内側からのテレビ批判
この本は凡百のマスコミ批判本、マスコミを批判する言説と、少々趣が異なる。著者の水島がテレビの内側の人間、テレビマンを経験しているからである。水島の経歴は以下の様なものだ。
1957年北海道生まれ。東京大学法学部卒業。札幌テレビでドキュメンタリー制作の現場に携わる。ロンドン、ベルリン特派員を歴任後、2003年日本テレビ入社。『NNNドキュメント』ディレクターを務め「ネットカフェ難民」の名付け親ともなる。芸術選奨・文部科学大臣賞受賞。2012年から法政大学社会学部教授。*1。
それゆえ、題名にもあるように業界の内側からテレビの問題点を批判的に考察している。マスゴミという言葉に表されるように通常(特にネットの)のマスコミ、テレビ批判は、場当たり的で情緒的なものが多いように感じる。すなわち、テレビの、誤報、やらせ、捏造、情報操作が起こる原因についての分析を欠いている*2。あるいは、根拠薄弱な陰謀論を展開するかである。
対して、水島の批判はテレビ業界の内部事情を踏まえたものである。そのため、テレビ番組制作現場が細かく描かれ、ためになることが多かった。本書は内容に富んでいるので、特に印象に残った部分をかいつまんで紹介する。長さの都合上カットした、BPO、ドラマ、バラエティ、自殺、生活保護バッシングなどについても本書では取り扱っている。興味がある方は是非本で読んでいただきたい。
不幸を伝える仕事
著者がテレビ記者をしていたおり、国道トンネルが崩落する事故があった。多数の死者が出て、数日間に渡っての特番が組まれた。特番は高い視聴率を得た*3。著者の放送終了後についての回想は極めてインパクトがある。
(前略)終了直後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。
「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」
テレビモニターにはまだ犠牲者の遺体搬送の映像が続々と流れていた。(後略)*4
まるでブラックジョークのような光景である。著者が言うように、報道は不幸を伝えることが多い。それゆえ、一部の報道関係者は感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。
視聴率第一主義
民放が視聴率を気にするのは、周知の事実だろう。しかし、NHKでさえも視聴率を非常に気にすると言う。スポンサーなどいないのだから、不思議な気がするが。
関係者に聞くと、NHKのニュース番組でも毎日、前日の放送の視聴率グラフをデスクが眺めて、どこで視聴率が上がったか下がったかで一喜一憂しているという*5。
このような状態では、視聴率が取れない堅いニュースが流しづらくなる。例えば、ある日の『おはよう日本』ではトップニュースから一二分間、サッカーの本田選手のことを特集した。元航空幕僚長田母神俊雄氏はその日の『おはよう日本』を見て「これでは国民が馬鹿になります」と批判した*6。私は初めて、田母神氏の意見に少し賛同したい気分になってしまった。
また他のニュースも安倍首相の発言特集とソチ五輪特集だけであった*7。これではスポーツ報道番組と大差がないのではないか。テレビの政治報道の問題と言うと偏向*8が取り沙汰されるが、そもそも政治や社会問題を十分に取り上げないという問題もあるのだ。
視聴率というものは数字である。思うに、数学が嫌いな人間は多いが、多くの人間は数字の持つ力には弱いのかもしれない。数字は、視聴率は極めて分かりやすい物差しになる。
NHKのデスクが視聴率に一喜一憂するのは、おそらくそれが彼らの出世、評価に関わるからだろう。「視聴率は低いですが、良い番組です」という製作者と「とにかく視聴率は良い番組です」という製作者がいた時、上司は後者を高く評価するのだろう。
どうしてこうなってしまうのか。良い番組かどうかは人によって、評価が異なる。だが、視聴率の高低は事実である。それ自体について議論の余地はない*9。だから、視聴率が高いかどうかで番組を評価すれば、楽には違いない。視聴率を見ていればいいだけなのだから。いわば、判断基準を自分の価値観ではなく視聴率に依拠しているのである。スポンサーがいないNHKでさえ、このような状態に陥ってしまうのは数字というものが持つ魔力の証左に思える。
考えてみれば、本では部数の多さが、ツイッターではフォロワー数やリツイート数が評価の基準や宣伝文句として用いられることがある。数字依存はどのメディアでも言えることなのかもしれない。
偽物の「リアリティ」
関西テレビのローカルニュース番組で、情報提供者の代わりに代役を立てた事件があった。情報提供者がどんな形でも体を映しての出演を拒んだので、代わりにモザイクを掛けたスタッフの姿を流したのだ。ただし、音声は情報提供者本人のものであった。何故こんな行為をわざわざしたのかというと、映像的リアリティーを取材者が追求したためだと著者は推測する。音声だけではリアリティーに欠けるのだ*10。そんな取材者の心理を著者はこう切って捨てる。
つまり取材者は偽物を本物と偽り、「本物のリアルさ」を"捏造"したのだ*11。
偽物のリアリティとでも言えばいいのか。違う観点から考えると、フィクションの世界では偽物のリアリティを構築していくことが往々に求められる。リアリティがないという批判は的はずれなときもあるが、正当なときもあるからだ。しかし、ニュース番組では、偽物のリアリティは不要であるどころか有害である。偽物だということが明らかになった際に、それ以外の部分の信憑性すら疑わしくなってくる。
煩雑過ぎる編集
2012年、大津市いじめ事件報道の際、いくつかの放送事故が起こった。まず、匿名であるべき被害者及び加害者の名前を記した文書がそのまま映し出された事があった。実際に流された時間は僅かなものであったものの。また、文書を黒塗りしたのに元の字が透けて見えてしまったケースもあった*12。
この原因の背景を筆者は以下のように解説する。数分間のニュースを作るためには、何本もの関連映像と何人もの編集者が必要になるという。また、ニュース番組では放送ギリギリに編集するべき映像が入ってくることもある。その過程で、チェックや連絡がうまく行き届かなることがあるというのだ*13。
また、モニターの関係で、モザイクや黒塗りの映像の際、チェックした人間には問題がなく見えることがあるという。家庭用のモニターで見ると、モザイクが甘かったり、黒塗りが透けて見えたりするのに。意外なことにテレビ局の編集用モニターは家庭用よりも解像度がよくないことがあるというのだ*14。
個人的なことで、恐縮なのだが私は細かいことが嫌いな人間である。こうして、記事を書いているときにも脚注をつけたりするのが面倒で仕方ない。どうやってテレビ番組が編集されるのかという著者の説明を聞いているだけで嫌になった。このような状況では放送事故が定期的に起こるのは当たり前である。この部分についてはかなり実務的な内容が書かれており、テレビマンだった著者ならではと言えよう。
終わりに
私があまり詳しくない分野ということもあり、かなり純粋な内容紹介の部分が多くなってしまった。最後に、全体的な印象を書いて終わりにする。冒頭で言ったように、水島はテレビマン出身である。その為、業界内の描写は濃密だが、テレビの未来については楽観的すぎるきらいがあるかもしれない。また、ネットへの対抗意識はありありと伺える。さらに、反権力志向あるいはメディアの権力への監視を重視する人物でもある。人によっては、やはり身内びいきではないかと感じるかもしれない。
とはいえ、著者のジャーナリズムに対する姿勢そのものは真摯だと感じた。だからこそ、やらせや捏造や情報操作が許せないのだろう。仮にテレビの視聴率がこのまま下がり続けても、すぐにはテレビ局の影響力が極めて小さくなることはないはずである。またネットのジャーナリズムもまだ十分に育っているとはいい難い。単に視聴率を追求するのではなく、良質な番組を作ろうとするテレビ業界人が増えることを願うばかりである。
文責 雲葉 零
引用文献
『内側から見たテレビ やらせ・捏造・情報操作の構造』 水島宏明
本稿の引用はすべて同書からであるため、引用部分については書名を略し、ページ数のみを付した。
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*1:裏面の著者紹介欄より。
*2:ちなみに著者は凶悪事件の際に、テレビ出演者が通り一遍のコメントする姿を「許されない」病と評する。著者は、凶悪事件を「許されない」と言うだけでなく、貧困や孤立などの構造的な原因を探るべきだと主張するのだ。私も同じように感じていたので、意見の一致に驚いた。マスコミ批判とテレビの凶悪事件報道がどちらも浅い批判に留まりがちなのは皮肉である
*3:20から21ページ。
*4:21ページ。
*5:53ページ。
*6:50から51ページ。
*7:53ページ。
*8:現在の具体性に即して言えば、安倍政権に批判的であるか、親和的であるか。
*9:統計的な信頼性の問題などはあるだろうがここで言いたいのはそういうことではない。
*10:93から98ページ。
*11:102ページ。
*12:116から117ページ。
*13:123から127ページ。
*14:118から121ページ。