前回に引き続き、文フリ東京に出店します。
ブース番号はキ-12、隣接ブースは早稲田大学現代文学会さんとArts&Books コレコネ&ABYBさんになります。開始時間の十一時から終了の一七時までブースを開いている予定なのでお好きな時にお越しください。
ソガイの出品一覧
ブースで販売する本は以下の三点となります。
新刊『ソガイvol.3 戦争と虚構』 500円
既刊『ソガイvol.2 物語と労働』(残部10程度) 500円
宵野雪夏、個人誌『ただ「一つ」を求めて』 300円
『ソガイvol.3 戦争と虚構』紹介
ソガイ第三号のテーマは「戦争と虚構」です。
目次と概要(クリックすると該当箇所の一部が読めます)
論考 『現実と虚構の不気味な接近。第二次世界大戦を題材にした戦略級シミュレーションゲームの観点から』 雲葉零 4
戦略シミュレーションゲーム(戦略SLG)を題材に歴史認識、現実と虚構を絡めた論考。具体的なゲームとしては『ハーツ・オブ・アイアン』シリーズ、『提督の決断』シリーズ、『太平洋戦記』シリーズを取り扱う。
私は戦争の当事者ではない。しかし、ほんの数代さかのぼれば戦時を生きたひとびとに突き当たる。そのひとたちは生き残ったからこそ、いま私はこうして文章を書けるわけだ。ところで、あの戦争で生死を分けたものとは? それは「運」ではないか? そんな疑問を出発点に、さまざまな作品等を取りあげながら考えてみた。
南京戦の真実を描いた小説。
映画評論 『本当の戦争映画の話をしよう ――『地獄の黙示録』の成功と失敗について』南入おちつき 50
私たちと映画との距離。私たちと戦争との距離。それらを破壊するゲリラと、ゲリラを破壊するイデオロギーについて。または、見苦しくない嘘についての、泥沼のエッセイ。
映画評論『偶然性と語ることの特権性 映画『U・ボート』評論』 雲葉零 58
『U・ボート』は第二次大戦時のドイツ潜水艦(通称Uボート) U96の苦闘を描いた作品である。そんな本作の原作者が実際にUボートに登場していた従軍記者だったことと、本作の衝撃的なラストをヒントに偶然性と語ることの特権性について考えた評論。
以下ソガイの本文の試し読みを公開します。それぞれの文章につき、冒頭が対象となっています。また末尾に参考文献を全て公開していますのでご参考にしてください。なお、縦書きが横書きになっている等、冊子との形式的な差異が一部あります。
論考 『現実と虚構の不気味な接近。第二次世界大戦を題材にした戦略級シミュレーションゲームの観点から』 雲葉零
一 概要
戦略級シミュレーションゲーム(以下、シミュレーションゲームをSLGと省略)とはウォー・ゲームの一種である。ウォー・ゲームとは訳すと戦争ゲームになることからも分かるとおり、戦争を題材としたゲームのことだ。
ウォー・ゲームの歴史は古く、二百年ほど前から始まった軍隊の兵棋演習*1 (あるいは図上演習とも)に直接的には端を発する*2 。もちろん二百年前にはコンピューターなど存在しないから、当時の兵棋演習はボードゲームのようなものだと思えばいい。また、現在でもボードゲーム形式のウォー・ゲームは発売されている。より正確に言えば、ウォー・ゲームの邦訳が兵棋演習なのであり、英語圏では区別がない。このことからも分かるように軍人たちが行うような兵棋演習と、一般人が遊びで行うウォー・ゲームは戦争を再現しているという点で根本的には同じものである。
戦略SLGはそんなウォー・ゲームの分類の中で最も高次に位置する、あるいは視点が広いゲームとも言えるかもしれない。銃を撃つ爽快感が得たいなら、FPS(ファーストパーソンシューティング)が良い。部隊を動かす作戦や戦術の妙が楽しみたいなら、戦闘級や作戦級が良い。
一方で経済や、政治が深く絡む戦争遂行を体験したいなら戦略級が良い*3 。戦略級では場合によっては戦争をしないことも可能である。戦争ゲームでありながら、戦争をしなくて楽しめるのが戦略SLGなのである。そして宇宙戦争やファンタジーの世界のような舞台ではなく、史実を舞台にすれば戦略SLGは歴史認識や政治とも深い関わりを持つ。
本論考では、戦略SLGの中でも第二次世界大戦(以下WW2)を取り扱ったものを主に扱う。一つには私が親しんできた戦略SLGの多くはWW2を題材としているからだ。
しかしそれだけではない。WW2を取り扱った戦略SLGには歴史認識、政治問題が深くまとわりついていることがより重要な理由である。仮想のスペースオペラゲームとも戦国時代を取り扱ったゲームとも全く違う問題があるのだ。そしてWW2を取り扱った戦略SLGと歴史認識、政治問題を題材に現実と虚構について考えていくのが本論考の内容となる。
具体的なゲームとしては『ハーツ・オブ・アイアンⅡ』(以下、『HOIⅡ』)『提督の決断Ⅳ』『太平洋戦記2』と、それらのシリーズ作品を主に扱う。正直に言うと私が多くの時間を費やしたゲームであることも、選定理由の一つではある。ただそれだけではない。前者二つの知名度は(シリーズ全体も含めて)戦略SLG愛好者の間ではかなり高いだろう。WW2を扱った戦略SLGと言えば洋ゲーなら『ハーツ・オブ・アイアン』シリーズ、国産ゲーなら『提督の決断』シリーズがまず浮かぶとさえ言っていいのではないか。『太平洋戦記』シリーズの知名度はそれほど高くないが、戦争描写の緻密さは国産では群を抜いている。以下、この三作の説明を始める。なお、本論考の目的は戦略SLGのゲーム性を細部に渡り検討することではない。よって必要がなければその面はかなり省略されている。
試し読みはここまでです
参考文献一覧
「近現代ウォーゲーム(兵棋演習)の概史 : 二百年の変遷」蔵原大
(『遊戯史研究』遊戯史研究編集部 編 (25):2013.10 p.4-16に掲載)
『「道徳自警団」がニッポンを滅ぼす』 イースト・プレス (2018)
電子書籍を参照したため、ページ数の代わりにコラム名を付した。
「偶然」生き残った子孫として考えること 宵野雪夏
私に戦争経験はない。できることなら、これからも経験はしたくないものである。
しかし、やもすると忘れてしまいがちではあるが、この国を見ただけでも七十三年前まで戦争をしていた。生の戦争を経験したひとがまだ生きている世の中にいる。そう思うと、やはり戦争を他人事として、あるいはただ歴史として見ることに、なにか大きな傲慢がありはしないだろうかと感じられる。*4
そこで、私は私のできる範囲で、そして関心のあるなかで、戦争について考えてみたい。そのときに助けになってくれるのは、これまで読んできた数々の本だろう。私の思考は他者の言葉によって支えられている。私はその思考のあり方を、積極的に肯定している。他者なきオリジナリティは、ひとりよがりの換言でしかない。(そもそも比較対象がなければ、いったいなにをもって独自的なものと言い表すことができるのだろうか?)
戦争、という単語から私が真っ先に連想するのは、やはり第二次世界大戦、とりわけ、アジア・太平洋戦争だ。もっと大きなくくりとして、近代型の戦争と言ってもいいかもしれない。これについて考えるとき、まず私には「偶然」という言葉が頭に浮かぶ。
これは、城山三郎『指揮官たちの特攻』を読んでいたときに感じたことだ。この作品は、神風特別攻撃隊第一号に選ばれた関行男と、敗戦を知らずに最後の特攻隊員となった中津留達雄のふたりを主に追った、ドキュメントノベルである。
この作中、特攻隊に選ばれたことについて、「どうして自分が選ばれたのか、よくわからない」とこぼす隊員がいる一方、なぜ自分が選ばれないのか、なぜ外されたのかわからない、というひともいる。ここでは、特攻隊に選ばれることと選ばれないことが、もはやランダムなものとして描かれている。いわば、選ばれるのも選ばれないのも偶然でしかない。少なくとも、そこに根拠がない。その意味で、生と死が同値になっている。その点が、興味深かった。
城山三郎自体が、海軍特別幹部練習生であったときに終戦を迎えた、という。戦場に送り出される、それこそ特攻隊に選ばれる可能性もあったそうだ。海軍には自ら志願して進んだそうだが、上官の暴力や醜さに絶望した彼は、『指揮官たちの特攻』にもこのように書き記している。
終戦のその夜、海軍特別幹部練習生である私たちを驚かせたのは、犬の悲鳴であった。
下士官や士官がせっかく刀を買っておいたのにと、捕らえさせた犬めがけて、試し斬りをはじめたのだ。
一頭また一頭と、犬のあわれな悲鳴が、闇に長く尾を曳いては消えた。
特攻隊員たちが柱相手に刀を振るったのとはちがい、野卑というか、低劣。その程度の男たちが、上官であり、教官でもあったわけである。
次に起ったのは、飽くことの無い少年兵いじめ。(『指揮官たちの特攻』二〇三頁)
そして、命を散らしたなかにはまだ十代という若者も少なくはなく、また、そのなかに「職業軍人である海軍兵学校出身者は、一名も居ない」と書き付ける。偶然によって生きるか死ぬかを左右されるのは、下々の人間だった、ということになるのだろうか。
これは城山三郎に限らず、この年代の人間にとっては当たり前の風景だったのかもしれない。軍隊に所属しない一般市民であっても、空襲や原子爆弾の攻撃によってある日突然、偶然によって命を落とす可能性は常に抱えていた。なにせ、戦時国際法を無視した非戦闘員への攻撃は、無差別だからだ。爆撃機から絨毯爆撃をおこなった兵士は、逃げ惑う地上の人間の顔を見なかっただろう。
試し読みはここまでです。
主要参考文献
司馬遼太郎『峠(下)』新潮文庫 一九七五年
城山三郎『指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく―』新潮文庫 二〇〇四年
手塚治虫『BLACK JACK』秋田文庫
寺田寅彦『天災と国防』講談社学術文庫 二〇一一年
西崎雅夫編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』ちくま文庫 二〇一八年
山崎今朝弥『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫
山本義隆『近代日本一五〇年――科学技術総戦力体制の破綻』岩波新書 二〇一八年
松山巌『うわさの遠近法』講談社学術文庫 一九九七年
宮内悠介『ディレイ・エフェクト』文藝春秋 二〇一八年
小説 『南京大虐殺はなかった』
前書き
元々この小説は、東京文フリに出店している別の同人誌に掲載する予定でした。しかしながら、あまりに小説の内容が危険すぎるとして掲載を拒否されました。その後、窮状をみかねたソガイ代表雲葉零氏のご好意により本誌への掲載が実現したのです。同氏のご英断に深く感謝します。
嘘も百遍言えば本当になるという格言がございます。人のいい日本人には無縁ですが、口を開けば嘘をつく支那人、朝鮮人にはぴったりの格言です。いわゆる南京大虐殺が世界的に信じられているのもそのいい例かもしれません。あるいは従軍慰安婦なる売春婦も関東大震災の折に日本人が鮮人を虐殺したという与太話もそうでしょう。実際には、関東大震災の折に不逞鮮人が井戸に毒を投げ込んだりしたので、それを止めるために日本人自警団が活躍したというのが真相なのです。つまり、真実と嘘が一八〇度変わっているわけです。
とはいえ騙されている人のことを悪くは言えません。私は嘘をつけない人間ですから、正直に申します。恥ずかしながら、ほんの数年前まで南京大虐殺があったのだと私も当然のごとく信じていました。なにせ、歴史の教科書にもそう書いてあるのですから。しかしながらネット上で情報収集を進めるうちに、ようやく真実に目覚めたのです。
覚醒した私が次に思ったことは騙されていることに気づかない方々にも、この事実を伝えなければならないということです。これが小説という形で南京の真実を描いた理由です。
試し読みはここまでです。
映画評論 『本当の戦争映画の話をしよう ――『地獄の黙示録』の成功と失敗について』南入おちつき
フランシス・フォード・コッポラによる戦争映画『地獄の黙示録*5』の撮影は、まさに戦争そのものだった。しかもとびきり、泥沼の戦争だったと言えるだろう*6。
想像してみて欲しい、金を唸らせて作ったセットが台風で全壊してしまった翌日の朝を。セリフの覚えられない薬物中毒の俳優の土気色の顔を。物語の根幹を成す人物が予期せぬ贅肉を抱えて現れた時の困惑を。その他、映画一本分にしては多すぎるトラブル、トラブル、またトラブル……。
結果として、この名作の制作費は予定のおよそ三倍近くに膨れ上がり、作戦は多くの変更を強いられ、撮影期間についても二十年とはいわないものの、本作よりも後から制作が開始された『ディア・ハンター』の方が先に公開されてしまうという始末だったとか。
うーん。何とも気の毒な話だが、お陰様で『地獄の黙示録』は、映画史において重要な作品に仕上がったし、そもそも全ての映画というのは戦争のようなものなのだから、まあ、戦争と映画の関係を利用する「戦争映画*7」としては、逆に興味深いものが撮れた要因ですらあったのではないだろうか。
いやいや、別に適当な気休めを言っている訳ではない。実際のところ、戦争は映画だし、映画は戦争なのだ。撮影に限定した話ではなく、技術も、過程も、目的も、戦争と映画は同一のものを共有しているのである。空間を把握する方法だって、台本と人の演技によって形成するという過程だって、「相手を刺激するための見世物」という目的だって、戦争と映画に違いはない。勿論、現実と虚構という区別の基準はあるけど、それだって画面越しの戦争が当たり前になっている現代では怪しいものだ。幸せな兵士と観客たちは「映画でない戦争」を体験するにはあまりにも戦争から距離を取ることが可能となっているのだ。
そして、コッポラは実にそこのところを強く意識して『地獄の黙示録』を撮影したと見える。彼は人々と戦争との距離を把握して描き出したうえで、映画によって「映画でない戦争」を描き出してみせることにより、私たちにショックを与えようとしたのである。映画監督なら誰もがこの「悪戯」を一度は考えることだろう。映画によって本物を描きたい、と。単なる歴史の模写ではなく、私たちの歴史とすり替わってしまうほどのものを創造してしまいたい、と。
試し読みはここまでです。
参考文献
フランシス・フォード・コッポラ 監督/ジョン・ミリアス フランシス・フォード・コッポラ マイケル・ハー 脚本『地獄の黙示録』(1979)原作(ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』)アメリカ合衆国:ユナイテッド・アーティスツ
ティム・オブライエン(1998)『本当の戦争の話をしよう』村上春樹 訳 文藝春秋 第2刷
映画評論『偶然性と語ることの特権性 映画『U・ボート』評論』 雲葉零
『U・ボート』は第二次大戦時のドイツ潜水艦(通称Uボート) U96の苦闘を描いた作品である。旧西ドイツで制作されたこの作品は戦争映画として定評がある。原作小説『U・ボート』はドイツ海軍報道部隊に所属しUボートへの搭乗経験があったロータル=ギュンター・ブーフハイムによって書かれている。そのためU96にはブーフハイムがモデルだと思われる、報道部隊員ヴェルナー少尉も乗艦している。
本作はディレクターズ・カット版で二〇八分にも渡る大長編である。ここまで長い一因は日常場面が多いことだ。映画の始まりからして、ナチス占領下のフランス軍港の描写である。パーティーやU96への乗艦、出港場面が十五分ほど続くのだ。
ここで言う日常とは何も戦場ではない後方の場面だけではない。Uボートに搭乗し敵の攻撃を受ける危険性が否定できない海域にいるものの、戦闘中ではない時にも日常があるのだ。例えば、搭乗員達は食事をし雑談をし、日々の雑務をこなす。いつ連合国の攻撃を受けるかはわからないが、極めて危険なわけでもなくBGMも落ち着いたものだ。
日常場面と戦闘場面は半々ぐらいの比率だろうか。確かに緊迫感という面では日常場面は戦闘場面に明らかに劣っている。しかし濃密な日常描写は単なる軍事マニアやアクションマニア向けの戦闘映画以上の深みをもたらしている。
試し読みはここまでです。
*1:
「近現代ウォーゲーム(兵棋演習)の概史 : 二百年の変遷」p.6-7を参照。
ネット上では以下のサイトで兵棋演習についての簡単な説明を読むことができる。
海上自衛隊幹部学校
「HOME / 幹部学校の紹介 / 海上防衛図演装置 / 図上演習とは」
http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/msc/mdgs01.html
(最終閲覧二〇一八年十月一九日)
どちらかと言えば、軍隊で実行される兵棋演習は外交や政治要素を含まずに、軍隊の作戦だけを再現する形のようである。軍事独裁国家でもない限り、軍隊に全面的な外交権はないのだから当然かも知れない。
*2:さらに起源を遡れば、チェスや将棋の始祖である古代インドのボードゲームチャトランガの存在を持ち出すこともできる。チャトランガを知らない人はチェスや将棋を思い浮かべてもらえればいい。チャトランガ、将棋、チェスは一応戦争ゲームではあるが、極めて抽象化されている。指摘されない限り戦争ゲームであると意識する人は少ないだろう。
*3:もっとも統一した業界基準があるわけでもないので、これらの分類はあくまで便宜上のものである。人によってはあるゲームをどこに分類するかで意見が食い違うだろう。特に作戦級と戦闘級の区分は曖昧だが、前者のほうが後者よりも大部隊を操作するゲームである。よって、スケールの大きさで並べれば戦略級、作戦級、戦術級となる。もちろん一人称視点のFPSはさらにスケールが小さい。なお、やや語弊がある言い方になってしまったが、スケールが小さいという言葉にネガティブな意図はない。
*4: 私は、以前に野坂昭如『戦争童話集』を取りあげた。そこでは、「美しい顔」問題も踏まえながら「当事者意識」というものを考えてみた。この文章は、その実践でもある。(https://www.sogai.net/entry/2018/08/15/204828)
*5:以下、本作と呼称する。
*6:この「戦争」の詳細についてはエレノア・コッポラによる制作ドキュメンタリーである『ハート・オブ・ダークネス コッポラの黙示録』(1991)を参照されたし。ちなみにハート・オブ・ダークネスとは『地獄の黙示録』の元ネタであるジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』のことに他ならない。
*7: 本稿では「戦争映画」を「戦争についての映画」ではなく、「戦争が映画であることを意識して利用する作品群」として定義する。もっとも、多くの「戦争についての映画」も戦争と観客の距離を縮めるためにスペクタクルに意識的であるという点で「戦争映画」だと言えるだろうが。