそぎ落とした簡素さである。しかし、だからといって物事を薄っぺらく描いているわけではない。小林秀雄ではないが、志賀の眼は物事をつぶさに観察している。この観察眼から生み出される簡素な文章は、むしろ動きに富んだコミカルなものとして映ってくる。そこが、彼が書き手として卓抜しているところである。たとえば「兎」。

 

 (……)去年の暮れ、貴美子という末の娘が、「兎、飼っていい?」という。

 「大きくなったら食うよ。それを承知なら飼ってもいい」

 「それでもいい。……飼ってしまえばお父様きっとお殺せになれない。だから、それでもいい」最初から高をくくっている。

 「いや、殺して食ってしまう。きっと食う」

 「ええ、かまわない」と貴美子は微笑していた。

 早速、入れる函を作った。それから食堂の前に角材を一本打込み、一尺五寸四方の盆のようなものを作り、それを杭に平にうちつけた。生れて幾日位か、とにかく、小さな兎を貴美子が抱いて来た。(「兎」)

 

 いい場面だ。この親子の関係が、ほんわかとにじみ出ている。この貴美子という娘が、父親譲りの動物好きで、本書の随筆のなかでもしばしば登場する。彼女の容姿などについてはなにも特別なことは描いていないが、志賀の簡素な文章のなかの貴美子さんのかわいらしさは、ちょっと類を見ない。父親、幸田露伴との思い出を書いた随筆のなか、お盆を楯にして父親にささやかながら反論する幸田文に匹敵するのではないか。

 閑話休題。さらに続ける。今度は兎について。

 

 鳴かない動物だと思っていたが、やはり声を出す。喜んだ時、低い声でグウ、グウと鳴くのをその後気がついた。傍へ行くと寄って来て下腹を凹ますようにして、グウ、グウと鳴く。此方でもグウ、グウと真似してやると、またグウ、グウという。(「兎」)

 

 志賀直哉、いい年してなにやっているんだ、というのはさておき、ほとんどグウ、グウといっているだけなのに鮮明な情景が浮かぶのは、さすがと言ったところか。志賀直哉は自他共に認める動物好きで、動物に関する随筆をいくつも残しているが、そこに描かれる動物には命の温もりや肌触りがたしかに感じられる。志賀直哉、案の条というか、結局この兎を殺すことはできないのであるが、これは蛇足というものか。

 いやいや、しかし志賀直哉、動物ばかりではない、人間を描かせてもどこかおかしく、そして愛おしい。特に印象に残っているのは泉鏡花だ。ところで、武者小路実篤については、それはもうことあるごとに登場してくる。志賀直哉の随筆において武者さんはだれよりも愛すべき方なのだが、あなたたちの仲の良いことはもうよくわかった、とこちらが呆れてしまうくらいなので、割愛する。

 

 (……)帰ろうと二階から下りてくる、其所に丁度泉さんが見え、小さい玄関の間で両方立って挨拶をした。泉さんは私たちを送ってから二階へ上るつもりで立っていられたが、泉さんの立っていられる直ぐ背後に私の二重廻しや帽子が掛けてあるので、泉さんにちょっと其所を退いてもらわないと、それが取れない。気軽に「ちょっと失礼」という風にはいえない。(……)泉さんが二階に行かれたら、それを取るつもりでそのまま立っていると、泉さんは私たちを送ってからと思っていられるらしく、両方でだまって向い合ったきりで、それが何んだかへんな具合になった。遂に泉さんは堪えられなくなったか、「失礼」といって、二階へ駈け上るようにして上って行かれた。(「泉鏡花の憶い出」)

 

 生真面目だったらしい泉鏡花の性格が、よく表れている。そのうえ、ちょっと滑稽でくすっと笑ってしまう。創作指南本などで、エピソードでキャラクターの性格を表す、などと教えられるが、その一例としても十分通用する。おそらく、「泉さんは私たちを送ってから」という文を繰り返したりしているのが、実際にふたりがお互いの次の動作を待って向い合っている瞬間のすれ違いを上手く表現しており、それがある種のおかしさを生み出しているのだろう。読者を笑わせるのは、なにもギャグばかりではない、ということだ。

 この一節だけでも、創作を志す者にとっては必須のエッセンスがいくつも詰まっている。それを志賀直哉は、あろうことか随筆でやってしまっているのだ。彼が本当に「小説の神様」かどうかについては議論の余地があるだろうが、ともかく、筆に随った文章で、これらの技術が自然に発揮されている点、たしかに「神様」のようなひとと言えるかもしれない。

 最後に、志賀直哉の創作への姿勢を示す一節を挙げよう。

 

 宗達をよく想い出す。巧みに単純化し、しかも、それが生々と表現されている。(……)ただ、写実では本統の姿は摑めないのだろう。生きている兎が栖鳳のよりも宗達の兎に遥かに近いというのは面白い事だと思った。(「兎」)

 

 宗達と栖鳳との違いは、とりあえず琳派と狩野派との違いで説明できよう。宗達もその祖のひとりといわれる琳派は、伝統を引き継ぎながらもそれぞれ絵師独自の解釈が加わる。対して、大名お抱えの職業絵師として力を持った狩野派は、徹底的な品質管理が求められ、絵師の独自性はむしろ邪魔なものとされた。

 

C0032462 兎桔梗図 - 東京国立博物館 画像検索*1

独立行政法人国立美術館・所蔵作品検索*2

 小説「鵠沼行」について、彼はほとんど事実に即したなかで一カ所、事実とは違うところがあると告白する。事実ではないことがわかりながら、それでも自然にそう思い浮かんだのだという。しかし、そのとき一緒だった妹がここはよく覚えている、と指した場所が、この事実ではない部分だった。そんなエピソードともつながる感想だ。

 志賀直哉の文章は簡素だ。しかし、それでいながら動きがあり、命の温もりがある。そんなことを再確認した随筆だった。

 

 おまけ。「赤い風船」は、そのままの題名の映画にまつわる話である。

 

 私は「赤い風船」も「沈黙の世界」も実写で見て、近頃珍らしい面白い映画だと思い、「わんわん物語」とともにこの娘に勧めていた。(「赤い風船」)

 

 彼の口から「わんわん物語」と出てきたことに思わず噴き出してしまったのだが、問題はここではない。このあと、十行以上にも渡って「赤い風船」のあらすじの説明までして、この随筆の結び。

 

 「赤い風船」を二度見たら、私の書いた梗概が大分違っている事に気がついた。しかし、直さず、そのままにして置いた。(「赤い風船」)

 

 おいおい、いくらなんでもそれはないでしょう。と思った次第である。

(文責 宵野)

 

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