ソガイ

批評と創作を行う永久機関

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 中編

2 彼女たちが中央に立つとき

 

  注意してみれば意外なほど明確でありながら、しかし意識していないとそうそう気づけそうもないのであるが、第一話において、人物が画面の中央に立つ場面は、実はそれほど多くない。

 例外的に、シンデレラガールズのメンバーが『お願い!シンデレラ』を歌うライブシーンでは、高垣楓をはじめとする、すでにアイドルとして活躍しているメンバーが中央に立つことが多いが、ほかのシーンでは、ふたり以上の人物が登場する場面はまだしも、画面にひとりしか登場しないシーンにおいても、その人物が画面の中央からずれた場所に置かれることが少なくない。

 たとえば、デビューが決まった卯月が凛の実家でアネモネの花を購入した後、花を選んでくれた凛を振り返って、「私、がんばります!」と、彼女のチャームポイントである笑顔を見せるシーン。このシーンにおいても、卯月は画面の左側に立っている。

 付け加えるなら、このとき画面の右上には釣り下げられたライトがあるのだが、それが照らす場所に、卯月はいない。デビューが決まり、笑顔、そして希望で満ちているように思われる卯月であるが、まだ彼女はスポットライトに照らされていないのである。このあと、プロデューサーは補充メンバーの三人を集めるのに苦労し、卯月はレッスンを命じられ続ける。デビューが決まったからといって、すぐに舞台に上がれるわけではない。実際のアイドルを考えれば確かにそうなのであるが、それはともかく、そこからの卯月の道のりは、決して順風満帆なものとは言えない。

 また、この中央にひとが立たないコマ割りは、凛において特徴的だ。凛が中央に立つのは、交番で事情を聞かれるシーン、通学路でプロデューサーから名刺を差し出されるシーン、公園で卯月の笑顔に魅せられるシーン、アイドルになることを決意するシーンくらいで、いま挙げたなかでも最後のふたつを除き、正面を向いて画面に中央に立つシーンはほとんどない。その他のシーンでは、画面内に凛ひとりしかいなくても、左右のどちらかの端に寄っている。中央に配置されることがまだ比較的多い卯月と比べると、その差は歴然だ。

 いずれにしても、その登場人物が画面の中央に立つのは、ストーリーのなかでポイントとなるシーンに多い。ひとが画面の中央に配置されるシーンを並べてみると、

 

憧れのアイドルたち→卯月の登場→プロデューサーの登場→卯月、デビュー決定→凛の登場→凛とプロデューサーの接近→凛のスカウト開始→頑張る卯月→卯月の笑顔、魅せられる凛→凛、アイドルになる決意→未央の登場。

 

このようになる。これだけでこの第一話のあらすじにもなりそうだ。このように、ターニングポイントとなるところで、「中央」というものが効果的に使われている。

 ここで最も注目したいのが、卯月と凛の公園での会話だ。持ち前の明るさで凛の笑顔を引き出した卯月だったが、まだアイドルになる気はない凛との間に齟齬があり、お互いに気まずい空気になる。ベンチでもやや離れて座るふたりの間には、ベンチの手かけと卯月の通学鞄があり、そして斜めに視点を変えると、背景のポールと思しきものが、ふたりの間にそびえ立つ。ひとりずつ映していくシーン*1でも、卯月は右側、凛は左側、と、やはり中央にはこない。*2

 そんなふたりであったが、卯月は、自分のアイドルへの積年の想いを語り始める。そして卯月は立ち上がり、地面に落ちた一輪の桜の花を拾って、凛に最高の笑顔を向ける。このとき、卯月の顔はアップで、中央にある。その卯月の笑顔に魅せられ瞳を輝かせる凛の表情もまた正面を向き、アップで中央。それまでそれぞれ左右に寄っていたふたりが、卯月の笑顔をきっかけにふたりとも中央に寄る。中央とは、スポットライトが当たる場所、と言い換えてもいいだろう。

 それまで中央を避け続けた彼女が「光」の当たる中央に立ったとき、凛の気持ちは決まっていたのである。

 

 3 少女と花

 

 第一話において、時計と同じくらいの頻度で登場したのが、花である。

 季節が春であることから、特に桜が多く登場した。始まりを象徴する花としてはおあつらえ向きであり、この演出そのものは、わりと使い古されたものといえる。

 本当に注目に値するのは、出てくるすべての木が桜の花を咲かせているわけではないということだ。花びらを散らせるほど満開を迎えている桜があたりいっぱいにあるにも関わらず、青々と緑の葉をつけている木も少なくない。

 もちろん、それは桜の木ではなくてべつの植物である、事実、すべての公園の木や街路樹はすべて桜であるわけではない、という指摘は可能だろう。しかしながら、だとしてもこれがリアリティを生み出すために有効であるのかは、疑問が残る。たしかに『デレマス』は、あくまで現実の世界を下敷きに舞台を作り上げている。とはいえ、フィクションであることには変わりない。

 上で、この桜の存在をおあつらえ向きといったが、フィクションには「お約束」というものが存在する。意識、無意識に関わらず、我々は綿々と受け継がれてきた「お約束」を念頭におきながら物語に接している。つまり、フィクションに独特のリアリティというものがあり、現実に似せれば似せるほど、むしろフィクションとしては逆に不自然になる、ということだって十分にあり得る。

 たとえば、「近接の原理」。フィクションでは偶然すれ違った男女(もちろん男同士、女同士でも構わない)は、往々にして、なんらかの関係を持つようになる。たとえば、ボーイミーツガールの物語は、その最たるものと言えよう。

 しかし現実では、たとえば外出先で私がある美しい女性の手助けをしたところで、その後親密な関係になるケースなど、稀としか言いようがない。

 つまり「近接の原理」は、現実世界においてはなかなか当てはまらない。だからといって、フィクションのなかで、すれ違った女性の容姿やらなにやらをそれなりの分量をもって描写しながらその後一切の関わりを持たないとしたら、それはフィクションとして不自然なのである。おばあさんが、どんぶらこ、どんぶらこ、と流れてくる桃を、うわあ、大きな桃だあ、とか言ってスルーしてしまったら、物語は始まらないのである。読者はきっと、騙されたような気分になる。

 たしかに、あえてそうすることで現実の世界の無常観を表現したフィクション作品もあるだろう。しかし、それだって、フィクションに固有である現実を前提として、それを皮肉的に描くことで初めて成立するもので、この原則がなければその特殊性、批評性といったものは生まれないのである。

 話を桜に戻す。桜の花を咲かせている木と、青々とした木が混在していることを説明したが、特にその差が顕著なのが、公園のシーンだ。ベンチに並んで座る卯月と凛だが、凛を映すアングルでは背景が青々としているのに対し、卯月を映すアングルからは、色鮮やかな桜の花が咲き誇っている。やりたいことが見つけられず、どこか無気力に学生生活を送っている凛と、長年の目標であったアイドルになることができ、これからやりたいことがどんどんあふれてくる卯月、ふたりの心を対比しているかのようである。

 もっとも、卯月を映すシーンでも、背景が緑であることもある。

 ひとつは、プロデューサーが凛をスカウトしたときの台詞が自分のときと同じ、しかもそれが、自分が唯一自信を持っている強みの「笑顔」であったことを知ったシーン。一瞬ではあるが、卯月は自分の選考理由に不安を覚える。その不安が背景にも表れていると言えよう。

 もうひとつは、凛に「なんでアイドルになりたいの?」と訊かれたシーンだ。

 この質問に対し、卯月は自分なりのアイドルという仕事に対する明確なイメージを提示することができない。卯月の夢は、ただ「アイドルになりたい」というだけで、その実、具体性というものが欠けている。自分の夢にまっすぐ突き進んでいるように思える卯月のなかにも、陰りというものがある。卯月、つまり四月の名を持つ夢見る少女にとって、桜の時期はホームグラウンドともいえる。しかし、その花が散って葉桜、そして枯れ木となったとき、彼女の拠り所はどこにあるのか。

 桜のほかに、アネモネの花も、重要なシーンでしばしば登場する。「期待・希望」の花言葉を持つアネモネを、店番をしていた凛が卯月に勧め、それを買った卯月は、その花束を右胸に抱えて、凛にお礼と共に、「がんばります!」の言葉と笑顔を投げかける。この、卯月が自分の右胸に花を当てて満面の笑顔を向ける、という構図は、公園で凛の心をつかんだ笑顔のときと同様だ。そのシーンで卯月は地面に落ちた桜の花を拾い、右胸に優しく抱いて凛に笑顔を向ける。

 プロデューサーのしつこい勧誘を受け、なし崩し的に入った喫茶店と思しき店の壁には、三輪のアネモネの花が前を向いている絵が飾られている。卯月に授けたアネモネが、図らずも自分の許に戻ってきたかたちだ。面倒だ、という感情を露骨に顔に出す凛であるが、どこかで「期待・希望」を求めているところがあり、彼女のそんな気持ちが、彼女のアネモネを再び近づけたのである。このとき、彼女はプロデューサーに、「今、あなたは楽しいですか?」と言葉をかけられ、はじめて心が揺さぶられる。

 そして、公園で卯月と出会った日の夜、自室の勉強机にはガラスのコップに飾られたアネモネの一輪挿しが置かれ、窓から入る夜の光がそれを照らし、ベッドに横になる凛の顔に注がれる。最後、アイドルになる決心をして卯月たちの前に現れる場所も、アネモネの絵が飾られているあの喫茶店なのである。凛から卯月に渡ったアネモネ――期待・希望――は、プロデューサーとの出会い、そして卯月の笑顔を通じて凛のもとに帰ってきて、最後には三人のものとなるのである。

 おまけにはなるが、では凛と桜との間に関係はないのか、という問題について考えてみたとき、ひとつの答えがあるので、それを提示する。それは、凛とプロデューサーのファーストコンタクトの後、交番で事情を聞かれる場面だ。

 凛の後ろに貼られているポスターに注目する。二枚あるうちの上のポスターは、全体に桜の花のイラストが散りばめられており、凛の顔の横で花を咲かせている。また、このポスターは765プロのアイドル・四条貴音がイメージガールを務めているものだ。「桜の花」と「アイドル」、そして「渋谷凛」とが接近しているのだ。フィクションに固有の現実の一例として「近接の原理」を説明した。気にしなければただの背景に過ぎないが、注意してみると、これはなかなかにあざとい演出ともいえよう。

 さらに、下のポスター、内容はわからないが、「夢」という文字が大きく目立っている。この「夢」とは、この時点で卯月が持っていて、凛が持っていないものだ。しかしながら、この両者の接近により、凛が「夢」を見つけることがここで予測されているのである。

 ついでに言えば、プロデューサーの背中には「指名手配」と「注意!」の文字が目立つ。そののち、再び警察のお世話になりかけた展開を思えば、これもまた示唆的である。

 

 

(後編に続く)

sogaisogai.hatenablog.com

*1:(2017年10月17日追記)こういった、向い合っている状況においてひとりずつを映していく映像手法のことを「切り返し」あるいは「リヴァース・ショット」などと言うらしい。代表例としては小津安二郎だそうだ。興味はあったがまだ観たことのなかった監督である。是非観てみよう。(佐々木敦『シチュエーションズ』を読んでいて遭遇しました。)

*2:自分が最近観たなかでは、『響け! ユーフォニアム2』において、久美子と秀一とのふたりきりの会話シーンで同様の演出がおこなわれていて、ちょっと感動した。