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たまにはこんなコミックレビュー HERO『雨水リンダ』

  おそらく最近では、『ホリミヤ』の原作『堀さんと宮村くん』のひととして有名であるHEROだが、私とHEROの出会い、というか付き合いは、現在単行本として第9巻まで出ている『HERO個人作品集』が主である。このひとの作品、きみに合っていると思うよ、と友人に勧められたことがきっかけだった。

 大きな事件を描くわけではない。この作家の描く物語の主人公は主に学生で、彼/彼女は各々の等身大の悩みを抱えている。語弊をおそれずに言うならば、それを、思春期にはよくある悩み、と言い換えてもよいだろう。そして、物語は教室、家、自室など、主人公のほんの身の回りの空間で進行されており、空気はどことなく閉塞的である。その意味では、よくある思春期の自意識系の話ともいえるかもしれない。

 しかし、それは心内文が饒舌で、ついうじうじしがちなものとは、少し違うのではないか、と私は思うのだ。なにせ、心内文でも、彼/彼女たちは少し口べたのように感じられるのだ。

 ややラフなタッチの絵で描かれ紡がれる物語は、登場人物たちの内面を代弁するのではなく、そっと撫でて、しかしときにちくりと刺す。優しいだけではない。守られているだけでは、ひとは成長しない。刺激が必要なのだ。そんな当たり前のことを、思い出させてくれる。

 彼/彼女らの悩みは、端から見れば些細なものかもしれない。なんでこんなことで深刻になっているんだ、と。しかし、悩みというもの、ひいては世のなかの問題というのは、そういうものではないだろうか。他人の悩みは大抵ちっぽけなものに見え、逆に自分の悩みは、他のだれのものよりも大きく思える。悩みというものは、どうしても内側に向かう性質にあるらしい。わからないことと、わかってもらえないこと。このふたつは、結局同じ。つまり、彼我の差なのだ。

 この差をどう越えていくのか……そんな風な表現で表そうと思ったのだが、これは少し違うな、と思い直す。乗り越えるのではない。その差を意識しながらも、お互いにほんの一部のものを共有すること。そして、そのために必要なのは対話である。これこそが、HERO作品のテーマらしきもののようにも思うのだ。

 この諸短編のなかでHEROの作中人物は、(ほんの一部例外はあるが)わかること/わかってもらうことを通じて、自分をすっぽり覆っていた薄い膜に小さな穴をあけていく。けっして、完全につながるわけではない。当然だ。他人は結局のところ他人なのだから。しかし、そうやってあいた穴からは、まず淀んだ空気がぷしゅぷしゅと少しずつ抜けていき、そしてそれを補うように、外の、つまり他人の異質な空気が入り込んでくる。HEROの登場人物は、個から全、という簡単に大きな物語に回収されるのではなく、あくまで個を保ちながら、しかし対話を通じて、新鮮な空気を作り上げていくのだ。

 ある意味で、HEROの物語は「換気」の物語、と言い表すこともできるかもしれない。「換気」とは言うが、実際の換気がそうであるように、すべての空気がそっくり新しいものに入れ替わってしまうのではない。もともとあった空気も多少は残っていながら、全体としては新しい空気を作り上げるのだ。読後のさわやかさは、ちょうど小春日和の日に部屋の空気を入れ替えた後の、少し肌寒くて、でも心地よい。そんな感じに似ている。

 1ページをたてによっつ、横長の長方形に区切った四コマ漫画のようなシンプルなコマ組のなか、HEROの作品の最後は、(あるいは数あわせのコマなのかもしれないが)一色ベタ塗りのコマが使われる。あまり背景を書き込むことはない(特にこの作品集は、背景が真っ白であることが多い)HERO作品において、こういったコマは視覚的にかなり目を惹く。これは文字通り、彼・彼女たちの世界が、新たな空気を受けて色づいたことを表していると言えよう。

 

 さて、前置きが長くなったが本題に入る。『雨水リンダ』は現在三巻まで出ていて、ガンガンONLINEで現在も連載中の、いわばHEROの最新作である。ここでも、基本的に作品の構図は変わらない。横長の四コマ漫画を並べていくような単純なコマ組みに、トーンも必要最小限しか使っていないんではないか、と門外漢ながらにも思う乏しい濃淡。一見すると物足りない、と思うのが自然かもしれない。(作品集の方はカラー刷であるため、そのすっきりさは作品集をひとつもふたつも上回る)

 手芸部、という名のオカルト同好会を結成して、放課後の廃校舎(やはり閉鎖的空間である)で活動している五人の男女。部員のひとりが古書店で見つけた本に書かれていた「人形の作り方」を実践する。その人形の構成要素となるものを、各々の部員が持ち寄る。「枝」は骨、「布」は皮、「食物」は臓物、「無機物」は声、そして、「雨水」は心。ひとの形に配置した前4つのものに、雨水がぶっかかる。そうして生まれた「人形」は、心である「雨水」を持ち寄った部長のリンダそっくりの容姿の雨水人形、のちに雨子と名付けられるものだった。

 雨子は、容姿はリンダと同じだが、幼子のような言動をする。ただでさえ気味悪がられて活動拠点を廃校舎に追いやられ、看板を偽ってなんとか活動している曰く付きの同好会であり、雨子の存在が明るみに出たら活動ができなくなる。しかし、心の持った人形を壊すこともできない五人は、廃校舎に雨子をかくまうことにするのだった。

 高校を舞台にした作品らしく、やはりこの作品も、主に学生たち、手芸部の五人に雨子、そして風紀委員の小松の恋愛模様を中心に展開されていく。しかし、それは『ホリミヤ』の読者からすると意外に思われるだろうが、『雨水リンダ』の恋模様は淡く仄かなものであって、甘酸っぱさといったものからは、少し離れているかもしれない。もっとも、それにはこのシンプルな構図も関係しているのかもしれないが。

 だれがだれのことが好き、と自己言及的に明言されることはあまりなく、また、大事件として描かれることもない。会話や空気を通して、なかにはほんとうになんとなく、といった感じで分かってくるようなものである。

 リンダにいたっては自分の恋心を自覚できているのかすら疑問で、リンダとどこかで心を共有する雨子が、つたないながらに小松に恋心を抱いて揺れ動くのを近くで見ているとき、リンダは半分は雨子を、そして半分は自分を見ているのだ。しかし、ふたりの想い人は異なる。これをどう考えるか。

 私は、リンダにとって雨子は、限りなく自分に近い他人であり、限りなく他人に近い自分であるような気がする。そしてそれは、やはりリンダの世界に新たな風として流れ込んでくるものなのではないか。廃校舎の一室。閉鎖された空間。リンダの外である雨子が生まれたとき、この閉じた世界には新たな色がつき始める。

 廃校舎の閉じた人間関係に、雨水人形。黴っぽい、埃っぽい、湿っぽい空気。しかし、やまない雨はない、という言葉があるように、雨のにおいは晴れやかな雨あがりの予告でもある。雨があることで、空気は澄む。これもひとつの「換気」の物語ではないだろうか、と私は思う。

 しかし……、とするとこの物語は「雨があがる」方向に進むことになる。雨があがったとき、雨子は――

 

(文責 宵野)