『アイドルマスター シンデレラガールズ』
いちファンによる独断と偏見に基づいた映像論的なもの
これは、アニメーションはおろか、映画における表現方法の歴史もろくに学んでいない、正真正銘の門外漢による考察である。
世の中にはいま、論じやすいアニメ作品などは、それはもういくつもある。そういったものを扱ってみようと思ってもみたのだが、なんだか興が乗らない。そこで、やはりまずは好きなものを論じようと思った。『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下『デレマス』)を、映像論にもサブカルチャー論にも少し疎い私が、とにかく好きなだけ味わい尽くしてやるのである。
それだけの愛は持っている。
0 映像と小説、『デレマス』の表現方法
アニメーションは、当然ながら映像作品である。では、そもそも映像作品の強みとは、同時に弱点とはどこにあるのだろうか。私の関心の中心である小説の表現方法を念頭におきながら、まずはそこから簡単に考えてみたい。
さっそくであるが、映像の強み、それは全体を一度で表すことができることであろう。
簡単に景色一枚をとっても、小説であったら「季節は春、抜けるような真っ青な空には雲ひとつなく、桜の花びらが風に舞い――」といったように、ひとつひとつをあげて順番に描写していかなければならない。しかも丁寧に描写しようとすればするほど記述は長くなり、全体性からはほど遠くなっていくという矛盾を抱えているのである。
対して映像は、その景色を提示するだけで、景色全体を視聴者に見せることが可能である。しかも、編集という技術を使って、連続する時間のなかでそれらを任意のタイミング、順番で簡単に示すこともできるのだ。これは、ほかの表現方法と比して、圧倒的な強みである。小説を書いているとき、映像作品のこういった特性が羨ましくて仕方がないときがある。と同時に、この特性を活かしていない、あるいは活かす気もない映像作品を観てしまったときなどは、もやもやした気持ちをおぼえることもある。
では弱点は。というよりも映像の苦手分野といったほうが適切であろうか。それは、間違いなく、心理描写である。
世の中にはあまたのフィクション作品が存在する。その大半の作品が人間を描いたものであるから、そこには人間の心理というものが否応なく存在し、それを描くことこそがフィクション作品の目的のひとつであるともいえるのだが、当然、その心理なるものは目に見えない。だからこそ好き勝手になんとでもできる万能の素材だ、ともいえるのかもしれないが、しかし映像は、その目に見えないものを描きにくい。いや、視覚第一である映像では本質的には不可能、といってもいいだろう。
これはむしろ、小説の得意分野である。もともと、文字によって世界を構築する表現方法である小説は、目に見えないものの概念を作り上げることが容易である。(泉鏡花が描く幽霊など。)聞いた話であるが、初心者が小説を書こうとするとき、その多くが一人称視点をとるらしい。そしてその一人称が、地の文で自分の心のなかの言葉をよくしゃべる。ひとの心は目に見えないものだから、どうとでもいえる。ゆえに書きやすそうに思える。その気持ちは非常によく理解できる。私も最初は一人称で書いた。特になにも考えず、ただ書きやすそう、という理由で。
話を映像に戻す。いつからかはわからないが、映像作品もその弱点を補おうとしてなのだろうか、と感じるようになった。とりわけ、「独り言」や「ナレーション」という形で、登場人物に心の声をしゃべらせる、といったものをよく見かける。あまり映像作品を観ない私ですらそう感じるのだから、実際はもう大半がそうであるのかもしれないし、実はそうでもないのかもしれない。
ともかく、この現象には、メディアミックスによるところもあるかもしれない。つまり、もともと心内語が当たり前に書かれている小説や漫画を映像化するにあたり、その心内語を文字通りに処理しようとするなら、どこかで登場人物自身の口から語らせるしかないのである。
しかし、このような「声」に頼る方法でこの欠点を補うのは、はっきり言わせてもらえば、映像が小説的な表現に隷属することと同義である。私は小説が好きであるが、映像作品が小説のようになってほしいとは思わないし、第一、その必要性も皆無だ。それならば小説であればいいのであり、映像である必然性はない。
当然、作品そのものが表現媒体に先立つ、という考え方にも理はある。たとえば、喜劇と悲劇では、それに適した表現方法は変わってくる。だから、ここで私が念頭に置いているのはやはり、メディアミックスであろう。
作品そのもの自体は同じで、表現媒体だけが変わってくる。最近のこの国の出版状況をみていると、ますますメディアミックスは力を持ってくると思われる。それ自体は良いことであろう。しかし、メディアミックスの仕方がいささか乱暴なものであるがため、表現媒体の変化により、先立つはずの作品そのものが変質させられている例が少なくない、と個人的には思われる。あるいは、あまりに原作に忠実であるがゆえ、原作の特色がどぎつく現れて欠点となりかねないものもある。*1*2
たとえば、たとえ実写映画化が不評だったとして、あとからでも原作(作品そのもの)に目を通してみて改めて判断する受け手ばかりなら、それでもいいのかもしれない。しかし、実際にはそうではなく、メディアミックスに触れてから原作を手に取るひとは、そのメディアミックスが気に入ったひとである。しかも、その原作を手に取ったひとの少なからずが、なんか映画(ドラマ)と違う、と違和感をおぼえ、シリーズものならやがて、あのときの盛り上がりはなんだったのか、とばかりにその売り上げは急落する。*3*4
ともかく、この状況を見ていると、もはや作品そのものにも大きな影響を及ぼしてくる表現媒体の力を無視できない。
だからこそ、作品そのものを無意味に損なうことがないよう、メディアミックスに臨む者は、その表現媒体の特徴はある程度把握しておく必要があると思う。そうすれば、たとえば、小説(漫画)の方法を用いなくとも、映像は映像の特質も生かしながら映像の欠点を補うことで、作品そのものの価値を極力伝えることができるのではないか、といいたい。
ある登場人物が悲しみに暮れているとする。彼/彼女に「悲しい」と言わせる必要はない。たとえば、そのひとが俯くシーンを入れればいい。くわえて、雨を降らせるのもいいだろう。バックに短調のBGMを流すのもよい。それだけで、その登場人物の感情は伝わってくる。言葉は一切使わない、これは小説ではできないことである。禍を転じて福と為す、とは言いすぎかもしれないが、映像は、目に見えないものは写せないという弱点をうまく活かせば、その弱点がゆえに、むしろ効果的に、目に見えないものを観る者の心に訴えかけることができるのである。(偶然か、この文を書いた翌日、『最新 文学批評用語辞典』(研究社)を読んでいると、「サブ・テクスト」なる項目に遭遇した。曰く、「とくに劇において、人物の行動や言動の背後にありながら、明確に言及されることも説明されることもない意味や事情。観客は間接的言及、沈黙、ニュアンスなどから舞台上の人物の意図を読みとることになる。」。*5まさしく、である。)
私が、そのひとつの到達点を、北野武監督『その夏、いちばん静かな海』に見たことはさておき、本題に戻る。『デレマス』の表現方法は、そういった映像の特質をかなり用いたものになっている。
かなりの評判を呼んだ第一話においてそれは顕著だ。第一話では、まず先代のシンデレラガールズのライブから始まるのであるが、そこで、ライブの前口上と思しき先代たちのナレーション以外、主要人物の三人、島村卯月、渋谷凛、プロデューサーの心内語となるナレーションは一切ない。独り言も、卯月の花屋でのシーンを例外として、ほとんどない。寡黙なプロデューサーの人物像のせいもあるだろうが、むしろ無言のシーンが目立つくらいである。
では、いかにして登場人物の心のなかを描いているか。それは、たとえば、風景のショット、カット割り、カメラワーク、背景、表情、間、コントラスト、などなど、映像が持つ要素をこれでもかと盛り込んだ表現方法によって、雄弁は銀沈黙は金を図らずも体現するかのごとく、少ないセリフで、多分に登場人物の心のなかを鮮やかに描き出しているのである。少なくとも私には、近頃の「おしゃべり」なドラマやアニメよりずっと、三人の心情が、Pのつかみどころのなさと共に、甚く伝わってきた。
とはいうものの、一度目の視聴では、静かではありながらとても豊かな作品だ、近頃なかった魅力に満ち満ちているぞ、くらいの感想しか抱けなかった。しかし、二度、三度と視聴を重ねるにつれ、映像の可能性が、この三十分の作品からひしひしと伝わってくるのがわかった。そして、そういったことを念頭においてさらに数回視聴した。再生と停止、巻き戻しを繰り返し、気づいたことがあればメモを取る。そんな鑑賞の仕方が正しいのかどうかは自信をもって断言することができないが、気がつけばキャンパスノート半分がメモで埋まっていた。以下、いろいろ付け足しながら、その走り書きに近いメモを文章化することで、いささか断章的ではあるが、私の『デレマス』考察としていきたい。
1 時計というモチーフ
『デレマス』には、全体を通じて時計が重要なアイテムとして登場する。
これは、本家『シンデレラ』の、「十二時になると魔法が解けてしまう」、という重要なストーリーを踏襲しているのだろう。この第一話だけでも、冒頭が時計の針がカチカチと進む音から始まり、本田未央と思われる少女がライブ会場に駆け込むシーン、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌う場面におけるバックの映像、オープニングのアバンなど、ありとあらゆる場面で時計が登場している。
そこで、この第一話で登場した時計に焦点を当てて、その時刻が示している意味を考えていきたい。
まずは冒頭。第一話はアンティーク調の時計の針が、12に向かうところから始まる。そして『お願い!シンデレラ』のライブシーン(第一話ではこれがオープニング代わりになっている)ではいくつもの時計が出てくるのだが、そのほとんどが「12時前」である。時計の針がぐるぐる回る場面もあるのだが、その時計も、その針が「12時」を示す直前で画面が切り替わってしまう。つまり、絶対に「12時」にはならない。この物語において、「12時」というものの到来がどれだけ重要であるのかを示していると言えよう。
しかしながら、このオープニングのシーンでは、ひとつ気になる時計がある。それは、本田未央がライブの会場に駆け込んでいくシーンに見られる時計だ。背景に小さくあるその時計の針は、4時前。いままで注目してきた12時からは、ほど遠い。このあと、島村卯月、渋谷凛、本田未央、のちにNew Generations(以下NG)を結成する3人とプロデューサー、という物語の中心を担っていく4人が偶然にも出会うのだが、この時点ではまだ物語は始まったばかり、ということであるのだろうか。
さてオープニングが終わって、物語は本筋に入り、卯月の養成所へと移る。卯月がひとりレッスンを受けるこの部屋の時計は、最初「調整中」の紙が貼られていて、その動きは止まっている。針が指す時刻は、11時50分37秒といったところ。ここでも、「12時前」という時刻が出てくる。「シンデレラオーディション、あと一歩だったじゃない」というトレーナーの話なども踏まえると、卯月は夢のアイドルまであと一歩というところで足踏みしていることが表されている。
そこで登場するのがプロデューサーだ。一度受付に案内されたプロデューサーが、ひとりでストレッチをする卯月の前に再び現れ、「島村、卯月さんですね」と声をかけて名刺を差し出す。このとき、卯月とプロデューサーは本当の意味で出会うことになるのだが、そのとき、「調整中」の紙がはがれて落ちる。アイドルとしての卯月の時間が動き出すと共に、『デレマス』という作品全体の物語が動き出したことも、ここでは表されている。
こうしてシンデレラプロジェクト(以下CP)でのデビューが決まった卯月は、自分へのご褒美として花を買うことにする。そのとき立ち寄ったのが、のちに仲間となる渋谷凛の実家である花屋だ。
母に代わってちょうど店番をしていた凛が、卯月にアネモネの花を勧めたあたりで画面に映る時計は、6時過ぎを指している。12時からは真反対ともいえる時刻だ。この時点で、凛のなかの時間はまだまだ進んでいない。事実、卯月が店に入る直前、視聴者は頬杖をついて気だるげな凛の様子をすでに見ている。
この第一話においての中心は、打ち込めるものがなく生活を楽しめていない凛が、卯月の笑顔に魅せられてアイドルという未知の世界に飛び込むまでの過程である。時計も、このメインストーリーと並行するように、その針を進めているのだ。このあと、それまで画面には表れていなかった凛の顔が、初めて視聴者に公開される。卯月の背中を見送るその顔は、感情に乏しく、どこか無気力な印象すら受ける。その直後、凛の母親の用事が済み、凛は店番を交代することになる。
次に時計が現れるのは、おあつらえ向きと言えよう、渋谷駅前、ハチ公前広場で、勘違いから警察官とのトラブルに巻き込まれていた凛を助けたプロデューサーが、その後、凛をスカウトする場面である。このとき凛は、親切にしてくれた男がスカウト目当てで接近してきたものだと思い込んで失望し、どこか当てつけのようにアイドルという存在に強い拒絶を示すのだが、このとき映る時計は、4時過ぎの時刻を示している。
卯月と出会ったシーンから、さらに12時から遠ざかってしまっている。状況が後退した、ことを表しているのと同時に、これは冒頭、未央がライブ会場に駆け込む際に映った時計の時刻からは少しだけ進んでいるともいえる。このとき未央はまだオーディションを受けてすらおらず、スカウトを受けた凛よりもさらに前の状態にある、といえなくもない。
そんな凛のなかの時間だが、卯月の笑顔に魅せられ、プロデューサーの言葉に心を揺さぶられた日の夜、事態は急変する。自室のベッドに横になってアネモネの一輪挿しを眺めながら物思いにふけっているとき、彼女の部屋の時計は11時34分を指している。一気に12時に近づいたのもさることながら、卯月の養成所の時計からも進んでいる。このとき、凛はひとこともしゃべらない。しかし、ここまで見てきた者はその時計の針から、凛の意思がアイドルへと近づいたことを、そして卯月の時間も進んだことを知るのである。
そして、凛は卯月とプロデューサーが待つ喫茶店へと現れ、アイドルになる意思を表明する。「あんたが私のプロデューサー?」という原作ゲームのセリフにプロデューサーが頷くと、時計の針がひとつ、音を立てて進む。アニメコンプリートブックにおけるインタビューのなかで、高雄監督は、「一話につき一回だけ、時計の針を動かす」という制約を課していたことを明らかにしている。冒頭のシーンを除けば、これがその一回だ。このとき、時計は11時35分に進んだように見える。これは、その前のシーンで凛の部屋の時計が指していた11時34分からちょうど1分、進んだ時刻である。この瞬間から、『デレマス』という物語は11時34分から、明らかに重大な意味を持つ12時、という時刻に向かって進んでいく、ということが暗示されていると言えよう。
最後、3人目のメンバーの再選考オーディションを映す場面、画面右上の端に小さく時計がかかっているのが見える。
その時刻は、11時35分。
その直前、ひとつ進んだ時計の時刻と一致する。これは単なる偶然ではない。そしてこの再選考オーディションでは最後のメンバー、本田未央が登場する。
3人の時間は軌をひとつにして、『デレマス』という物語の時間もまた進んでいくのである。
(中編につづく)
*1:コメディ系の漫画を実写化する際、すべての動き・台詞を再現すると、うるさくないだろうか
*2:さらにいえば、小説・漫画の実写化はともかく、アニメーション映画の、間を置かぬ実写映画化は、雇用創出以外にいったいなんの意味があるのだろうか、正直疑問である。
*3:しかし、これは仕方ないことなのかもしれない。流れて行くから「流行」なのだから。ブームは一時的だからブームたり得る。もはや、「いま『ワンピース』という漫画が流行している」とは、仲間内ならともかく、社会全体をみたときにはいわないのである。
*4:さらに加えると、これは実体験であるが、『ホタルノヒカリ』という漫画がある。これは2007年、綾瀬はるかと藤木直人が主演する同名ドラマで大ブームとなり、ある書店では単巻あたり三桁の販売を記録していた。2014年から、原作は『ホタルノヒカリSP』という続編の連載を始める。その単行本、同じ店舗で数冊しか売れなかった。まさか、当時この作品を買っていた読者層が、この店舗の圏内からごっそり移住したわけではあるまい。ブームの恐ろしさを思い知った。
*5:『最新 文学批評用語辞典』(研究社)p111