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「宵野春琴伝」~『春琴抄』所感~

 その回数をしっかりと数えたことはないが、私がいままで一番多く再読した小説作品は、おそらく谷崎潤一郎の『春琴抄』である。

 私のことを知っているひとからはしばしば驚かれるのだが、私の谷崎との付き合いは、時間からすればわりと浅い。大学には入って初めて書いたレポートらしきもので谷崎を扱い、それを改良したものをサークルの夏合宿で発表した。

 そんな私が谷崎に出会ったのは、たしかその年の五月下旬あたりだった。そのレポートを読み返してみると、参考文献には『刺青』『秘密』をはじめとして、『痴人の愛』『卍(まんじ)』『盲目物語』『細雪』『鍵』などの作品にくわえ、『陰翳礼讃』『文章読本』などのエッセイも入っていた。移り気な私が、短期間にここまで同じ作者の作品を読むのは、珍しい。

 結局それが乗じて、ついには谷崎を中心のひとつに据えた卒業論文を書いてしまったわけであるが、すべてのはじまりは『春琴抄』である。

 まだ近代小説に抵抗を感じていた私が、まさしくひっくり返させられた作品なので、思い入れも一入なのである。この原稿を書くためにもう一度読んだ。話の流れはもうほとんど覚えているのだが、やはりおもしろい。そう、おもしろいのである。名作と呼ばれている作品や、文学界において評価の高い作品を前にすると、そこにはなにかすごい意味があるのではないか、いや、むしろその意味を読み取らなければならないのではないか、と気負いしてしまう私のような小市民が、とにかく、これはおもしろい、と感じたのだ。これは、ある意味では私のパラダイムシフトだったかもしれない。

 

 さて、そこでこの論考では『春琴抄』について、私が感じていることや好きな場面を、少し落ち着いて考えてみようと思う。

 まず、簡単にあらすじを紹介しよう。

 語り手である「私」は、三味線の技量と美貌でその名を知られた盲目の春琴と、その付き人である佐助との関係に興味を持ち、ふたりの墓を訪れる。春琴の死後、佐助の監修で編まれた「鵙屋春琴伝」、晩年のふたりに仕えた子女、鴫沢てるの話などを参考に、推察を重ねながらふたりの物語を語っていく。

 幼くして視力を失った春琴は、卓抜した弦楽器の技量を発揮しながらも、気難しい性格に育っていく。そんな彼女に唯一まめまめしく仕えることができた奉公人の佐助は、春琴への憧憬をたくましくし、独学で三味線を練習するようになる。それを乗じて、ふたりは師弟関係となる。あまりにも手厳しい春琴と、どんな仕打ちにも甲斐甲斐しく耐えて春琴に付き従う佐助。やがて恋仲をただよわせるようになるふたりだったが、事件が起きる。ある日、春琴は寝込みを襲われ、顔に鉄瓶の熱湯を浴びせかけられたのだ。わての顔を見んとおいて。そう訴える春琴を目の当たりにし、佐助は針で自分の両目を突いて、自らも盲目の身となる。ついに春琴と同じ境地に達した佐助。お互いに盲目となったふたりは、それでも夫婦関係を結ぶことなく過ごし、春琴が亡くなった二十一年後、春琴の祥月命日に佐助もこの世を去る。

 俗に「日本回帰」といわれる時期の谷崎の代表作のひとつであるこの作品は、舞台が幕末から明治期でありながら、どこか江戸の空気に満ちている。「鵙屋春琴伝」は、いまのところ実在しない書物であり、春琴も佐助も、おそらく谷崎の空想上の人物であろう。いまになって思えば不思議なことだが、私はこの作品を読んだとき、これが実在する物語なのかそうでないのか、ということにまったく意識が向かなかった。これは何度再読しても同じで、作中には「佐藤春夫」だったり「私の見た大阪及び大阪人」だったり、現実の谷崎と親交のある人物や、谷崎本人の随筆の名前が出てくるにも関わらず、作者である現実の谷崎の存在が希薄なのだ。それだけ、物語にのめり込んでいる、ということなのだろうか。

 それはともかく、やはりこの作品を語るうえで欠かせないのが、句読点の少ない、というより省いたと言った方がよい、特徴的な文体である。せっかくなので、どこか適当な場所を抜粋してみる。

 

すると春琴が曰くもう温めてくれぬでもよい胸で温めよとは云うたが顔で温めよとは云わなんだ蹠に眼のなきことは眼明きも盲人も変りはないに何とて人を欺かんとはするぞ汝が歯を病んでいるらしきは大方昼間の様子にても知れたり且右の頬と左の頬と熱も違えば脹れ加減も違うことは蹠にてもよく分る也左程苦しくば正直に云うたらよろしからん妾とても召使を労わる道を知らざるにあらず然るにいかにも忠義らしく装いながら主人の体を以て歯を冷やすとは大それた横着者哉その心底憎さも憎しと。春琴の佐助を遇すること大凡そ此の類であった分けても彼が年若い女弟子に親切にしたり稽古してやったりするのを懌ばず偶ゝそういう疑いがあると嫉妬を露骨に表さないだけ一層意地の悪い当り方をしたそんな場合に佐助は最も苦しめられた(五十二-三頁)

 

 ここだけ見せられると面食らうだろう。私も最初は、こんな文章読めないぞ、とふて腐れていた。しかし、これが最初から追っていくと案外ちゃんと読めるのだからおもしろい。谷崎の文章力のなせる業か。実際、谷崎の随筆は非常に読みやすい。

 しかし、それにしても引用したこの一節は、驚異的だ。なにせ、句点がひとつしかない。読点に至ってはひとつもない。作文としては零点を通り越して、採点不可能といったところだろう。

 さて、しかし谷崎はなぜこのような文体にしたのだろうか。わざわざ読みにくくすること。なるほど、一理ありそうだ。たとえば『陰翳礼讃』のこんな言葉が思い出される。

 

私は、われ〳〵が既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。(『陰翳礼讃』中公文庫 改版二十四刷 六十五頁)

 

 谷崎が『陰翳礼讃』で述べていることを簡潔に表すと、日本には間接的な美というものが根付いている。自分はいま、そういったものに愛着を感じているのだ。そんなところだろうか。間接の美。あるいは、迂遠の美学と言い換えてもいいだろう。わかりやすい喩えをあげると、障子の光だ。障子を通して入ってくる光は、和紙によって和らげられた光である。あるいは屈折もしているかもしれない。文章の世界でこの効果を生じさせると考えたときに、この『春琴抄』のような文体、というものがひとつの方法として考えられる。

 この回りくどい文章を読むとき、読者は自然と頭のなかで句読点を補って読んでいる。ときには、あ、ここには句点が入ったのか、と後から気づき、遡って読むこともある。この迂遠さが、結果的には文章を味わい深いものにする。これは「陰翳美」のひとつと言えよう。似たようなものとして『盲目物語』のひらがなだらけの文章も考えられるだろうが、ここでは紹介程度にとどめておく。本題は『春琴抄』である。

 この読み方は、関西移住以降の谷崎文学を読むうえで非常に汎用性の高いものである。もう大分手垢のついた読み方かもしれないが、私は好きだ。それに、手垢のついたものは谷崎が『陰翳礼讃』で称賛しそうなものである。まあこれは冗談として、手垢がついたからといって、悪いわけでもあるまい。

 ところで、私は何度か読むなかで、ひとつのことに気づいた。というよりも、気づかないでいたことに気づいた。*1それは、この特徴的な文体が、作品の冒頭あたりではそうなっていない、ということだ。たしかに一文が長めではある。しかし、句読点はしっかり入っている。論より証拠、ということで、冒頭の文章を引用してみる。

 

春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。先達通りかかりにお墓参りをする気になり立ち寄って案内を乞うと「鵙屋さんの墓所はこちらでございます」といって寺男が本堂のうしろの方へと連れて行った。見ると一と叢の椿の木かげに鵙屋家代々の墓が数基ならんでいるのであったが琴女の墓らしいものはそのあたりには見あたらなかった。むかし鵙屋家の娘にしかじかの人があった筈ですがその人のはというと暫く考えていて「それならあれにありますのがそれかも分りませぬ」と東側の急な坂路になっている段々の上へ連れて行く。(五頁)

 

 どうだろうか。さきほど引用した文章と比べると一目瞭然、明らかに読みやすい。これはもちろん、句読点の有無もそうなのだが、細かいところをみると、寺男の言葉をかぎ括弧でくくっているなども大きい。さきほどの文章では春琴が長い台詞をしゃべっているのだが、かぎ括弧がなく、唐突に地の文に戻っていく。ましてや、現代の一般的な小説は、台詞をかぎ括弧でくくって、改行するのが普通であろう。それと比べると、先の文章はなお読みにくい。

 作品を通してこの調子であったのならわからないこともないのだが、しかしなぜか最初だけはまだ普通の文章に近い。それがだんだんと、特徴的な文体へと変わっていくのだ。なぜだろうか。それを考えるうえで、物語の内容、あるいはテーマが関係してくるのではないか、とあるときふと感じた。

 そのテーマとは、「模倣」である。*2

 まずは物語内容での「模倣」。たとえばそれは、佐助が押入れに入って真っ暗ななかで三味線の練習をすること。

 

しかし佐助はその暗闇を少しも不便に感じなかった盲目の人は常にこう云う闇の中にいるこいさんも亦此の闇の中で三味線を弾きなさるのだと思うと、自分も同じ暗黒世界に身を置くことが此の上もなく楽しかった後に公然と稽古することを許可されてからもこいさんと同じにしなければ済まないと云って楽器を手にする時は眼をつぶるのが癖であった(二十五-六頁)

 

 そもそも、佐助は楽譜なども持っていない。稽古をしている春琴の演奏を思い出しながら、それを真似するように練習していた。春琴と師弟関係になると、彼女の厳しい指導を受ける。思えば、指導を受ける、というものも、教え手の言葉をその身を以て体現することである。つまり、春琴は佐助に、私の言うことを真似ろ、としつこく言いつけているのだ。*3

『春琴抄』のテーマといえば、サドマゾについて言われることも多い。しかし、このサドマゾも、「模倣」のテーマの一部に過ぎないのではないか、と考えることもできよう。そもそも、春琴と佐助はサドマゾ関係にある、と言われるが、それは現在想像されるサドマゾとは少し事情が異なる。師弟関係の延長としてみるべきものではないか。春琴は、佐助に自分の行動や心情を察して、自分の求めるように行動することを求めているのだ。それを、訓練の進化形、調教、と言ってもいいだろう。

 

手曳きをする時佐助は左の手を春琴の肩の高さに捧げて掌を上に向けそれへ彼女の右の掌を受けるのであったが春琴には佐助というものが一つの掌に過ぎないようであった偶ゝ用をさせる時にもしぐさで示したり顔をしかめてみせたり謎をかけるようにひとりごとを洩らしたりしてどうせよこうせよとははっきり意志を云い現わすことはなく、それを気が付かずにいると必ず機嫌が悪いので佐助は絶えず春琴の顔つきや動作を見落とさぬように緊張していなければならず恰も注意深さを試されているように感じた。(二十二頁)

 

或る朝の日の午後に順番を待っている時うしろに畏まって控えていると「暑い」と独りごとを洩らした「暑うござりますなあ」とおあいそを云ってみたが何の返事もせず暫くすると又「暑い」という、心づいて有り合わせた団扇を取り背中の方からあおいでやるとそれで納得したようであったが少しでもあおぎ方が気が抜けるとすぐ「暑い」を繰り返した。(二十三頁)

 

 どうにも困った性格をしている春琴であるが、これも教育といえば教育だ。春琴に仕えている間、佐助は春琴に全神経・全感覚を研ぎ澄ませることを余儀なくされる。ここで、春琴は佐助になにを求めているのか。究極、「私を見て! 私の心を見て! そして、私の望むように動いて!」ではないだろうか。これは春琴をデフォルメしすぎだろうか。しかし、事実、私にはそう思えたのだから仕方がない。そして、その究極的な結果が、

 

過日彼女が涙を流して訴えたのは、私がこんな災難に遭った以上お前も盲目になって欲しいと云う意であった乎そこまでは忖度し難いけれども、佐助それはほんとうかと云った短かい一語が佐助の耳には喜びに慄えているように聞えた。(八十頁)

 

と総括される、自分の眼に針を突き刺すという佐助の行為であるのだから、とんだ因果、といったものか。春琴の世界に憧憬を抱き続けた佐助は、ついに春琴の盲目の世界に自ら入り、そして同じ祥月命日に至るのである。まさに、春琴との同化。これは、調教以上の結果だ。事実、この出来事以後、あれだけ頑なだった春琴はだいぶ折れ、佐助との結婚に傾いていたのだが、むしろ佐助の方がそれを拒むのである。

 気難しい困ったちゃん春琴の是非は置いておいて、話を進めよう。

 さらに、この「模倣」のテーマは小道具にまで及ぶ。春琴の趣味である鳥。なかでも春琴が愛する鳥が鶯である。作中によると、良い声で鳴く鶯を育てるには、まだ尾が生えないうちに、素晴らしい鳴き声をもつ鶯を師匠にして傍において稽古させることが必要だという。ここでも「模倣」が求められる。しかも、師匠という言葉。佐助に自分のことを「お師匠様」と呼ばせていた春琴。まさに春琴と佐助の関係ではないか。ここまでくると少しあざといのでは、と思わないでもないが、それも、この短さだからこそできる技なのかもしれない。*4

 ここまできて、やっと文体における「模倣」について話すこともできよう。

 この作品の多くは、「鵙屋春琴伝」に依っているところが大きい。文章体で書かれている、というこの書物は、もう明治に入ってから書かれたものであるから、文語体であるとはいえ、現代の人間でもいちおうは読めるだろう。

 ここで、やや突飛ではあるかもしれないが、もともとこの文体が用いられていた古文というものを考えてみたい。一般的に教科書で習うような古文は、適当に句読点が打たれていて、学生が頭を悩ませるのは単語や文法レベルのものであろう。しかし、平安時代などの時代の原本にあたればわかることだが、本来、この手の文章に句読点はなかった。当然、かぎ括弧もない。

 つまり、この特徴的な文体は、いまの時代からすれば(おそらく『春琴抄』発表当時からしても)奇異なものとして映るが、古文の世界ではあたりまえだったものだ。あるいは、一文が長い。古文の文体を用いて書かれた文章は、「鵙屋春琴伝」の感じの「模倣」である、なんて言えないものだろうか。もしこの仮定に一定の説得力があるとすれば、なぜ冒頭の文章はわりと普通なのかも説明がつけられよう。

 つまり、冒頭はまだ、「私」の紀行文の域を出ていない。「鵙屋春琴伝」を参照して春琴と佐助の物語を形作っていく前である。だから本筋とは異なり、まだ一般的な文章なのである、と。そして、語り手が物語に入り込むにつれて、その語りも、過去に溶け込んでいくのである。

 そういえば、この作品は結局、終始、「と思われる」「ではないか」「と推測される」といったような、「私」の推測でしか語られない。そもそも、肝心の「鵙屋春琴伝」ですら、佐助の脚色が入っていると思われ、内容を鵜呑みすることはできない、と言われているのである。だから、これは「私」の壮大な妄想話、と言えないこともない。くわえて、この「私」は明確に作家である。作家は、物語を作る、虚構を作ることが得意だ。虚構を作る。そのとき、私には作中の、こんなが文が思い起こされた。

 

畢竟めしいの佐助は現実に目を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがある(…)佐助は現実の春琴を以て観念の春琴を喚び起す媒介としたのであるから(後略)(八十六頁)

 

斯くて佐助は晩年に及び嗣子も妻妾もなく門弟達に看護されつつ明治四十年十月十四日光誉春琴恵照禅定尼の祥月命日に八十三歳と云う高齢で死んだ察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げ愈ゝ鮮かにその姿を見ていたであろう(九十一頁)

 

 極端な話、「私」の物語り方は、この佐助の現実に対する態度の模倣でもありそうだ。現実と虚構の境目が溶けて、微妙に混ざり合う。語りも同様だ。この物語はたしかに「私」の頭のなかの産物である。にも関わらず、物語も中盤に入ると、この「私」の存在感がどこか希薄になっていく。現実と虚構。佐助と「私」。過去と現在。さまざまな境界が溶けて、この切れ目があやふやな文章へとつながる。

『春琴抄』は「模倣」の物語である。そこではあらゆる境界が溶けて、並列に語られる。あらゆる手管を尽くして虚構が現実と溶け合ったとき、それは単なる俗流リアリティ*5を超えた、小説のひとつの達成点であるのかもしれない。

 これは蛇足かもしれないが、明確に現実の谷崎を模している「私」を使ったことを、谷崎なりの私小説批判、と取ることも可能かと思われる。つまり、現実の作者を思わせる「私」を用いながら、まったく現実の感じを出さない、非常に物語性に富んだ作品を作り上げる。『吉野葛』でもっと露骨にやってみせたこと*6を、さらに巧妙に表現した。だとすればあっぱれ、と拍手を送りたいが、しかし、これもまた、私の誇大妄想か。

 

 さて、ここで終わってもいいのかもしれないが、『春琴抄』については、もう少し語ってみたいことがある。それは、なんといっても春琴の「キャラ」としての側面である。偉大な近代小説を、それも「大谷崎」の代表作をキャラ読みするとは、なんて罰当たりな、と、むやみやたらに「文学」に畏怖していた過去の自分なら、と自ずから自制していたかもしれない。しかし、何度読んでもやっぱり春琴はかわいいのである。いま風にいえば(もはや死語かもしれないが)「萌え」る。

 まず、春琴は明らかに、いわゆるツンデレだ。それは、いまや典型的な萌え要素である。ツンデレにもいろいろ種類があって、起源からすると、「みんなのまえだとツンツン、ふたりっきりになるとデレデレ」というのが本来の定義らしいのだが、いま、そういった意味で使っているひともそういないだろう。そして、春琴は、現在的な意味でのツンデレである。いつもはツンツンとつれない態度を取るけれど、内心は慕っていて、ときどきデレる。現にこの子は、佐助がほかの女の子に構うと機嫌を損ねるのである。このような設定、いまどきラブコメ作品でやろうものなら、テンプレテンプレの大合唱の嵐である。

 あるいは、その容姿について。

 

彼女が小柄だったことは前に書いたが体は着痩せのする方で裸体の時は肉づきが思いの外豊かに色が抜ける程白く幾つになっても肌に若々しいつやがあった(五十頁)

 

 これで、(佐助にとっては)年下、令嬢、盲目、音楽の天才、ツンデレ、Sっ気あり、なのだから、いくらなんでも萌え要素を詰め込み過ぎだろう。絵師さんに頼めば、きっと大変魅力的なキャラクターを描いてくれるに違いない。たぶん、盲目なので眼はつむっているのは当然として、意地の悪そうな薄ら笑いを浮かべ、扇かなにかで小さく口を覆っていると思う。個人的には、『μ&i』(集英社)という漫画の時雨(σ)というキャラなんか、わりと近いんじゃないか、と思わなくもない。ともかく、「データーベース理論」(東浩紀)*7はこの時代にもあったのか、なんて与太ごとも口をついて出ようものだ。

 それと、ふたりの出会いの年齢。春琴九歳に、佐助十三歳。手曳きの人間を「佐助どんにしてほしい」と春琴がいったのが、佐助十四歳のとき(なので、春琴は十歳か。もっとも時代を考えると、作中の年齢は数え年のことを言っているのだろう、とは思うのだが)。佐助を指名した理由を尋ねられ、「誰よりもおとなしゅうていらんこと云えへんよって」と言ってはいるが、果たしてそれは本心なのかどうか。のちの展開を考えると、あやしいものである。

「鵙屋春琴伝」によると「(…)春琴の父安左衛門も遂に之を許しければ佐助は天にも昇る心地して丁稚の業務に服する傍日々一定の時間を限り指南を仰ぐこととはなりぬ。斯くて十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今又師弟の契を結びたるぞ目出度き」。「私」が言うように、「鵙屋春琴伝」には佐助の意向が多分に込められていると思われるので、これを鵜呑みにすることはできない。それにしても、これはすごい。年下の少女にいじめられる少年。しかも師弟関係。なかなか妖しい設定だ。これだけでも、もう単純におもしろい。だからこそ好きな作品なのだ。

 文学作品は、芸術のひとつに数えられることが多い。しかし、同じく芸術とされる音楽や美術とは異なり、文学の作品の評価基準として最初に出てくるのは、おもしろいか、おもしろくないか、である。元来、小説とは庶民のために読まれたものなのだ、と『饒舌録』で主張する谷崎らしく、小説の大衆的側面を見逃していない。

 ここで、個人的に春琴の萌えポイントと思われる箇所をピックアップしてみる。まずは、不埒な色男、利太郎に迫られたときのこと。ちなみに、佐助は利太郎の悪知恵で春琴から離され、酒の席で足止めを食らっている。

 

食事を済ませても暫く呼びに来ないので其処に控えていた間に座敷の方でどういう事があったのか、佐助を呼んで下されと云うのを無理に遮り手水ならばわいが附いて行ったげると廊下へ連れて出て手を握ったか何かであろう、いえいえ矢張佐助を呼んで下されと強情に手を振り払って其の儘立ちすくんでいる所へ佐助が駈け付け、顔色でそれと察した。(六十八-九頁)

 

 やだ、佐助じゃなきゃやだ! そんな風に言っているように思われてしかたないのは、いくらなんでも私がいまのアニメや漫画の世界に慣れすぎているのか。しかし、この「顔色」とは、いったいどんな表情のことを指しているのだろうか。立ちすくんでいたのだから、春琴はかなりこの状況を怖れていて、佐助の足音、声を聞いて、すがるように見たのではないか、なんて思う。

 この直後にも、春琴が、稽古にきていた少女の顔に傷をつけてしまい、その父親に怒鳴り込まれたときの挿話が語られてる。手を出さんばかりに迫ってくる父親の剣幕に、佐助が割って入って事なきを得たのだが、このときも表面上は毅然と振る舞っていた春琴であるが、「真っ青になって慄え上り沈黙してしまった」のである。普段は、あんなにわがままで強気であるにも関わらず、だ。これはギャップ萌えか?

 次は、そのギャップ萌え+ツンデレの極地であろう。場面は、佐助が自分の眼を針で刺して、「お師匠様私はめしいになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬ」、と春琴に告げにきたところ。

 

佐助痛くはなかったかと春琴が云った(八十一頁)

 

 こんな私の顔をあなただけには見られたくない、という自分の真意をくみ取ってくれた佐助への感謝の気持ちを言っている。たしかにそれだけではあるのだが、忘れてはならないのは、佐助は一言も、自分で針を突き刺した、とは言っていないことである。「私はめしいになりました。」これだけである。その後も、祈願を掛けたら神様が憐れんでくれた、と言うし、「鵙屋春琴伝」には白内障を患ったとしか書かれていない。このエピソードは、春琴の死後、佐助が側近者(おそらく鴫沢てる)に語ったことによって明らかになった経緯、とされている、だけのものだ。

 私を見て、私の心を見て、と暗に言い続けてきた春琴は、とうとう、自分から佐助の心を見たのだ。外見上はともかく、内面では上下関係は壊れている。そして、だいぶ、心を開いている。

 いつも素気ない態度ばかりをとっていた春琴。佐助痛くはなかったか、と佐助を気遣う言葉は、可憐な春琴というギャップ、そして、デレである。俗っぽい言葉を使うなら、このとき、春琴は佐助に落ちた。

 

滑稽な事は佐助が弟子に教えている間春琴は独り奥の間にいて鶯の啼く音などに聞き惚れていたが、時々佐助の手を借りなければ用の足りない場合が起ると稽古の最中でも佐助々々と呼ぶすると佐助は何を措いても直ぐ奥の間まへ立って行ったそんな訳だから常に春琴の座右を案じて出教授には行かず宅で弟子を取るばかりであった。(八十五頁)

 

 これはもう、デレッデレである。特になにがいいか。「佐助々々」である。「佐助」じゃない。「佐助々々」なのだ。頼りにしている感じが、よく出ている。もちろんここだけ見てもいじらしいのだが、ここに来るまでの春琴のツンとした言動を思うと、もはやなにか、ひとつの達成感がある。

 この物語は、身分違いの関係のなか、ヒロインの危機に際し、主人公のからだを張った行動により、頑ななヒロインの心を溶かす、というひとつの恋愛小説として読むこともできる。もっとも、それにしてもこれはあまりにもからだを張った、命がけの恋愛ではあるが。

 谷崎作品を漫画・アニメ化したとき、いま一番受けるのはこの『春琴抄』だと私は思うのだが「読者諸賢は首肯せらるるや否や」。

 

 さて、改めてこの論考を読み返してみると、最初に私は、「さて、そこでこの文章では『春琴抄』について、私が感じていることや好きな場面を、少し落ち着いて考えてみようと思う。」なんて言っているのだが、果たして落ち着いていたかどうか、これは自分でも甚だ疑問だ。

 ひとつ明らかなのは、私はこれからもきっと、この『春琴抄』を何度もひもといては、楽しく読み返すのだろう、ということである。

 

(文責 宵野)

 

 ※引用は、特に断りがない限り、『春琴抄』(新潮文庫 百二十刷改版)から

※本稿は、第二十五回文学フリマ東京にて頒布したフリーペーパーのものを一部改稿したもの。(脚注についてはすべて、今回にあたって加筆した)

*1:まったくもって余分な脚注であるが、これこそが再読の愉しみである。

*2:これに気づいたのも、だいたい3回目の再読だった気がする。

*3:「学ぶ」が「真似ぶ」に由来している、という学校古文の知識を持ち出すまでもないであろう。

*4:しかし、私がこの「模倣」の読み方に気づいたその入り口は、この鳥についてなのである。

*5:思いつきで使ってしまったこの単語だが、大雑把な定義を示すと、リアルなことを書いているからリアリティがある、といったような言説、であろうか。これは暴論かもしれないが、個人的に、新海誠作品の背景は精密になりすぎたのではないか、と感じている。しかし、これは『君の名は。』のストーリーや舞台、設定の通俗性(私はいま、この言葉を批判的には使っていない。念為)を考えると合っているのかもしれない。「これは本当の話である」という事実(あるいは了解)を前提として私小説が安心して読まれた背景と同様、アニメーション(二次元)であるが、そこに現実の新宿(三次元)を精密に撮すことで、ひとはそこにリアリティ=現実っぽさを感じ、感情移入(あまり好きな言葉ではないが、共感、とも言えるだろう)がしやすくなるのかもしれない。そして、私自身、新宿御苑をかなり精密に描いた『言の葉の庭』ではその違和感を覚えなかったのだから、我ながら勝手なものである。もっとも、この話では舞台が東京であることがそこまで強調されていなかった、ということもあるかもしれない。

*6:簡潔に言うと、明らかに谷崎本人を思わせる語り手による紀行文のような文体、つまり私小説的な語り口を用いて、非常に物語性に満ちた物語を構築していく、といったようなもの。横光利一の言葉を借りれば、そこには「偶然」と「感傷」が満ちている。

*7:ここでは、春琴というひとりのキャラが、「ツンデレ」「Sっ気」など、作り手と受け手に共有された(まさに)要素化された属性の組み合わせ(萌え要素)でできている、ということ。東のこの理論は、大塚英志の「物語消費」の考えを発展させたものと言えるが、その新しさは、受け手が文字通り目の当たりにする物語の、その背後にあるこれをシミュラークルされた要素の集まりで、非物語であるとしたことにある。詳しくは『動物化するポストモダン』を参照