ソガイ

批評と創作を行う永久機関

紙の本の余白

 ただいま、絶賛編集作業中である。ソガイで冊子を作るのはこれで4回目。思い返すと、一号はふつうに両面に文章を印刷したものをホチキスで綴じた、モノクロのフリーペーパー、二号は、本文から表紙まで、すべてWordを使って無理やりなんとかした、手探り感満載のもの、三号はインデザインを使い、多少はそれっぽい版組を作ってみたもの。

 もちろん、号を重ねるごとに質は上がっていると思うのだが、いま見返すと、その三号も、やや文字が詰まりすぎているような感じがする。余白に対する意識が、まだ希薄だったのかもしれない。ページ数が少ないほど印刷費は安くなるから、それを考えればページあたりの文字数を多くしたいところなのだが、本の読みやすさを決めるのは、文字の大きさや紙の種類や質よりも、むしろ版面の外や行間・字間、さらには空白ページといったような「余白」の部分にある、といまは考えているから、ここは仕方ない。

 というのも、最近の文庫本にとくに顕著なのだが、ノドがきつい本が多い。ノドとは、本を開いたときの内側、背に糊付けされている側のことだ。当然のことだが、本はぺったり平面には開かない。背を割るくらい強く開くなら別だが、ふつうに開けば、絵で描かれる遠くのカモメのような、ふたつの湾曲を描いた線になる。だから、そもそもページのノド側の字は読みづらい。そこで、ここでは縦書きの本を想定するが、ページを組むとき、基本的には、偶数ページ(右)では、本文を配置する場所(版面(ハンヅラ))を左右中央よりも右(小口側)に、奇数ページ(左)では、左にずらす。それくらい、気を使う場所なのだ。

 もっとも、厳密には本の綴じ方やページ数、紙質、ときには本文の内容によって変わってくるだろう。しかし、それも、そもそも読みにくかったら意味がない。そして、おそらく紙の本と電子書籍(あるいはこのブログのようなインターネット上の文章)との一番の大きな違いは、フォーマットの固定度なのだ。紙の本は、すでにレイアウトが決まっているものを差し出す。対して電子書籍は、読者の設定で、文字の大きさやフォント、あるいはデバイスの選択によっては画面の大きさを変更することができる。

 つまり、紙の本が物質的なモノであるのに対し、電子書籍はデータである、と言ってしまってもいいだろう。むろん、これはいい悪いの問題ではない。単純に、性質の違いだ。だから、それぞれに長所と短所があり、そして向き不向きがあるに過ぎない。電子書籍は紙の本の敵だとは、私は思わない。むしろ、弱点を補ってくれる存在になりうるとすら思っている。たとえば検索機能。紙の本だと探すのが大変だが、電子書籍なら検索ワードを打ち込めば網羅してくれる。これも、紙の本では文字が固着しているのに対し、電子書籍はデータであるからである。たとえ紙の本で索引がついているものだったとしても、提示できるのはせいぜいがページ数だけで、一方電子書籍は、「ここ」とマーカーで、まさにピンポイントで示してくれる。

 さて、ここで先ほどの「余白」の話もつながるだろう。つまり、電子書籍はデータなのだから、そこには余白がない。強制改行以外に、改行の概念もない。電子書籍で、視覚上では改行されているようだが、それは、デバイスの制約で「とりあえず」折り返しているに過ぎない。そして、それは変更可能だ。なぜなら、その文字は固着していないからだ。さらに、電子書籍にはページの概念もない。それもそうだ。設定によって一面あたりに映る文字量が変わるのだから、この文章は何ページにある、と定義することはできない。だから、偶数ページは右にずらす、といったような版面のことを気にする必要がない。

 ひるがえって言えば、紙の書籍の特徴、あるいは、電子書籍と比較したときに紙の本の、紙の本たる所以は、余白にこそある。文字を売っていながら、それがない余白こそが肝なんだ、というと少し変な感じもするけれど、事実、余白のない本はない。

 だから、私はアマチュアもいいところではあるけれど、自分で本を作る限りは、余白をまず決めてから、作っていきたい。

 もし紙の本に敵があるとすれば、それは外部ではなく、余白という特徴をないがしろにする、内部にあるのかもしれない。

 

(宵野)