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文学を歩む~明治五年「かたわ娘」福沢諭吉

  福沢諭吉、と言えば、「学問のすゝめ」などの啓蒙書の方で有名だろう。そんな福沢の、これは小説といっていいのか分からない、おそらく寓話とでも言うべき掌編、「かたわ娘」を読んでみよう。

 題名が題名なだけに、初回で取り上げるのに多少悩まされた。念のため説明すると、「かたわ」とは、身体の一部に欠損があるひと、いまでいえば身体障害者を示す言葉だ。現在は「差別語」とされているものであり、それに「身体障害者」という言葉もあるのだから、差し迫った必要がなければ(そのような必要がいつ現れるのかは大いに疑問であるが)わざわざ使わない方が無難だろう。

 タイトルから、この作品で、福沢諭吉は障害者をバカにしている、と考えるのは早合点もいいところだ。だったら安心か、といえばそれも早とちりで、ある意味では、もっと過激だ。なにせ、日本人の女性の風習を「かたわ」と揶揄しているのだから。

 

 これは本当に短い作品なので、あらすじを一気に説明してしまおう。

 

 ある裕福な家に、容姿のすばらしい女の子が生まれた。ただ一点、眉毛がないことを除けば。いや、それだけではなかった。生えてくる歯が、墨で塗ったように真っ黒だったのだ。小さい頃は、それでもそこまで大きな話題になることはなかったのだが、十四歳にもなると、近所でうわさになるようになる。眉毛がないのは「癩病」の血筋だからだ、とか、黒い歯の娘が生まれたのは、近所のひとが借金を申し込みにいったとき、白い歯を見せていた、その因果のせいだ、とか、眉毛は天から与えられたもので、それがないということは、天から見放された罪人なんだ、とか、とにかく後ろ指を指されながら、娘は生きていた。ところが、二十歳になると、もう娘のことは話題にならなくなっていた。行く末を心配していた両親も、安心して隠居し、娘も、良家に嫁いでいた。なぜか。それは、大人になると、女性はみな、眉を剃り、お歯黒をつけるからだ。当然、娘の眉と歯も、目立たなくなる。むしろ、みなは時間とお金をかけてしなければならぬそれを、しなくてもいい。かえって楽だ、と喜ぶくらいだった。

 日本の女は、わざわざ「かたわ」になろうとするのだから、愚かなものだ。こう言って締める。

 その最後の部分だけ、引用しておこう。(適宜、旧字を新字に改め、現代仮名遣いを用いる。)

 

実に不思議なるは世間の婦人なり。髪を飾り衣装を装い、甚だしきは借着までしてみえを作りながら天然に具りたる飾をばおしげもなく打捨て、かたわ者の真似をするとはあまり勘弁なことならずや。まして身体髪膚は天に受けたるものなり。漫りにこれに疵付るは天の罪人ともいうべきなり。(「かたわ娘」)

 

 「天の罪人」はちょっと言い過ぎではないか、と思わないでもないが、ともかく、寓話として、素直におもしろい、と思った。なにより、わかりやすい。啓蒙、という意味においては、それも重要な要素だろう。

 同時に、「女性が化粧をするのは、そうしなければならない社会があって、それを求める男の視線が内面化されているからだ。女性が能動的におこなっているわけではない。こんなもの、男の身勝手な言い分だ」という声が、どこからか聞えてきそうだ。まあ実際、そうなのかもしれないけれども。

 しかし、所詮は明治五年のものだから、と簡単には片づけることができないのも、また事実かもしれない。眉を剃る、という行為はいまでもあるし、お歯黒はなくなったが、それもべつの形の化粧として残っているに過ぎないだろう。衣装についても、たとえば、歩くのにも不便しそうなハイヒールや、時宜にはおよそ合わないであろうミニスカートやホットパンツ(つい最近まで、あれを「短パン」と呼んでいたら怒られた。もっとも、あれのどこが「ホット」なのか、いまだ私には分からない。まあたしかに、下着のパンツと考えれば、それは「ホット」なのかもしれないけれども)*1などが当てはまるかもしれない。ある種、普遍的なテーマになっているのだ。

 しかし、髪形や服を気にしてお金をかけるのは、なにも女性に限らない話であるし、逆に言えば、女性だからといって、みながそうという訳でもあるまい。

 まあ、とはいえ、そんなことまで考えていては寓話はなかなか成り立たないのだから、そこはよしとしておこう。

 ただ一点、気になるところがある。福沢は、有り体に言ってしまえば、これを文明が発展している西洋と、遅れている日本、という対比のひとつとして描いている。外国だったら、この娘は一生苦労したろうに、日本だからよかった、と皮肉で言っているのがその証拠だ。しかし、そんな単純な問題だろうか。

 たしかにお歯黒をしている西洋人はいなかったかもしれない。歯が真っ黒の日本人をみて、当時の西洋人は驚いたことだろう。だったら西洋の女性は、日本人がするお歯黒に代わるものを一切持たなかった、と言い切れるのだろうか。そこは大いに疑問である。単なる文化の違いにしか過ぎない事象、しかも同じ根源から発生しているかもしれない事象について、優劣をつけること。これは、さまざまな水準で、いまだによく見られることである。*2

 過剰な西洋賛美の感も見られるが、風刺としては、わかりやすくてなかなかの完成度かもしれない。それが、現在の社会においても通じるところがあるのもいい。寓話とは、こういった普遍性があるべきだろうから。また、このような寓話が現れるようになったことにも、日本に西洋文明が入り込んできたこと、そして文明開化のうねりが表れているのかもしれず、ただの皮肉話で終わらせてはもったいない作品である。

 

 余談であるが、日本人女性の風習を「かたわ」と表したこの作品を読んで、私が個人的に思い出したのが、岸田国士の『日本人畸形説』(1947年)である。これもまた衝撃的な題名であるが、なかなかおもしろい。恋愛についての件など、自分は特に好きだ。そのなかでもひとつ、「日本に生れた以上は」という文章のなかから、今回のテーマにも関わってきそうな彼の言葉をひとつ、引用したい。

 

 日本は世界の他の国に比べて、善いところもあり、悪いところもある。(中略)なんでもないことを、優れているように思い込み、または思い込ませ、それによって自尊心を撫でまわしているやり方は、笑止千万であり、愚劣の骨頂である。

 それと同時に、日本の悪いところを、さも手柄顔に取りたてて、これだから日本は嫌いだというのも少し早すぎる。そういう自分にも、その悪いところがあるのを忘れていそうだからである。それから、人間ならどこの国の人間でももっている弱点のようなものと、日本人のみが特に、その長所と共にもっている弱点とを区別して、その各々に対する批判と対策を誤らぬようにせねばならぬと思う。(「日本に生れた以上は」)

 

 とりあえずのところ、この言葉を福沢諭吉に送っておくことにしよう。しかし、福沢諭吉は明治初期にこれを書いている。それを忘れてはいけない。福沢諭吉ほどの人物がいまの世に生まれていれば、この程度のことには自力で気付いたと思う。

 後の世に生まれた、ということは、もうそれだけで立派なアドバンテージである、ということもできる。勉強をすること、歴史を学ぶこと、そして本を読むこと。これは、そのアドバンテージをできるだけ活かすためにも大切なことなのだ、と私は信じている。当然のことながら、いつもそんなことを考えながら本を読んでいるわけではないけれども。

 

 おそらく、「かたわ娘」はこの時代にしては相当読みやすかった方だと思われる。次はどうしたものか、と頭を悩ませている。あるいは、いきなり坪内逍遥に飛んでいる可能性もあるが、その点はご容赦願いたい。

 

底本  『現代日本文学全集 第一篇』改造社 山本三生編 昭和6年

 

参考文献『日本文学大年表 増補版』おうふう 市古貞次編 平成7年

    『日本教養全集 17巻』角川書店 昭和50年

 

(文責 宵野)

*1:余談も良いところだが、あらためて「ホットパンツ」について、英訳なども調べよう、と思い、検索エンジンに「ホットパンツ」と打ち込んでみたところ、サジェストの上のほうに「ホットパンツ 小学生」とでてきた。いつもはあまり言わないようにしているのだが、この国もおしまいかな、と思った次第である。

*2:ひとつ例を挙げると、私は「日本すごい!」系の番組や書物があまり好きではない。根底に、その種の優劣関係の意識(あるいは無意識)が見えてくるのだ。同時に、「日本のここが悪い。欧米はもっと進んでいる。」的な言説にも、首を傾げる。欧米は先進的で正しい、という先入観というか、公理のような意識が透けて見える。

「外国(この言葉はその実、アメリカと西欧くらいしか示していない)は、発達障害に理解がある。日本のような差別や偏見はない。日本はいまだムラ社会だ」といったようなことは、たぶんTwitterなどであふれていると思う。いくつもつっこみポイントはあるが、百歩譲って、それが正しいとする。しかし、おそらくはその権化として想定されているアメリカ、その現状はどうだろう。この時代になっても、肌が黒い、という理由で白人警官に殺される、などという事件が起っているではないか。これが差別でなければ、いったいなんなのか。発達障害も肌の色も、生まれつきのもの、つまり、自分の力では変えられないもの、という点では変わりがない。

全体、とまでは言わないが、その周辺事情さえも見ずにしてアメリカと日本の差別と偏見について語ることは、姑息なレトリックである。姑息、つまり一時しのぎに過ぎないのだが、しかし、そこで思考停止するひとは、その一時しのぎの罠に気付くまでもなく、乗せられる。そしてこの種の言説は、分かりやすく、そして魅力的なものに思えてくるのかもしれない。

聞く者、見る者に深く考えさせる必要などない。「日本死ね」と言っておけば、まあ手っ取り早く怒りを煽ることができるのだろう。