新学期をむかえて体力的に厳しかったのか、学校から帰ってくると課題に着手して、その目処がつくと寝てしまう、そんな日々が続いていた。これを書いているいまも、正直かなり眠くて仕方ない。
先日、いつもの出張校正を早めに切り上げ、神保町に寄り道した。だいぶ遅めの昼ごはんとして蕎麦が食べたくなり、神保町にある、好きな蕎麦チェーン店が、一番の目当てだった。しっかりと蕎麦湯を2杯弱いただいてから、とはいえなんだかんだ、古書店巡りをする。もっとも、ちょっと前にやや値が張る本を何冊か買っていたので、よほどのことがなければ、この日は買わない気でいた。いたのだが、もちろん、「〜ない気でいた」とわざわざ書くということは、「〜してしまった」ことを示している。買ってしまったのだ。日本近代文学館が刊行している「精選 名著復刻全集」によって復刻された、創元社刊行の『春琴抄』(オリジナルは昭和8年12月)、2000円。それと、ワゴンにあった永井荷風の文庫本2冊、『珊瑚集』(新潮文庫)と『地獄の花』(岩波文庫)も併せて買ったので、計2400円のお買い物になった。
創元社とは大阪にある出版社だが、そんな創元社と谷崎との付き合いは、もちろん、関東大震災に被災して谷崎が関西に移住したことが、大きなきっかけのひとつである。
谷崎は、昭和7年4月にまず『倚松庵随筆』を創元社から刊行。これは、ほとんど正方形に近い特殊判。そして昭和8年4月には『蘆刈』を、自筆本限定500部で刊行。私はこの本を、神保町のほかの古書店で見かけたことがあるのだが、たしかその値段が20万か30万か、とにかく文字通り桁違いの値段であり、泣く泣く諦めたことがある。この本の特徴は、装幀を谷崎自身が担当していることで、木の函に入った和装本という作りには、強い意匠の意識を感じる。谷崎は創元社から、いわゆる豪華本をいくつか出している。谷崎の装幀についてのこだわりは、「装釘漫談」(「讀賣新聞」昭和8年6月)という短い文章にも見て取ることができる。そう、この文章のなかで、谷崎はまさにこの『春琴抄』をめぐる創元社とのやりとりを明かしている。
(…)「春琴抄」も近いうちに大阪の創元社から売り出すが、これは創作集のことでもあり、是非菊判にと思つてゐたところ、矢張中央公論社と全く同じ理由(菊判では売れ行きが悪い)を述べて四六判にしてくれろ、菊判ならば豪華版の限定本にするより外仕方がないが、「蘆刈」が出た後ですから此れは四六にしてたくさん売らして下さいと云ふ。創元社では此の前「倚松庵随筆」を四六と菊の間のやうな横幅の広い型にして出したら、あれでは書棚へ並べなれない、あの本だけ一つ飛び出して外の書物と不揃ひになると云ふ苦情が来たとか云ふのである。(括弧内は引用者注)
まあそんなこんなで、同年の12月に、谷崎自身の装幀で『春琴抄』が刊行される。漆塗り、鉄帙入の装幀、そして変体仮名を使用した本文、という独特な作りのこの本はベストセラーとなり、版が重ねられた。谷崎がこだわった菊判ではなく、四六判ではあったが。この『春琴抄』、表紙が漆塗りなのだが、黒と赤、2パターンがある。今回手に入れたのは黒なのだが、それはともかく、どうしてこの2種類があるのだろうか。資料を探せば、谷崎がそれについて語っている文章もあるのかもしれないが、まだ私はそこまでたどり着いていないので、自分なりに考えてみる。
『春琴抄』は、盲目の春琴と、彼女に仕える佐助の話、とざっくりまとめることができる。ある日、寝込みを襲われて顔に熱湯をかけられた春琴の思いを察し、佐助は、彼女の顔を見ないように、自分の目を針で突いて自らも盲目となる。このシーンが一番有名ではないだろうか。
で、このシーンを色で表すとなると、「針で目を刺す」という行為から血の赤をイメージすることができ、「盲目になる」ことから黒のイメージも出てくるだろう。もっとも、この話はそう単純なものとも言えず、いまの赤と黒というイメージについても、もっと重層的な、あるいは広がりの持ったものであるとも思うのだが。脱線すると、『赤と黒』といえばスタンダールの小説が思い浮かぶ。谷崎は『饒舌録』で、スタンダールの『パルムの僧院』を高く評価しているが、さすがにこれは関係ないとは思う。
このシックな作りの『春琴抄』、本文は罫線の引かれたもので、またところどころ、変体仮名が用いられている。変体仮名は、明治期の作家の手書き原稿などではかなり見られるものではあるが、時代が進んで活版印刷が普及し、ましてや『春琴抄』の時期になると、さすがにそれほど使われているものではない。ただ字を変えればいい、と思われるかもしれないが、いまみたいに電子データが作れるわけではないので、わざわざこのために、変体仮名の活字を用意しなければならないし、場合によっては作らなくてはならないかもしれない。現場としては、正直厄介な話だったのではないか、と思われる。
谷崎は、「装釘漫談」でこのように語っている。
私は自分の作品を単行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、真に「創作」が出来上がつたと云ふ気がする。単に内容のみならず形式と体裁、たとへば装釘、本文の紙質、活字の組み方等、すべてが渾然と融合して一つの作品を成すのだと考へてゐる。
また、先日『中央公論』のバックナンバーを漁っていたとき、偶然にも、創元社版『春琴抄』の広告記事に出くわした(昭和9年2月号)。そこには、このような煽り文句があった。
創作は作家の持つ藝術の或る部分に過ぎない。
もちろん、この文句を考えたのは編集者だと思うが、しかし、これは谷崎の「装釘漫談」の言葉を、別の言い方で表現したものと言える。
では、そもそも谷崎はなぜ、「春琴抄」をこのような装幀にしたのだろうか。考えるに、おそらく、谷崎はこのような「古さ」を装幀によって演出することで、「鵙屋春琴伝」という架空の書物を頼りに春琴と佐助の物語を想像して語る、語り手「私」の身体感覚を半ば追体験させようとしたのではないか、と私は考えてみる。あるいは、それも超えて、読書という営みを、まるごとひとつの作品にしてしまったのではないか、とまで考えるのはさすがに暴論もすぎるだろうか。いや、しかし、谷崎ならやりかねないか……。あるいは、単純にひとと違うことをしたかっただけかも……。彼ならあり得ないこともない。ときには装幀という視点というものも、これからは持ち合わせながら作品に接していきたい。(あまり「批評」的ではないかもしれないけれど、まあそれはそれで)
さて、私は少し、装幀について思うことがないではない。
日本の本は、装幀へのこだわりがいまだに強い。ペーパーバックと比べると、一目瞭然である。
それは構わないのだが、果たして装幀を、ひとは面で考えていないだろうか。ひとと話していて「装幀」と言いながら、ほとんど「表紙」、より正確に言えば、「カバーの表1を覆っているところ」が指されていることが頻繁にある。しかし、私は「装幀」を立体で考えたい。そこまで考えて、初めてひとつの物としての「本」になる、と思っている。
参考 『谷崎潤一郎全集 第十七巻』中央公論新社、2015年9月
(宵野)