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批評と創作を行う永久機関

『デレマス』独断と偏見に基づいた映像論的なもの 後編

 4 光と影――期待と不安――

 

 

 もっともこれは映像の世界においては常套手段といえるものであろうが、『デレマス』も数多の映像作品の例にもれず、光と影の対比がところどころで用いられている。場面として明るいシーンでは全体的に明るく、シリアスなシーンでは影のなかだったり薄暗かったりするのは当然のこと、加えて、ひとつのシーンのなかでも、その登場人物の心の動きによって、画面全体の明るさが異なることもあるのが、注意をひく。

 たとえば、卯月の養成所について考えてみる。養成所については、レッスン場の入り口から全体を見渡すアングルでの同ポジが三回あるが、その最初の一回と、あとの二回では、文字通り部屋の明るさが異なっている。

 最初の一回とは、オープニング終了後、卯月が養成所でひとり、トレーナーの女性といっしょに部屋の隅でストレッチをしているシーンだ。この部屋は、大きく分ければ、入り口を入ってすぐ、かつての仲間たちと撮った集合写真や小日向美穂がイメージガールを務めるシンデレラオーディションの募集要項のポスターなどが貼られた掲示板がある空間と、実際にレッスンをおこなう空間のふたつに分けられる。

 そしてこのとき、このアングルから見たときに手前にあたる入り口の空間は、電灯が消されている。視聴者は、薄暗い場所から卯月のレッスンを見ることになる。対して、あとの二回、つまり彼女のデビューが決まってからプロデューサーが訪問するシーンでは、その電灯は煌々と灯されている。このとき、もちろん明るさそれ自体にも、卯月の心情が表されていると思われるのだが、注目したいのは、掲示板に貼られたシンデレラオーディションのチラシの存在だ。というのも、物語が始まってすぐ、卯月はまさしく、このシンデレラオーディションに惜しくも落選したことが語られるのである。だから、このとき、このポスターに光は当たっていない。しかし、補欠合格が決まり、プロデューサーが残りのメンバーを探すのを待つ間は、入り口近くの電気も付き、このポスターにも光が当たっている。

 さらに言えば、3列に並んだ蛍光灯のうち、1回目では、向かって一番右の一列だけ電気が付いていないのに対し、以降ではすべての電気が点いている。特に意図はなかった、という監督の話もあるが、結果的にこの一連のシーンでは明るさがおおいに役割を果たしていた、ということができる。

 また、全体を通じて、卯月は明、凛は暗、といった対比が見られる。

 たとえば、卯月がプロデューサーに付き添って、凛のスカウトに向かうシーン。見覚えのある花屋につき、「じゃああなたが!」と声を弾ませる卯月は、太陽の光を浴びて明るい。一方、戸惑いを隠せない凛は、店の屋根に光をさえぎられて、薄暗いなかにいる。

 そして公園で初めて卯月が凛の笑顔を引き出したとき、凛の背後は影、卯月の背後は明るい青空である。その後、凛がアイドルになる気がないことを知り、お互いに気まずいのか、木陰のなかにいる。しかし、自分の夢について語る卯月は、おもむろにベンチから立ち上がり、木陰から光の当たる場所へと走り出して、桜の花を拾う。その笑顔を見た凛の瞳は輝きを放ちはじめる。そしてその夜、自室で物思いにふける凛の顔には、窓から入る月光が一直線に差している。こうして卯月の放つ光はやがて、凛へと伝播したのだ。

 

5 視点の移動、少女たちの足

 

  カメラを意識するわけではないが、映像作品を観るときにひとつ、注目すべきなのはその「立ち位置」、あるいは「視点」だ。同じものでも、上からか下からか、どちらから見るかだけでも、そのものの見え方は変わってくる。映像っぽく「アングル」と言い換えてもいいだろう。

 ここで注目したいのは、ときおりワンショットの静止画の連続で現れるようなシーンである。その代表的なものが、『お願い!シンデレラ』が終わってすぐの、本編に入るところだ。

 まずここでは、桜の木と青空と高層ビルとが映される。色合い的にもコントラスト的にも明るいこのショットだが、この風景は明らかに下からの視線で見られたものだ。次に映されるのは道路で、どうもこの道は坂になっているらしく、このショットは、坂の下からの視点で撮られている。そして、「Tokyo Art School」と思しき、卯月が通う養成所の玄関。そこでは色々な制服を着た少女たちが談笑したりして、楽しげな様子が見て取れる。この視点は、この少女たちとほぼ同じ高さである。そして、「調整中」の紙が貼られた時計を見上げ、すぐに卯月のスマートフォンへと視線が下りる。このとき卯月は、ライブで撮らせてもらったアイドルの写真を見つめている。そうして初めて、卯月の横顔が現れ、トレーナーの呼びかけに応じて、床に座る彼女は顔を上げる。ストレッチを開始した卯月、最初に映るのは、彼女の目から見た風景だ。薄暗いレッスン室のなか、前屈運動であろう、自分の足へと精一杯伸ばすその手は、しかしぎりぎりのところで、足まで届かない。

 以上のように、この1分にも満たない短さのなかで目まぐるしく風景が移り変わっていくこの場面。しかし、そのショットは決して不規則ではなく、「上」から「下」、「外」から「内」、さらには「明」から「陰」へと、その視点の方向が移っていることがわかる。

 下から見上げる視点は、手の届かない夢への憧れの情の現れであり、下に向かうにつれて現実に近づく。「シンデレラ」たちはガラスの靴を履いて舞踏会に向かうのだが、卯月の足には普通のシューズ、そして、そこに手は届かない。つまり、彼女の手はまだ夢に届いていないのである。

 このように、視点の移り変わりのなかで、話には現れない、卯月がそれまで進んできた道のりと、その艱難辛苦やもどかしさが、見事に表されているのだ。

 このガラスの靴は、冒頭の四人が出会うシーンでも登場するが、この第一話においても、「足」といったモチーフが頻繁に登場する。さきほどの、卯月のストレッチのシーンでもそうだが、彼女たちが履く靴は、まだまだガラスの靴には程遠い、普通のものである。卯月のデビューが決まったときも、書類を読む彼女の視線の先には、やはり、ただのレッスンシューズがある。足もまた、大きな意味を持つことになるモチーフのひとつだ。

 そして、この少女たちの足と同じ高さの視点を持つのが、犬、特に凛の飼い犬のハナコだ。卯月と凛、ふたりの間で伏せて目を閉じているハナコは、卯月が立ち上がって駆け出すと目を開け、彼女の背中を目で追い始める。さらに凛の手からリードが離れると、ハナコはプロデューサーのもとへと駆け出し、彼の前で伏せて、あたかも懐いているかのような行動を見せる。それまでずっと犬に吠えられてばかりいたプロデューサーに、である。彼は決して、動物に好かれる体質ではないのだろう。しかし、初対面に近いハナコは彼に、驚くほど好意的な態度を示す。ふたりの足を見てきたハナコが、飼い主である凛の本心はどこに向いているのか、それを代弁したとも言えよう。

 

6 まとめ

 

  なんということだろう。結局、扱ったのは本編の全25話のうちの第一話のみとなってしまった。こうなってしまった主な理由は多分ふたつある。

 ひとつは、何度通しで観ても、やはりこの第一話が最も完成度が高い、と思われること。もうひとつは、全25話の考察やら分析をまとめれば、十分一冊の本ができてしまう分量になりそうだったこと。つまりは、自制したのである。そういうことにしておこう。

 しかし、もうちょっと手を加えれば、量だけならば卒業論文にも匹敵しそうな自己満足の論考を自分で読み直してみると、それなりの達成感を感じられた。映像論などの勉強は圧倒的に足りないと自覚しているが、これはこれで、等身大の、つまり門外漢としては一定の映像技術に触れられたのではないか、と自負しているのである。もっとも、その評価はこの論考に付き合ってくださった読者にゆだねられているし、その捉え方に、筆者が口出しする権利はない。

 ここで、冒頭とかなり重なるところもあるが、私の映像作品、ひいてはフィクション作品についての考え方と、極めて個人的な「お願い」を記して、この論考を終わりにしたい。

 

 フィクションでもノンフィクションでも、物語あるいはストーリーを表現する際に用いられる方法はいくつもある。小説やエッセイのように文章で表されることもあれば、漫画のようにコマ割りとイラストで、あるいは絵画や写真のような一枚の画像を、音楽のように音を、さらには演劇のように、その場の舞台での役者の演技を用いて、物語が表現されることもある。

 そのなかでも、あえて映像という表現方法を用いるのであれば、その表現方法に特徴的な強みを活かしていくことは、表現者には求められてもいいはずだ。

 そこで考える。映像を使ったときの強みとは何か。まずは、その直接性が思い浮かぶ。確かに映像は、文字だけで表される小説などと比べて、直接イメージを提示するので、受け手によってイメージの差異が生じず、発信者と受け手の間で確実に共有される。

 しかし、だとすればそれは演劇でもいいはずだ。いや、むしろ直接性、という点においては「いま・ここ」にしかない演劇の方が良いかもしれない。映像作品は決して一連の演技をそのまま流すのではなく、往々にして編集というものがおこなわれているからだ。また、実際には流れていなかったBGMや効果音をつけることなどもできる。それに対して演劇は、特にその場において鑑賞するならば、そのとき現実に演じている役者の姿を見て、声を聴き、実際にスピーカーから流される音楽が耳に入ってくる。まさに、役者と観客のあいだで、時と場を共有しているのである。スクリーンを通して、あくまで「過去」の演技を見ることしかできない映像作品と比べると、「現在」の演技を見せる演劇に分があるのは確かであろう。

 私が思うに、映像作品の強みとは、編集やカメラワークによって、「言葉」を使わない「声」を引き出せることにある。ある登場人物の感情を細やかに表そうと思ったら、小説などのように言葉を尽くすことの方がよいかもしれない。しかし映像作品では、たとえば役者が瞳を潤ませてそっとうつむいたならば、それは悲しみを表すことになる。あるいは、そういった表情もいらない場合もある。寂しげなシーンで雨が降り始め、傘もささない登場人物の足元を写し、髪から滴り落ちる雨粒を撮ったならば、特別な演技を使わずして、悲しみや涙といったものを表すことができる。あるいは、幸せだったころの過去のシーンや、雨雲が立ち込める薄暗い空を、間に挟んでもいいだろう。これもまた、登場人物の悲しみを強調することにつながる。そしてこれが、「深み」や「余韻」といったものになっていくのだ。

 観客の目の位置が決まっている演劇においては、この方法で「深み」を出すことは難しそうだ。これはカメラの位置によって視聴者の目の位置を自在に操ることができる映像作品だからこそ、用いることができる方法なのである。故に、映像作品でナレーションによって心の声をあまりに入れすぎる作品などは、映像作品の強みを自ら放棄している、とも言えないだろうか。そもそも、心の声、心内文というものは、小説の専売特許ではないだろうか。

 今回取り上げた『デレマス』、この作品は、登場人物に心の声を語らせていない。無口で鉄仮面のプロデューサーがなにを考えているのかはまったくわからないし、卯月も凛も、「楽しみだ」とか「迷惑だ」とかいったような感情を直接的に言葉で言う場面はほとんどない。しかし、その表情や息遣い、あるいは合間に挟まれる風景や小道具、そして視点やコントラストが、登場人物の心をしっかりと物語っているのだ。

 近年、ライトノベルからのアニメ化、漫画からの実写化やアニメ化など、メディアミックスが多くなっている。商業的な面で、この手法が極めて有効なものであることは、否定できないし、否定する必要もない。メディアミックス自体に罪はないのだから。

 しかし、ただ、この作品は人気もあるし設定も受けそうだから、ほかの表現媒体でもそれなりにいけるだろう、という安易な発想からきているならば、なかなか成功はしないだろう。事実、一般の視聴者の反応が、あるいは「原作ファン」の反感が、それを物語っている。

 もちろん、この作品の表現方法が絶対の正解、などと言うつもりはない。むしろ、この作品の表現方法はその気になれば門外漢である人間にも、考察めいたものが可能、といった点で、非常に分かりやすいものと言えるかもしれない。この作品を越えるような驚くべき手法を用いた作品はいくつもあるだろうし、これからもどんどん作られていくべきだと思っている。

 しかし、少なくともただストーリーだけではなく、映像作品に特有の表現方法を数多く試みていることは確かだ。ここではかなりべた褒めしているように見えるだろうし、事実かなり感心しているのである。なぜか。最初にも述べたが、それは私がこの作品が好きだからだ。公平性を思いっきり欠いた代物に仕上がったことは、再読した自分が一番よくわかっている。ともかく、映像作品に関して本来ならば、これくらいの手法はどの作品でも使われていてしかるべきものなのかもしれない。

 これからも、メディアミックスは頻繁に行われるだろう。だとするならば、ただ原作のストーリーをなぞるだけで、あとは最先端のCG技術や豪華俳優陣といった、枝葉の部分だけを売りにするようなことはせず、せめてその表現媒体に合った表現方法を用いてもらいたいものである。それが、本当の意味でその作品に真摯に向き合うことと言えるのではないだろうか。

 最初、この論考には作品への愛があると言った。

 映像化にしても、作品への、そしてその表現媒体への愛は、やはり必要だと思うし、思いたいのだ。

 

(文責 宵野)