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ただ「一つ」を求めて~森内俊雄『道の向こうの道』からの道~

  小さいころ、私はけっしてからだが強い方ではなかったらしい。お風呂に入ると肌はすぐに真っ赤になるし、しょっちゅうお腹の調子を崩しては寝込む。定期的に鼻血は出すし、水疱瘡にもおたふく風邪にもしっかりかかった。

 中学生、高校生となるにつれて、だんだんとからだも強くなってきたのかな、と思っていた。けれども最近になって二年に一度くらいの頻度で、しかも一度は一年のうちにA型とB型、両方のインフルエンザにかかるようになるし、偏頭痛には悩まされるし、そんなものは幻想だったのかもしれない。

 その日も、朝はからだの節々の痛みとしゃがれた声に迎えられた。一週間ほど前からどうにもからだの様子がおかしい、とは思っていて、風邪薬は服用していた。その甲斐はなかったようで、とうとう38度の熱も出始めた。記録的猛暑の記憶もまだ冷めやらぬ、しかし空気はぐっと冷え込んだ、そんな日のことだった。ああ、またか。暗澹たる気持ちで自転車をこいで、朝一、病院に行った。インフルエンザはまぬがれた。

 風邪のときはからだを温かくして寝ているのがよいとはいえ、寝続けるのにも限度がある。そして、寝飽きる、とでもいったらいいような状態は、なぜか都合悪く夜に起きるものだ。いくら目をつむっていても、眠気が訪れない。そういえば、私は小さいころ、寝ることが苦手だった。母曰く、兄妹のなかで夜泣きが一番ひどかったのは私だそうだ。いまだに、寝るのはあまり得意ではない。

 二日目の夜中、眠るのはひとまずあきらめ、スタンドライトを横に立て、橙色の光を灯す。頭には本が置いてあった。森内俊雄『道の向こうの道』 (新潮社)。  

 私にとって、二冊目の森内俊雄だった。一冊目は同じく新潮社、『梨の花咲く町で』。この本を読んでからこの著者が気になってきて、取り急ぎ、最新作の『道の向こうの道』を地元の図書館で借りてきていた。また、翌日、ネットで注文した森内俊雄の著作が四冊ほど届くことになる。

 読書とはそれ自体が生きている営みだ、と感じる。その本を、いつ、どこで、どんな状態で、どのように読んだのか。それによってその読書体験は案外大きく変わってくる。いや、むしろそれによって読書がはじめて彩られる、と言い切ってしまってもいいだろう。

 ある作品についてひとと話すとき、もちろん作品の内容について熱く語るのも良い。そして、それと同じくらい、どんなときにそれを読んだか、という話を聞くのが、私は好きだ。たとえば私の話になるが、成人式の式典に新潮文庫の『春琴抄』をスーツのポケットに忍ばせて出席した。その帰り、静まりかえった地下鉄のプラットホームで読んだその『春琴抄』は良かった、という話が、どうやら私の周りではうけが良い。このとき、あの新潮文庫の薄い『春琴抄』でなくてはだめだし、読む場所が車内でもだめだったろう。読書とは、そういうものでもある。

 そののち、講義で松本清張の話が出た。小学校を卒業してすぐに働かなくてはならず、中学、高校に通う同級生に大きなコンプレックスを抱いていた松本清張の矜恃を支えたのは、胸ポケットの岩波文庫であった、という。私などとは比べるまでもない大作家、松本清張にこのとき、妙な親近感を覚えた。それを思うと、『或る「小倉日記」伝』が、また新たに心に響いてくる。

 体験としての読書。『道の向こうの道』はまさに、それを描いた作品だ。森内俊雄は1936年に大阪で生まれる。二度の大空襲を生き延び、戦後は浪人の末、早稲田大学文学部ロシア文学科に入学する。その後、編集者として働くなかで1969年「幼きものは驢馬に乗って」で文學界新人賞を受賞、同作を含めて五回、芥川賞の候補にもなっている。現在は81歳。文学好きならだれでも知っている、といった作家では、もしかしたらないかもしれないが、いまだに文芸誌でぽつりぽつりと文章を書き続けている、とても息の長い作家である。

 この物語は、夫婦が都立城南島海浜公園に行き、羽田空港から飛び立つ飛行機を眺めるところから始まる。

「飛行機ハ南ヘ飛ンデ行ク。ロシア語だけれど」
 それは大学へはいってロシア語の勉強をはじめたころに覚えた一節だった。つまり、その飛行機は五十七年の昔から飛行してきて、こんにちへ届き、なお飛び続けている。いったい、どこまで飛行するのだろうか。有視界飛行、計器飛行をくりかえしながら、そのパイロットの目指す所は、まだ、雲間はるかであるらしい。
「ねえ、学生のころの話がしたくなった。聞いてくれるかい。話はあちらこちらするけれども、いいかな」
「あなたのことですから。とぎれとぎれでいい。今日ここに来た訳が分かったから」
「ながいよ」
「そのつもりで聞きますよ、ときどき休憩しながら」
 待ちに待ったバスが来た。路面の照り返しがむせるほど暑熱にあって、冷房の車体は見るからに涼しく、心丈夫だった。(11頁)

 この本は主に、森内さんの大学生活の回想録のようになっている。ジャンル的には私小説ということになるのだろうか。この初出が2013年11月号の『新潮』。ここから、ほぼ一年に一篇で全六篇。書くということは、まさに生活のなかの生きた営みであると改めて感じる。

 作中でも自身を「乱読家」と称する森内さんだが、本当にさまざまな本を読んでいて、たくさんの音楽を聴いている。元々ミッション系の学校を出ていることもあって聖書は文字通り座右の書であるし、ほかにも、ロシア文学科らしくドストエフスキーを読んでいると思いきや、漢字学で有名な白川静の本にはまったり、アリストテレスや西田幾多郎、鈴木大拙といった思想家・宗教家、若山牧水、室生犀星などの詩集、『更級日記』や『蜻蛉日記』、『源氏物語』などの古典、そして当然、島崎藤村や谷崎潤一郎などの日本近代文学……それを、ときには名曲喫茶でモーツァルトなどのクラシックをリクエストしてかけてもらいながら、読みふける。

 しかも、同級生は李恢成や宮原昭夫(どちらも芥川賞作家)、『大菩薩峠』の中里介山の甥、児童文学者の両親を持つ女生徒など、錚々たる面々。羨ましい限りだ。

 気だるいからだを横たえたベッドのなか、暖色の明かりのもとで読むこの文章は、とても心地よかった。物語に目立った起伏はなく、落ち着いた筆致で語られる回想は、それこそ冒頭で「伴侶」(という言い方を森内さんはする)が言っていたように、「ときどき休憩しながら」読むそのリズム、そして森内さんの語りと引用される作品の数々の語りが見事に淡い模様を作って、からだに沁み込んでくる。それを読む私のこの状況。あたかも当時の森内さんをなぞるかのような読書体験は、貴重なものとなった。

 森内さんに対してそのような印象を持ったまま、後日、初期のころの作品を手に取った。思っていたのと違った作風に驚いた。日常のなかに潜むエロティシズムと、ある種のグロテスクさに満ちた、不思議な作品だった。

 これには、精神を病んだ経験を克明に描いた『氷河が来るまでに』(1990年)を発表したあたりのことが契機となっているのか、それとも年齢を重ねるにつれて作品の傾向に自然と変化が生じたのか、そのあたりのことは、まだすべての作品を読めてはいないので分からない。

 しかし、森内さんの作品を通読すること。それは、あるひとつの「書く」という営みの変遷の物語を読むことではないか、とはさすがに過言であろうか。

 とはいえ、ある作家の作品をずっと追っていくとき、その作品の後ろにある人間を、ふと感じることがある。

 たとえば私は、芥川龍之介の全集を通読したとき、芥川の変化、変貌よりもむしろ、命を絶つ最後の最後まで変わらなかった、変えられなかった彼の核なるものを感じた。彼ほどの純粋な芸術の信奉者を、私はまだ知らない。

 同じような読書を、たとえば大江健三郎や村上春樹のような作家では色濃く見ることができるのではないか、と私は思っている。特に大江健三郎。代表的なところでは、先天的な障害を持つ息子の光さんが生まれ、のちの作品に障害のある子どもを出さざるを得ないといったようなこと。賛否両論はあるだろうし、私も、それはやり過ぎではないか、と思わないではない。それでも、大江さんのそういった、書くことが自分の生と密接に結びついている態度、それ自体には強い感銘を受けている。もっとも、どうにもあまり私の好みに合わないのか、どちらもいまだ数作しか読めていないのが残念なところではあるのだが……。

 小説なんてフィクションに過ぎない、といった声はしばしば耳にする。しかし、現実にまったく影響しない、影響されない小説があるとは、私には思えない。そもそも、現実があるから虚構が成り立つのだ。そしてこのとき、現実と虚構はかならずしも対立するものではない。

 少し観点を変えると、私小説というジャンルの問題にもなるだろうか。その歴史は長くなるのでここでは措くとして、『道の向こうの道』について言えば、たしかにこれは私小説的な作品である。しかし、特に悪口として言われる「私小説」には、自分の日常雑事ばかりを書いて、自分の心内世界、文壇のなかだけの評価に寄りかかっている作品、などのイメージがつきまとう。そういった作品がまったくない、とは私も言えない。ただ、『道の向こうの道』には、戦争や学生運動、冷戦の情報がところどころで挟まれる。しかし森内さんは自身をノンポリと言う。

二度にわたる空襲経験や敗戦直後の飢餓の思い出や、小学校の「図工」の時間に、全員、紙のジープの模型をつくらされた記憶が、政治的な発言や行動を嫌悪させていた。要するに、ノンポリ学生だった。(118頁)

 森内さんにとってとりわけ空襲の経験は重いものとなっていて、ほかの作品でも繰り返し繰り返し語られるものとなっている。もちろん、これは森内さん個人の経験である。しかし、自分のことを語っているこの作品が自分の思い出話に終始し、まったく社会に目を向けていないとは思えないのだ。

 この作品の最後には、1960年に安保改正阻止運動において東大生の樺美智子が死亡した朝日新聞の記事について触れられている。この終わり方については、私ももっと考えてみたいところだ。「私小説」という先入観にとらわれすぎると見落とすものがある。それは、ほかの私小説についても同じだろう。『蒲団』をただのスケベ親父の小説として読むのは、導入としてはそれで構わないのだが、それだけではどこかもったいないような気がする。

 現実と虚構が、生活というひとつの場で共生する小説が、私は好きだ。その意味で、『道の向こうの道』は二重にその感覚を味わわせてくれた。特に、第三篇「赤い風船」でそれをまさに身をもって感じた。

 この章は、1956年に公開されたフランス映画『赤い風船』についての話題が多く出てくる。上映時間36分の短いこの作品を同級生たちと講義を放り出して観に行った森内さんは、「大作、名作とはされないだろうが、ひっそり静かに愛される作品である」と好意的に評価している。

 そして、森内さんはそののちに、自分を詩の道に導いた作家としてあげている室生犀星が『赤い風船』を高く評価している文章を読んだ、という。それは、『蜜のあわれ』の後記「炎の金魚」のことだ。

「この解説のようなものを書き終えた晩、何年か前に見た映画「赤い風船」を思い出し」た室生犀星は、あらすじは忘れた、と嘯きながらもわりかししっかりとしたあらすじを述べたあと、このように語る。

この「赤い風船」を見た後に、こういう美しい小事件が小説に書けないものか知ら、何とかしてこんな一篇の生ける幼い愛情が原稿の上に現わせないものかと、一ヶ月くらい映画「赤い風船」に取り附かれ、ばかはばかなりに、悧巧ぶった考えを持とうとしていたが、悪小説家の悪癖は日を趁うて「赤い風船」の聖地から離れて往った。(…)
 だが、私はついに「赤い風船」を今日思い当てて、いつぞや、こういう物が書きたい願いを持っていたが、お前が知らずに書いた「蜜のあわれ」は偶然にお前の赤い風船ではなかったか、まるで意図するところ些かもないのに、お前はお前らしい赤い風船を廻して歩いていたではないか、お前だって作家の端くれなら、或る日或る時にひょんな事から感奮して見た映画の手ほどきが、別の形でこんな物語を書かせていたではないか、一旦書いて見たいという考えを作家が持つということは、作家と名のつく人間にはいつか仕事の上に、何等の覚性もなく、ひとりでにこんがりと、色つやをおびて現われて来る機会があるのではないか、そしてその事が仕事が終った時にやっぱり風船はとうに頭の奥ふかくに取りついていたことが判るのだ。心が覚えをこめていたということは大したことなのだ。そして私は愛すべき映画 「蜜のあわれ」の監督をいま終えたばかりなのである。漸く印刷の上の映画というものに永年惹きつけられていたが、いま、それを実際に指揮を完うし観客の拍手を遠くに耳に入れようとしているのである。(『蜜のあわれ・われはうたえどもやぶれかぶれ』(講談社文芸文庫)182、3頁)

『蜜のあわれ』の上梓が1959年10月、版元は、偶然にも『道の向こうの道』と同じく新潮社。自分の畏敬する室生犀星と同じ作品を評価したことが嬉しく、誇らしかった、と吐露する森内さんの素直さに、私は好感を抱く。

『蜜のあわれ』は、老作家と、人間に姿を変えることのできる金魚の少女を主人公とした、対話のみで構成されるかなりシュールな作品だ。あまりの荒唐無稽さにところどころ笑いも誘われてしまうのだが、だんだんと時間がぼやけて分からなくなっていくような展開がおもしろい。先日亡くなった大杉漣が老作家、二階堂ふみが少女を演じた同題名の映画も、なかなか先鋭的な内容だった。映画では、老作家は明らかに室生犀星として描かれていた。もうひとりの重要人物として、すでに自殺してこの世にはいない芥川龍之介も出てくる。これは、原作にはなかったはずの設定だ。実際、室生犀星と芥川龍之介は仲が良かったらしい。すると、室生犀星にとって友人であり優れた文人であった芥川龍之介の自殺は、ほかの作家の例に漏れず、大きな影響を及ぼすものであったのだろう。

 映画では、老作家の死への怯えというものが中心的に描かれていた。室生犀星は『蜜のあわれ』を書いた三年後に亡くなること、その最後のガン闘病記『われはうたえどもやぶれかぶれ』、遺作詩「老いたるえびのうた」までをも踏まえた脚本だったのではないか、と私は感じている。

 ここまで言えば分かるかもしれないが、『蜜のあわれ』は私も好きな作品である。そして「炎の金魚」も読んでいたはずなのだが、森内さんの文章を読むまで、『赤い風船』について言及していたことはすっかり忘れていた。しかし、言われてみれば、たしかにと頷くところはある。

『赤い風船』は、少年パスカルと、彼が通学途中に拾った赤い風船との物語だ。赤い風船は、パスカルが手を離しても、まるで生きているかのようにその後ろをふよふよくっついてくる。彼と風船を引き離そうといくつもの障害が襲いかかるが、その度にふたりは危機を切り抜ける。言ってしまえば、ただそれだけの話なのだ。台詞もほとんどない、とても静かな作品だ。パスカルという名前だって、一度だけひとに呼ばれて出てきただけだ。森内さんが「ひっそり静かに愛される作品である」と評したのには、そういった含意もあるのかもしれない。

『蜜のあわれ』も、老作家につきまとうのは赤い金魚である。風船も金魚も、縁日の屋台で買って、手に持って連れて歩いているイメージが浮かんでくる。本当は手にちゃんと持っていなければいけない赤いものが、手を離してもついてくる。そんな映像が、『赤い風船』と『蜜のあわれ』で重なってくる。もっとも、こちらの『蜜のあわれ』はむしろ台詞しかない、とてもおしゃべりな作品であるが。

 ところで、私はこの『赤い風船』という単語を見たとき、これはどこかで見たことがあるぞと思いあたるところがあった。少し考えてわかった。志賀直哉の随筆だ。

 さっそく『志賀直哉随筆集』 (岩波文庫)を引っ張り出してきた。どうでもいいことだが、これは私がはじめて八重洲ブックセンターに行った際、滝口悠生『茄子の輝き』といっしょに買ったものである。そもそもなぜ八重洲ブックセンターに行ったのかというと、有楽町のよみうりホールで夏に開催されている「夏の文学教室」に参加する、その前の寄り道だったのだ。ずいぶん懐かしいことのように感じるが、実はそれほど時間が経っているわけではない。時間が経つのは早いのか遅いのか。

 さて、たしか後ろの方だったよなあ、と思いながら頁をめくっていると、あった。まさしく「赤い風船」、わずか四頁の文章だ。初出は1956年9月2日の『毎日新聞』。たしかに『赤い風船』の公開の年である。書き出しはこうだ。

 田鶴子から電話がかかった。
  「おとう様? 今、銀座にいるのよ、『沈黙の世界』と『赤い風船』を見て来たところなの。途だから、帰りにお寄りしようかしら」(349頁)

 田鶴子とは、志賀直哉の五女である。彼女が息子、つまり志賀にとっては孫になる裕といっしょに映画を観た帰りに訪ねてくる。また、ここで『沈黙の世界』と出てくるがこれはたしかに当時、『赤い風船』と同時上映された作品らしい。志賀は試写会ですでに両作とも観ていて、「近頃珍らしい面白い映画だと思い」、田鶴子さんに勧めていたそうだ。

 もっとも、ここで志賀は『赤い風船』の具体的にどこが良いのか、までは語っていない。むしろ、赤い風船が悪戯っ子によって踏み割われてしまうところで泣き出してしまったことを恥じる孫の裕のエピソードが中心だ。

 そんななかでも、志賀らしい褒め方がされている。裕が泣いてしまったのは、それが映画であることを忘れて、画面のなかのパスカルといっしょに悪戯っ子たちから風船を守るために逃げ回っていたからである、と言うのだ。春から幼稚園に通い出した子どもにこれだけ感情移入させることができる。しかも、その気持ちは志賀も、いたいほど分かる、と言う。それだけでも、『赤い風船』がどれだけ優れた作品であるか、推し量れるものだ。

 お母さんがそれをおじいちゃんに話すことに対して、恥をかかされた、と怒った裕だったが、志賀は翌々日、銀座の露店で、映画の大きい赤い風船と同じくらい大きくなる赤い風船を買って、「偶然、また田鶴子と裕が来たので、脹らましてや」る。ただのいいおじいちゃんである。本人は「偶然」と言っているが、あまりにもタイミングが良すぎはしないか、と私は思っているのだが、実際のところはどうなのだろう。

 だが、この文章でおもしろいところがほかにもある。文章中で『赤い風船』のあらすじが紹介されているのだが、微妙にこれが間違っているのだ。

 特に大きいのは、「悪戯っ子は執拗く追いかけて来る。空き地のような所の低い垣根を乗越え、逃げたが、到頭追いつかれ、四、五人に囲まれる。」というところ。たしかにそういうシーンもあるのだが、その後に続くのが赤い風船が割られるシーンであることを考えると、実際は「四、五人」どころではない。その十倍はいるくらいだ。

 そのあたりのことについて、志賀は最後にこう付している。

「赤い風船」を二度見たら、私の書いた梗概が大分違っている事に気がついた。しかし、直さず、そのままにして置いた。(352頁)

 こんな所業、「小説の神様」志賀直哉でなければ許されないだろう。彼がいかに大物だったのか、こういったところからも垣間見える。

 同時に、作品というものが受け手のなかで生きて変化するものである、と志賀が実証してくれているようにも感じた。もちろん、しっかり筋や登場人物の名前を覚えているに越したことはないのだろうが、良かったな、と思った作品は、全体があやふやになってもそのまま、良かったよなあ、という印象が残っていることがある。そんな風にしてひとの心に残る作品に、私は憧れる。そしておそらく、私にとって『道の向こうの道』はそういう作品のひとつになることだろう。

 

 さて、読み返してみると、今回この文章に出てきた作家は晩年だったり年齢を重ねてから、自分のことを題材に文章を書いたひと、という点で共通するところがあるかもしれない。

 志賀直哉や大江健三郎は一時期に限った話でもないが、芥川龍之介は後期、「保吉もの」と呼ばれる私小説群を書きはじめ、遺作は『歯車』だ。室生犀星の遺作も自らの闘病記になったし、森内俊雄も、最近の作品は私小説的要素が強い。(村上春樹だけはなんとも言えないが。)

 私はあまり明るくはないけれど、文学研究や文芸批評において、テクスト論や読者理論といった観点が注目されて久しい。それまでの作者や作品、時代研究から取って代わるほどの力で大きくなっていると思うこの研究を、もちろん私は否定するつもりもない。この分野からの優れた成果の恩恵を、私も大いに受けさせてもらっている。

 一方で、「作者の死」という響きには違和感を覚えている。ロラン・バルトの真意はもう少し慎重に確かめねばならないと思っている。が、ともかく、言葉というものは使われれば使われるほど意味が摩耗したり、都合良く置き換わったりしてしまうこともあるもので、私は、この「作者の死」も、「死」という強い言葉に引きずられたのかどうか、作者の意図なんて関係ない、という、どこか一方的な意味が付与されてしまってはいないか、と感じている。

 もちろん、作者の真意がどうであれ、読者がそれに従わねばならぬ理由はない。各々、好きに読めばいいのだ。しかしそれは、作者のことを考えてはいけない、それは素朴な読みだ、と下に見ることを意味してはいない。

 正直なところ、私は大学に入ってから頻繁に耳にする「テクスト」という言葉の響きにすら、いまだ違和感を拭えないでいる。その理由は、たぶんそれが「テキスト」という、日本語ではどちらかと言えば教科書を意味する単語を想起させ、伝達の機能に特化した文字の印象が浮かぶからなのかもしれない。

 チラシやパンフレットの文章の背後にいちいち人間を感じていても仕方ないのかもしれないが(と言いながら、私はけっこうそれを考えてしまう人間だ)、やはり小説のような文章については、その背後にある「ひと」も合わせて味わいたいのだ。そのとき、やはり自分について語っている文章が一番、そのひとにとって切実なものとなりやすいのかもしれない。もちろん、それは感傷と隣り合わせだ。しかし、私はそれでもいいんじゃないか、と思っている。そんな恥ずかしいことを書いて、と言われることもあるだろう。しかし、そもそもものを書いて、ましてや発表する、それ自体がけっこう恥ずかしいことではないか。むしろ、一切の恥ずかしさを感じさせない完全無欠なスマートな文章は、感心はするけれども、読者の胸に響くものなのだろうか。

 最後に、『道の向こうの道』のあとがきから引用しよう。

 あたりまえのことを、あたりまえに書いて、そのあたりまえが、あたりまえでなくなる境界を描きたい、と思って、この一作を試みました。さらに〈時〉を捉えたいと願いました。飛翔する蝶を空において捕らえるように。成功していれば、うれしいのですが。
 むかし、井上靖氏から「一つ書きなさい。あなた、一つでいいのです、一つです」と諭されました。いまだに忘れられない言葉です。願わくはこの一冊がその「一つ」でありますように。(248頁)

 そういえば、井上靖にも晩期に近い作品に、母親の死を契機に書いた自伝的小説『わが母の記』がある。歴史ものなどの作品が多い井上靖であるが、そのほかにも『あすなろ物語』などの自伝的小説の名作がある。それにしても、あれだけの膨大な著作がある井上靖がこれだけ「一つ」を強調していたことに、私のような人間は勇気づけられる。

 

 私はこれからも、その作者にとっての「一つ」を探していこう。そして自分も、自分にとってのその「一つ」を書ける日まで生きて、書いていこう。

 

(文責 宵野)

 

初出:宵野雪夏『ただ「一つ」を求めて』所収、2018年11月

 

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