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「先を行く先輩(ひと)」としての青春もの〜『響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』を観て〜

 出不精かつ優柔不断なところは、自分の悪いところだと思っている。平日に時間を作れる。これは学生という身分の特権といってもよく、どうして私は、この特権を学部生時代にもっと行使してこなかったのだろうか、と後悔ばかりが押し寄せてくる。それに、私が所属する大学は「国立美術館キャンパスメンバーズ」の加盟校なので、いくつかの美術館に、場所によっては無料で入館することができる。上野だったら、特別展を除けば概ね無料で入れるのではないか。無料だったら、お、やってる?くらいのノリで入って、ちょっとくらい見落としてもいいか、くらいの軽い気持ちで展示を見るのもいい。あと1年弱(実は単位の問題で、下手をすると在籍期間が半年伸びてしまう可能性が無きにしも非ずなのだが)、行きたいところ、見たいもの、やりたいこと、どんどん積極的に足を運んで行きたい。まあ、お財布と相談しながら、とはなるが。

 

 というわけで、講義がない今日は早起きして……のつもりができず、昼前に家を出発し、映画を観に行った。私はそれほど映画を観ないのだが、最近はそれを改めたいと思っている。やっぱり小説だけではだめだと思うのだ。……もっとも、数年前からの私は、王道の小説からはどんどん離れていっているような気もしないではない。自分の方向音痴については話したこともあるが、

 

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どうやら私は、ちゃんとした道を歩いているつもりで、気がついたら獣道に入っているようなタイプの人間らしい。まあそのくせ自信満々に歩いているのだから、大変タチの悪いやつである。

 映画に話を戻すと、この前ブックオフのワゴンに108円で古い映画のDVDが売られていて、適当に、『オペラ座の怪人』『疑惑の影』『赤い子馬』『我等の生涯の最良の年』の4作品を買った。『禁じられた遊び』なんかもあったのだが、これは数年前買ったのが家にあるし、ヒッチコック監督作品もいくつかあって、『疑惑の影』はそのひとつなのだが、『裏窓』とか『鳥』とか、私の知っている(が観たことのない)作品は、そこにはなかった。あとは、小津安二郎とか、いつかちゃんと観たいな、と思っているのだが、そのワゴンは外国の作品しかなかった。せっかく買ったし、GW中に少し観たいと思う。

 で、じゃあ今日は何を観てきたかというと、『響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜』なのだ。さっきまでのノリと全然違うじゃないか、と思われるかもしれないが、私もそう思う。というか、ここまでの話、べつにいらなかったんじゃないか、と今更ながらに思うが、そもそも私の趣味は一見すると一貫性が見出せないし、じゃなければこんなカオスなブログにはならず、まあ、たまにはこんな饒舌なかたちの文章もいいだろう。

 最近はめっきりアニメを観なくなった私だが、このシリーズはかなり好きで、『リズと青い鳥』も、1日につきひとつしか予定を入れたがらない、「ひとつ予定がある=その日は空いていない」の私にしては珍しく、講義が終わってから映画館に足を伸ばして観にいった作品だった。しかしながら、このときは公開終了間近に慌てていったような形だった。そういえば、私は少し前までの新海誠もまあ好きで、学部時代に『言の葉の庭』を、講義と講義の間に池袋まで出て観にいった。このときも公開終了間近であり、どうにも私は、ぎりぎりにならないと動こうとしない。

 というわけで、それを反省して、今回は封切りから間もなく行った。これを逃すとGWに入ってしまい、映画館も混むかなあ、という懸念もあった。おかげさまで、ゆとりをもって鑑賞することができた。劇場では飲まなかったが、家から温かいコーヒーを淹れて水筒で持ってきて帰りに座って飲んだ。作品の余韻も相俟って、いい味だった。

 

 まだ封切り間もないのでネタバレになるような感想は控えるが、この作品単体でも楽しめるが、やはりシリーズものなだけあって、それまでの作品を知っていると感じいるところが多い。「響け!ユーフォニアム」シリーズは、王道の部活ものであり青春ものであるから、「成長」の要素がつきものだ。とはいえ、「成長」とか「変化」は、物語にとって重要な要素であるし、今のところ、人間が出てこない物語はほとんどないので、「成長」をどう描くかは作り手にとって命題になってくる。

 この点、このシリーズの主人公、黄前久美子の性格はけっこう独特というか、失言癖(?)があり、高坂麗奈には「性格悪い」と言われ、先輩の田中あすかには、ざっくりまとめると、「気になるから首を突っ込むくせに、傷つくのも傷つけられるのも怖いから安全な場所から見ているだけ」と結構な言われようをされたこともある。ここだけ見ると、あまり主人公らしくは思えない。しかし、青春物語ということもあり、そんな久美子の成長がストーリーの根幹を成している。今回は、後輩をできて先輩となり、一年生の指導係も務めることになった久美子が、さまざまな問題を、めんどくさいだとか、わからないだとか愚痴をこぼしながら、恋に部活に、そして自分の将来に、悩みながら向き合っていく。

 まさに青春もの。と思うのと同時に、果たして私の同じ年齢のときがどうだったか、と考えると、あんなに一生懸命には生きていなかったような気がする。部活も、高校二年生のときに股関節の臼蓋がひとよりかなり浅い?ことが見つかったことをきっかけに退部し、そもそも中高一貫の男子校だったし、周りはうちの学校よりもずっと優秀な男子校に囲まれ、文化祭も、女子はだいたいそっちに行く。そもそも、異性と付き合いたい、と本気で思ったことがあまりない。まったく、こんな青春もあるのだなあ、としみじみ感じいる。(臼蓋形成不全が発覚したものの、べつにだからといってすぐに辞める必要はなかった。しかし、その途端、一気にモチベーションが無くなった。そして、ある意味ほっとしたのも事実だった。頑張らなくていい理由が見つかったからなのだろう。だからきっと、これが私の限界だった。)

 だから、私が彼女たちの物語を見て羨ましく思うのは、恋や友達のある学校生活もそうなのだが、それよりもむしろ、悔しくて涙を流してしまうだけ打ち込めるものがあること、だ。それは、努力の証だ。努力は必ず報われるとは限らない。結果が出るかどうかなんて、運によってずいぶん左右されてしまう。これだけ努力して、結果が出なかったらどうしよう。彼女たちには、口に出さないだけで、つねにそんな不安がつきまとっている。あるいは、こんなに吹奏楽を頑張ったって、将来それで食べていけるわけではない。だとしたら、なぜこんなことに、ほかの時間を投げうってまで打ち込むのか。将来を考えなくてはいけない、でも、いま目の前にあることにも打ち込みたい。悩みに悩む。今作の久美子は、やっぱりどこか成長しているな、と感じた。まだ道が決まったわけではない。将来についての不安は付いて離れない。けれど、いまを懸命に生きることでしか、将来は開けない。まだ完全にではないけれど、腹をくくっているように感じられた。

 

 さて、話がまとまらなくなってきた。つまり言いたいのは、一般的な青春時代を、私はとっくに過ぎてしまったかもしれない。しかし、いまを一生懸命に生きることならできる。久美子にとっては、たとえばあすかが「先を行く先輩(ひと)」だ。そしてきっと、私にとってはこの登場人物たちが「先を行く先輩(ひと)」となるのだろう。

 私にとって青春ものは、懐古よりも、未来への指針としてあるのかもしれない。

 

(まとまった感想は、きっといつか書きます。なんなら『リズと青い鳥』といっしょに)

 

(宵野)