ソガイ

批評と創作を行う永久機関

ただの私的な宣言です。

 忙しさを言い訳に、どうにも弛んでいる気がする。わざわざ宣言するようなことではないので滅多に言わないが、現在、私は大学院生だ。この4月から修士2年となり、予定では後期博士課程にダイレクトで進むつもりはないので、単位を落とさない限りは今年度で卒業、働くことになる予定だ。(とはいえ、就職活動をしているとは言い難い状況だ。もっとも、元から一般的な新卒採用を見込んではいないが。)

 究極的な夢は措いて、自分が筆一本で食べていけるような人間だとは思っていない。いや、そもそも現在、筆一本で生計を立てているようなひとがどれだけいるのだろうか。多くの人が、ほかの仕事をして、生計はそちらで立てながら、文章を書いているのではないだろうか。

 そして、自分はもしかしたら、そちらの方が合っているのかもしれない、と感じてもいる。

 なぜこんなことを考えるようになったのかというと、今度文学フリマでも取りあげるが(編集の進捗が頗る悪く、はらはらしている。)、小川国夫についていろいろ読んでいるなか、勝呂奏『評伝 小川国夫』(勉誠出版)に、こんな書簡が引用されていたからだ。立原正秋宛のもの。

(1)立原正秋は、芸術に精進したく、それを他のものですり代えるのはごめんだ。同時に生活の資も創作から得る。作品は玄人的、独自なもの。

(2)小川国夫は、芸術に精進したく、それを他のものですり代えるのはごめんだ。だが生活の資を創作から得るのは不可能だから、周囲との表面的妥協を試みて、そこから得る。

(3)《青銅時代》《秩序》などの同人の大部分は、創作をやりたい。しかし、うまく行かなければ学者になる。作品は外国文学の imitation 。(195頁)

  実際、このとき小川は会社からの収入で生計を立てていた。果たして、芸術に対するそれほどの信念が私にはあるのか、お前だって「創作をやりたい」だけなのではないか、と、甚だ耳の痛いところではあるが、ともかく「周囲との表面的妥協」。この言葉は、少し気持ちを軽くしてくれた。

 いや、もちろん現実に抗い続ける生き方も、それはそれで見上げたものである。それができるに越したことはないのかもしれないが、私にはちょっと鋭すぎる。かと言って、しっかりと「社会」に順応できるようにも思えない。というより、たぶんしない。まあ中途半端と言えば中途半端なのかもしれない。が、そのふわふわしたものをひとまずからだに留めるために、文章を書いているような気がしている。

 すると、私は「周囲との表面的妥協」をしながら、つまり生活をある程度は確保したうえで、日記を書く延長線上で文章を書いていくのが合っているような気がする。まあ、生活がかかっていなければ、ひとまず好きなものを書くことができるだろうし。

 

 で、そのように自分を考えるのは構わないのだが(就活につきものらしい自己分析は、いまだしたことがない)、思っているだけでは意味がない。行動を起こさなければ、なんにもならない。しかし、なにをどうすればいいのか。現状ですらこれなら、仕事を始めたらいよいよなにもやらなくなってしまうのではないか。最近、危機感を覚えている。いや、本当に、世の中の兼業作家はどのようにして執筆の時間を作っているのだろうか。作家に限らず、仕事をしながら趣味を満喫しているひとは、もうそれだけですごいなあ、と月並みなことを思うのだが、やはり、思っているだけでは仕方がない。

 というわけで、年度も変わり、いろいろと生活がせわしなくなるこの時期に、あえてテンションをかけることで、予行練習とするのはどうだろか。1週間に2〜3の短い記事を上げることを目標に、文章を書くことを習慣にしたい、と考えた。ここでも、考えただけでは意味が薄いので、いったいどこまで続くのか分からないけれど、更新頻度が落ちているこのブログのカンフル剤にもするべく、挑戦してみようと思っている。

 主には、書評、読書メモ、思考メモ、勉強の備忘録(とりあえず夏まではフランス語か)、エッセイ、掌編などなどを、気の赴くままに書いていこうと考えている。(そういえば、創作を載せたことがほとんどなかった。プロフィールにいちおう、創作に関心がある、と載せているのだから、やってみてもいいかもしれない。)

 ひとまず、4月1日になにかあげられれば、と思うのだが、今日は資格試験があって、へとへと。さっそく正念場を迎えてしまったのだが、果たして。

 

(宵野)