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『あいくるしい』歌詞考察、もしくは鑑賞?~言の葉をかき分けた先には~

  私はこれまで、歌詞の考察といったものをしたことがほとんどない。いまだ詩をちゃんと読めない人間、ということもあり、歌詞考察というものはどうにも私の領分にはないのではないか、と逃げてきたところもある。

 ではなぜ、いまから『あいくるしい』という、いまでは有名になったが、もともとはアニメのDVD/BDに同梱されているCDの収録曲であったこの曲について考察めいたものをしようとしているのか。それは単純かつ強引で、歌詞のなかのひとつの単語からあるひとつのイメージと言葉が浮かび、そうすると、それまで聴いていた曲が、まったくとは言わないまでも、大きく色を変えて聞こえてくるようになった。その感動をせっかくなら書き残しておきたい、と思ったからだ。*1

 

 『あいくるしい』は、元々は、アニメ『アイドルマスター シンデレラガールズ』のDVD・BDの五巻に付属している特典に収録されているオリジナル楽曲である。佐久間まゆと小早川紗枝がしっとりと歌い上げるこの曲は、ひらがなの『あいくるしい』という曲名からして、「愛くるしい」「愛・苦しい」「愛・狂しい」「哀・苦しい」「相苦しい」など、幾通りの字のあて方が考えられる。*2

 

 以下、考察に入る。(かぎ括弧内は歌詞からの引用)*3

 

 さて、素直に読むと、これは失恋の歌である。

 一番では、想い人に出会って変わった自分、二番では「思い出」や「眠り夢の中で/何度抱きしめただろう」、そして「あなたの気持ちなんて分かってるつもりだよ」と、感傷的な気分が高まってくる。そして、やはり重要なのはこのCメロで、「「やっぱ君は最高のトモダチだ」と/あなたが笑うから/笑う」、ここで、この歌詞の主体「私」と想い人との感情の差が明確になり、聴く者はここで、この「私」の失恋を思い知ることになる。

 そして最後のサビ、歌詞は一番の歌詞とほぼ同じだ。しかし、ここまで聴いた者にとっては、このふたつはまったく別の意味を持つものとなる。この二回繰り返られる「いつも通りに…」に、苦さと爽やかさ、入り混じった感情があふれてくるのである。

 本論に入る前に、しかしこの歌を女性から男性への想いを歌ったものと決めつけてしまうのはもったいない。これはあくまで結果論、というよりも作品の特性上は必然だろうが、この曲が女性のデュエットであることも相まって、女性から女性への想いの歌、と考えると、「「やっぱ君は最高のトモダチだ」と/あなたが笑うから/笑う」の意味合いがまた変わってくる。

 いわゆる百合チックな関係だが、しかし一方は相手のことを、良い同性の「トモダチ」と、もう一方は「あいくるしい人」と密かに慕っている。そんな複雑なすれ違いの関係だ。このとき「私」は、自分の想いはけっして成就しないことを悟っている。そして、その想いを口にしてはならないことも。

 だから、抱きしめるのは夢のなかだけで、現実では「いつも通りに…」と、想い人が望む「トモダチ」関係を演じる。

 この歌の中で最も謎が多い歌詞、「急になんか正解の風に流されたような」。

 ここにおける「正解」は、「トモダチ」の関係、あるいは想い人は自分のことをあくまで「トモダチ」と思っている、一般的には当たり前とされる女と女の関係を、指している……と読むことも可能かもしれない。

 

 このように、ひとつの作品であっても、どこに補助線を引くか、あるいはどのようなバイアスをかけるかによって見え方が鮮やかなまでに変わってくる様を垣間見ることができる。それこそ、鑑賞という行為の楽しみのひとつである、と私は思う。

 その思いついでに、ここでもうひとつ、新たに提示してみたい見方がある。その手掛かりを、冒頭の歌詞に求めたい。

「草かき分け歩き続けた」の「草」。

 この「草」を、「草葉の陰」の「草」ととらえる解釈を試みたいのだ。

 なぜそのような解釈を思い付いたのか。それは、やや混雑した電車の中で音楽を聴きながら、なんの作品だったかは思い出せないが、とにかく本を読んでいたときに「草葉の陰」という言葉に出くわした。ちょうどそのときに耳に流れていた曲が『あいくるしい』だった。

 作品の鑑賞というものは、案外このような生活の偶然のなかに潜んでいるものなのかもしれない。

 

 閑話休題。「草葉の陰」とは、草の葉の下の意から、墓の下、つまりあの世のことを意味する言葉である。

 この歌は「私」が亡き想い人の面影を追い続けて苦しむ曲、と考えてみることで、新たな補助線を引きながら、この曲全体を解釈することが可能なのかどうか、ということを試してみる。

 

 その準備として、まずこの曲の特徴をさらっておく。ひとつには、時系列が非常に錯綜している、ということが挙げられよう。明確に時間がわかるのが、「だけどあの日あなたと出会い笑顔に触れ心は溶けて」の「あの日」、「今日で何度同じ帰り道歩いたかな」の「今日」である。とりわけ「今日」の時点で、「私」は「同じ帰り道」をもう「何度」も歩いているわけであるのだが、全体として、過去の経験、心情が語られている歌詞の中で、二度出てくる「夢」(「あったかい夢」「眠り夢」)を見ているのはいつなのか。

 特に二個目の「眠り夢」については、「眠り夢の中で/何度抱きしめただろう」と、「今日で何度同じ帰り道歩いたかな」に対応する歌詞となっている。

 歌詞からして、「夢」は現在進行形で繰り返しみているものであり、それと対応する「同じ帰り道」は、この「夢」と近しいものを感じさせる。そしてこの「道」であるのだが、これは、この歌の中で「草かき分け歩き続けたこの道が全てだったから」「去りとて月日が未来の道しるべと信じてからは」そして「今日で何度同じ帰り道歩いたかな」の計三回出てくるワードである。

 この二番目、「去りとて月日が未来の道しるべと信じてからは」は、「思い出だけでも幸せになれる気がしたから平気と」につながる。

 「信じる」、「気がした」。ここでは、去っていた月日、つまり過去の日々=「思い出」を思い返すことで幸せになれると、無理やり自分に納得させるようなニュアンスが読み取れる。本当は前に進まなければならないことがわかっているのに、「あいくるしい人」を思い返さずにはいられず、「同じ帰り道」を「何度」も歩き、そして「夢」の中で「何度」も「抱きしめ」てしまう。

 このとき、「帰り道」に対応する「行き道」について、言及はない。「同じ帰り道」を繰り返し歩いているということは、当然「同じ行き道」も繰り返し歩いているということで、つまり「私」の心情の循環性、あるいは堂々巡りを示している。

 ここで、その出発点を物理的、あるいは概念的な家というものに設定すると、「私」は家と、ある目的地を行ったり来たりしているわけなのだが、このとき家に帰るという行為は、寝る、つまり「夢」に帰ることと同義である。

 ではその目的地を考えてみたいのだが、ヒントとなるのは、やはり冒頭、「草かき分け歩き続けたこの道が全てだったから」。これは、続く「本当の自分をさらけ出すのは怖かった」と因果関係にある節だとすると、想い人に出会う前の「私」の「歩き続けた」道となる。しかし、そのすぐ後、「だけどあの日あなたと出会い笑顔に触れ心は溶けて/こんなに自分が優しくなれるとは思わなかった」と続く。

 それまで「私」は「この道」を歩き続けていたのだから、「あなた」つまり想い人と出会ったのも「この道」のどこかである。となれば、過去の時間を思わせる冒頭の「この道」も、いま「私」が往復を続けている「道」と同じものとみても、そう無理のある解釈ではない。加えて、言うまでもなく、「この」という指示語は、日本語において一番近いもの、目の前のものを示すときに用いられる。すぐ後の「あの日」の「あの」が、それよりも遠いものを示すことを考えれば「この道」と「あの日」の間に距離感が生まれ、この冒頭の歌詞における「私」の立ち位置はまさしく「この道」にある、と言える。「私」は現に「この道」を歩きながら、想い人と出会った「あの日」のことを思い出しているのだ。

 さて、この歌詞が示す円環性については指摘したが、円環とは、すなわち、「あいくるしい人に会えたから」に続く、「永遠を確かめるように背中を見つめてみた」の「永遠」ともつながってくる。さらに、このなかでは、「夢」も繰り返しみているものとして、やはり「永遠」の空間を思わせるようなものがある。全体的に過去に目線が向いているこの歌は、「去りとて月日は未来の道しるべと信じてからは」と、未来さえもこの過去を縁としている点に、より一層の強さを感じさせる。つまり、この「私」は未来に目を向けるときに同時に過去を見ているのである。過去に縋って生きており、まったく前に進めていない。

 ここで、『あいくるしい』という曲名をどのようにとらえるのか、ということが問題になってくる。冒頭にも述べたが、このひらがなの曲名は漢字を当てはめると、たとえば「愛くるしい」と「哀苦しい」の二重の意味で解釈することが可能である。

 曲名にもなっているくらい重要な「あいくるしい人」であるが、しかしこの曲の中でその「あいくるしい人」の、言うなれば実存感なるものは極めて希薄である。「私」がそのひとを抱きしめるのは「夢」のなかであるし、また、ほとんど過去形によって語られている存在だ。

 特に、「あなたの気持ちなんて分かってるつもりだよ/そばにいたから…」には哀愁が漂っているし、「私」はそのひとの背中を見て、「永遠」を確かめているのである。つまり、追っても追っても、永遠にたどり着かない存在。この世にはいない人間、としての「あいくるしい人」像がここで立ち上がってくる。

 思えば、この歌のなかで、「私」は一切「あいくるしい人」に語りかけていない。もう話しかけられない、と言った方がこの場合は正しいのかもしれない。一方、「あいくるしい人」の方では、唯一、直接的に語りかける場面がある。それが、「やっぱ君は最高のトモダチだ」である。このカタカナの「トモダチ」が引っかかる。なぜ、「友達」ではいけないのか。ここでは、この「あいくるしい」という曲名が体現しているように、やはり表記を変えることでそれなりの意味が生まれる、と考えてみるとおもしろい(と、私は勝手に思っている)。

 一般的に、友人関係を表すときの「ともだち」は、「友達」あるいは「友だち」が用いられるだろう。こじつけるなら、普通の友人関係をシニフィエとしたときのシニフィアンとして、このふたつの表記は考えられるわけである。だとすれば、「トモダチ」というシニフィアンに結びつくシニフィエは、「友達」「友だち」との差異性から生じる、普通の友人関係とは異なったものであると考えられる。いわゆる含意というものか。*4

 さらに、ここでは漢字という文字が持つ特殊性を考えてみる。ひらがなやカタカナといった表音文字と異なり、漢字は字自体が意味を持つ表意文字である。「友」だったら、もうそれだけで友人の意味を導くし、「達」は、それが集団であることを意味する。そういった意味で、特定の意味を持つ漢字というものは、他の漢字への変換が不可能である。しかし表音文字は、音以外にそれ自体は意味を持たない。むしろ、無茶を承知で言えば、それはひとつの音を導く、という「意味」としてとらえるならば、まったく同じ機能を有する他の文字への変換が可能であるのだ。だから、この「トモダチ」は、異なる四音の文字列へと変換し得るのだ。たとえば「コイビト」といったように。*5

 現に、「私」は言っている。「あなたの気持ちなんて分かってるつもりだよ」と。この「私」は「あいくるしい人」の含意を読み取ることが出来る存在として描かれている。その含意を受け止めて、「私」は「笑う」のである。

 つまり、以上を根拠に、ふたりはその実、相思相愛であった説を提唱したいのだが、事実、ふたりが触れ合えるのは「私」の「夢」のなかで、しかも「私」は、「あったかい夢の前で/何も言えはしない」のである。言葉にしてしまったら、それが本当になってしまうから。

 だとすれば、そこまで相思相愛のふたりがなぜ、表面上は「トモダチ」といったような関係にならざるを得ないか、と考えたとき、ようやく話が最初に戻る。

 

 冒頭の「草かき分け歩いたこの道」、これが現在地点の描写であることは指摘したが、この「草」を「草葉の陰」、すなわち墓と考えると、「私」が「あいくるしい人」の墓へ、その面影を求めて歩いているイメージが浮かび立つ。

「あいくるしい人」は自分の死を悟り、自分が、その愛する「私」の呪縛とならないよう、少なくとも表面上は、ただの友達の関係を保とうとしたのだ。ここで私が「あなたの気持ちなんて分かってるつもりだよ」と言うときの「あなたの気持ち」とは、私のことは忘れて、自分の人生を生きてほしい、という願いなのだ。それがわかっていながら、それでも「私」は、そのひとの背中、面影を追い続け、何度も何度も同じ「道」を歩き続け、「草」を「かき分け」る、「草葉の陰」の「草」を「かき分け」る、亡き「愛くるしいひと」の姿を探し続けているのである。

「急になんか正解の風に流されたような」気がした「私」はその直後、「私の願いなんて単純なものだよ」と一言、「いつも通りに…」とこぼす。ここで「正解」と対置されるものは「夢」であろう。つまり「現実」と言い換えることも可能なこの「正解の風」は、「私」が追い続ける想い人の面影を吹き消すものである。

 風に、手で顔を覆い、次第におぼろになる「あいくるしい人」の後ろ姿を見つめながら、「私」は言う、「いつも通りに…」と。

 しかし、この「単純」な「願い」が叶うことはけっしてない。現実の時間は常に前に進む。対して死とは、二度と動き出すことのない、絶対の停止、あるいは時間の断絶である。死んだ人間は生き返らない。有史以来、人類の思想、とりわけ宗教というものは、終着点である死の「後」をどのように意味づけるか、究極的にはこの一点の探求と見なすことが出来る。そのひとつとして、輪廻転生という考え方がある。つまり「死」は「新たな生」の始まり、と考えることで「死」の恐怖から幾分か人間を解放しよう、というものであるのだが、これも、一方通行である時間軸に逆らって円環性に救いを求めた形で、『あいくるしい』の「私」と同様なのだ。

 私は、いま言ったような意味での「死」に対する言葉を用意することが出来ないが、要約すると、現実の「死」とは「直線的な生」のある一点に位置付けられるもので、それに抗おうとしたとき、人間は直線に対置する「円環」に頼らざるを得ない、ということである。曲線では足りない。「円環」とは、始点と終点の一致。目的地(end)なき「道」である。

 この三点リーダーに、我々は余韻のほか、「私」の哀愁、諦念、自嘲、慟哭を見出すこともできる。なるほど、聴いている私もまた「くるしい」。「相・くるしい」。

 

 以上、我ながらなかなか無理のある解釈だと思う。

 それにもいちおう理由はある。当たり前ではあるが、私はここで自分の解釈の正しさを主張したいのではない。むしろ自分自身ですら、いまとなっては「よくこんなことを考えたな」と良くも悪くも、感心せざるを得ない。

 この文章を読み直してみて思い出したのは、たとえばそのときの状況であったり、そのとき考えていたこと、読んでいたものだったりした。考察というと、机にかじりついてうんうん唸ってひねり出すもの、というようなイメージもあるかもしれない。しかし私は、案外それは事件性のあるものなのではないか、と思っている。

 いやむしろ、そんな風に力が入っていない日常生活のなかでこそ、突飛もない方向で思考が働くことの方が多いのではないか。そしてなりより、そのようにして書かれた匂いの感じる文章が、どうやら私は好きらしいのだ。

 というわけで、考察、というよりは、鑑賞という行為のひとつのかたちを示すことができれば、と思ってこの文章を書いてみた。

 解釈というものはその場その場で生み出される命あるものなんだ、という、最近私が強く信じていること。そのひとつの実例にでもなれば、と思って残しておく。

 

 最後に。歌の歌詞を歌手の声や歌い方、メロディーラインや楽器の音をまったく抜きにして考えることは、不可能ではないだろうが、あまり身の無いことなのではないか、と私は考えている、というよりは感じている。

 月並みではあるが、そのどれか一つでも欠けたら、その曲にはならないからだ。

 だから、CD音源で聴くのとライブで聴くのでは、同じ曲でも変わってくるもの当たり前だ。どこでも気軽に音楽が聴けるようになった時代になっても、ライブに多くのひとがつめかける理由が、私は、比較的最近になってわかってきた。(私は、インドアな性格のためか、ライブというものにはほとんど縁のない生活をしてきた。ほぼ1年前、といえば分かるひとには分かるだろうか? ライブにはまるひとたちの気持ちが、よく分かった気がする。)

 

(文責 宵野)

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*1:この文章は、かつて私が個人で出した冊子に載せた文章を、大幅に改稿したものです。(一部、あえて当時の文章をそのまま残している箇所もあります。その箇所には脚注をつけて、いまの自分から突っ込みを入れています。)その冊子とは、身内以外に2冊しか売れなかった例のあれのことです。

 

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  なので、まさかないとは思いますが、この文章を読んで、「これ、あのひとのパクりじゃないか」と思われた方がいらっしゃいましたら、安心してください。それは私です。そして、あの日あの冊子を買ってくださったことに、この場を借りて、心からお礼を申し上げます。

*2:この鑑賞の仕方には、当時繰り返し読んでいた黒田夏子『abさんご』も大いに関わっているのだが、それはそれで長くなるので、ここでは名前を挙げるだけにとどめる。

*3:全歌詞は、歌詞を掲載している専門のサイト等を参照。

あいくるしい 佐久間まゆ(CV:牧野由依)×小早川紗枝(CV:立花理香) - 歌詞タイム

(最終閲覧 2018/10/13)

*4:当時、ナラトロジー系の本を読んでいたこともあって、こんな単語を使っていたんだと思われる。最近は、この種の単語をそのまま使うことに抵抗を感じているところもあり、いま読み返すと小っ恥ずかしいが、あえてそのまま残すことにした。(専門用語を使うこと自体が悪い、と言っているのではない。ただ、自分にはどうにも性に合わない、と感じているだけのことだ。あしからず。)

いまだったら「なにも考えなければ「友達」「友だち」という表記が反射的に出てくる、そして、歌という特性上、音だけを聞くならば変わらないところ、あえて「トモダチ」とカタカナで表わす。やはりそこには、なにかしら特別な意味が込められている、と考えることができるだろう。」とでも書くのだろうか。

*5:当時は冴えている、と感じた思いつきだが、改めて読み返すとやや無理があるようにも思われる。おそらく、自分で提示した「シニフィアン/シニフィエ」に引きずられている。半端に思想にかぶれていた自分が恥ずかしいが、なににも影響を受けずに文章を書くことなどそもそも不可能な話なのだから、これは正当な恥、ということにしておこう。