ソガイ

批評と創作を行う永久機関

第28回文学フリマ東京に出店します(試し読みあり)

 前回に引き続き、文フリ東京に出店します。

bunfree.net

 

c.bunfree.net

 ブース番号はカ-13、ジャンルは文芸批評になります。開始時間の十一時から終了の一七時までブースを開いている予定なのでお好きな時にお越しください。


ソガイの出品一覧

 ブースで販売する本は以下の四点となります。

新刊 『ソガイvol.4 平成文学』 500円

 

既刊『ソガイvol.3 戦争と虚構』 500円

 『ソガイvol.3 戦争と虚構』紹介

 

既刊『ソガイvol.2 物語と労働』(残り数部) 500円 

『ソガイvol.2 物語と労働』紹介 - ソガイ

 

宵野雪夏、個人誌『ただ「一つ」を求めて』 300円

『ソガイvol.4 平成文学』紹介

ソガイ第四号のテーマは「平成文学」です。

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目次と概要(クリックすると該当箇所の一部が読めます)

論考 「私」に還り、「私」を消す作家 — 小川国夫『弱い神』から 7  宵野雪夏

  出版に求められるものとは何だろう? そんな疑問を出発点にして、小川国夫『弱い神』を中心に、ある種の私小説作家の文章への意識や、これからの出版に求められるものを考えた。

 

論考  『世界の中心で、愛をさけぶ』は なぜ文学と見なされないのか 59  雲葉零

  平成のベストセラー『世界の中心で、愛を叫ぶ』とその作者片山恭一を足掛かりに現代に日本における文学のあり方や、小説の商業性について考えました。最初は『世界の中心で、愛をさけぶ』の作者ということで片山を調べ始めたのですが、途中からは作品自体よりも作者のほうが面白いのではと思いながら書いていました。やはり自分は作家論と、苦労しながら小説を書いている作家(大半の小説家がそうかもしれませんが)が好きなんだなと思いました。

 

エッセイ  天皇制の物語と、それに対峙する小説 ~中上健次『異族』と大江健三郎『水死』について~   77   環原望

  物語と天皇制を軸にして、中上健次『異族』と大江健三郎『水死』について扱ったエッセイです。2つの作品に見られるある種の平板さや脱臼したような語りがどのような戦略のもと意図的に選択されたものなのか、ということについて書いています。

 

 

 以下ソガイの本文の試し読みを公開します。それぞれの文章につき、冒頭が対象となっています。また末尾に参考文献を全て公開していますのでご参考にしてください。なお、縦書きが横書きになっている等、冊子との形式的な差異が一部あります。

                                                               論考 論考 「私」に還り、「私」を消す作家 — 小川国夫『弱い神』から 宵野雪夏

一 炎上=ビジネス化する出版、「文士」たる小川国夫

 「平成文学」という特集テーマを決めたのは十一月だったろうか。間違いのないテーマだと思っているが、困ったことに、それからの私が関心をもって読んでいたのは、ほとんど昭和やそれ以前の作品だった。というのも、のっけからこんなことを言ってしまうのもなんだが、私はいまの文学、というよりも出版やメディアの世界に、かなり懐疑的だ。時代の流れに違和感をがある。だから、少し「いま」という時間から距離を置きたい、と思っている。小川国夫という、おそらくいま、あまり読まれていないだろう作家、少なくとも「平成」感のない作家に興味を抱き、そして彼について文章を書こうとしているのにも、そういった理由がある。はっきりいって、小川国夫は「地味」な作家である。しかし、この「地味」さは、いまの業界に欠けている、あるいは蔑ろにされているものではないか。すると、いまの時代に違和を感じている私が、それでもいまの時代を生きていかねばならない私が拠り所にし、目指す場所は、彼のような作家にあるのではないだろうか。そう感じて、「平成文学」特集に小川国夫を採り上げ、その周辺を追っていくことに決めた。それは、私が違和を持つ現代の空気を逆照射するような形で示すことにもなるだろう。

 

 出版に、炎上狙いのマーケティングが目立っているように感じてならない、と個人的な意見を表明したところで、これはあながち、ただの印象に過ぎないということにはならないだろう。ひとまず小説以外の分野を見渡しても、日本礼賛本や、嫌韓、嫌中本といったヘイト本の類は確実に書店で幅を利かせ始め、エビデンスの乏しい歴史本や医療本、挑発的なタイトルの新書、有名人の赤裸々な生活を書いた暴露本、明らかに少年誌、青年誌の枠を超えた性描写を含む漫画—枚挙に暇がない。

 これらの責を、名前の出ている著者に求めるのは当然のことだが、しかしより注意すべきは、それを刊行する出版社の編集方針であろう。もちろん出版もまったくの慈善事業ではないのだから、売り上げは重要だ。しかし、編集や校閲は、その出版倫理に鑑み、ときにはストッパーとならねばならない。こんなことは改めて説明するまでもないだろうが、出版に限らず、メディアが目先の数字やおもしろさに執着して倫理をないがしろにしたとき、ひとの尊厳は容易に侵害され、文字通り、媒介となって拡散されるからだ。

 具体例を挙げるなら、たとえばオウム真理教の一連の事件において、メディアが犯した罪が大きいことは忘れられてはならないだろう。メディアは麻原彰晃を面白おかしく扱ったし、松本サリン事件や坂本弁護士一家殺害事件は、メディアが慎重を期していたなら起こらなかった、報道被害(メディア・パニッシュメント)を出さないで済んだ事件だった。また、報道被害の一例として、桶川ストーカー殺人事件が、個人的には印象深い。警察の不祥事として有名な事件であるが、同時に、警察の印象操作にまんまと踊らされた報道は、憶測から、被害者である女子大生に負の印象を帯びさせて、不当に被害者、遺族の名誉を毀損した。この問題に真正面から立ち向かった数少ないメディアのひとつが、警察記者クラブに所属しておらず、警察から直接取材することができなかった写真週刊誌『Focus』の記者だったことは、皮肉というより、暗澹たる現実に他ならない*1。そういったなかで、編集は、著者と受け手の間にいる。だから門番として、出版における編集の役割は、かなり大きいものがあるはずだ。

 しかし、近年では編集も著者の尻馬に乗り、あまつさえ炎上を焚きつけることさえしている。実際にそれらの本は話題になり、そして売れるのだから、たしかにビジネスの面で見れば勝者なのかもしれない。しかしそれでいいのか? 私には違和感がある。

 小説ではどうだろう。文学離れが叫ばれるなかで、近年は芥川賞・直木賞が盛り上がった。言うまでもないが、又吉直樹*2『火花』(二〇一五年)、村田沙耶香*3『コンビニ人間』(二〇一六年)、藤崎彩織*4『ふたご』(二〇一七年)、そして古市憲寿*5『平成くん、さようなら』(二〇一八年)が挙げられる。作品自体の評価は、一部未読のものもあるので避けるが、これらすべてが、芥川賞・直木賞を主催する文藝春秋社の刊行であることが、目を引く。近年だと文藝春秋は、『週刊文春』のスクープ、「文春砲」で話題となっているイメージだが、おそらく文藝春秋社は(『新潮45』の問題で、新潮社内の文芸部と社会部の対立の構図が見えてきたのとは異なり)、部をまたいで方針が一貫しているようにも感じられる。))

 大きな反響を呼んだ、古市憲寿と落合陽一*6の対談も『文學界』である。この対談に対し、磯崎憲一郎*7が「創造力の欠如」だと批判を出した*8。それについて落合は、その批判は結局小説を書くことを前提としたものに終始している、と発言した*9。つまりは、みんなが小説を書かねばいけないわけではないのだから、批判は的外れだ、ということだろう。もっともかもしれない。

 しかし、だとすればなぜ、その対談を文芸誌である『文學界』でやる必要があったのか。これは落合にではなく、『文學界』、ひいては文藝春秋に答えを求めるべき問いだろう。著者と違ってあまり名前が出てくることのない編集が、その作品に持つべき責任は大きいはずだ*10

 

 平成という時代を一言で言い表せば、インターネット、そしてSNSの登場による情報の氾濫の時代、ということになるだろう。そしてそれはマーケティングに利用され、炎上商法という言葉も生まれた。とにかく目立つこと。YouTubeやTwitterで、明らかに非難される行為を撮った映像を自ら投稿したものが連日ニュースとなっているが、それは、目立ちたいからやっているのであり、その意味では、炎上目的の出版行為についても、根本にある心理構造は変わらない*11

 

 これらの出版物が無くならない、それどころか無視できない勢いで増えていっている背景には、やはりそれが売れること、つまり強いビジネスへの意識を指摘できる。というより、それしかないだろう。出版不況が叫ばれるなか、売れるためにはまず目にとまること、それを目指すことは間違っていないのかもしれない。が、それでいいと思っているのならば、こんな文章は書かない。平成は終わるが、倫理的な問題は軽視され、この流れはますます加速していくことだろう*12

 

 とはいえ、すべての出版物がそうとは限らない。あるいは、私がそう信じたいだけなのかもしれないが、しかし、溢れる扇情的な言葉に辟易している人々が、サイレントマジョリティとして(サイレントマイノリティではない、と私は信じている)存在しているはずだ。そんな人々に届きうる作品が、この国にはまだあるのではないか。そしてそれは、細々とになるかもしれないけれど、それでも続いていくのではないだろうか。そんな楽観的な(いや、これは諦めることよりもつらい選択になるかもしれない)希望を、見出していきたい。本来ならひろくメディアの問題を考えていくべきテーマなのだろう。しかし、それはこの冊子のテーマには手の余る問題で、なにより紙幅も限られている。ここでは、小説に絞って考えていこう。

 

試し読みはここまでです

 

主要参考文献

 

秋山駿『私小説という人生』新潮社、二〇〇六年十二月

安藤宏『「私」をつくる—近代小説の試み』岩波新書、二〇一五年十一月

大城立裕『レールの向こう』新潮社、二〇一五年八月

小川国夫『逸民』新潮社、一九八六年十月

小川国夫『あじさしの洲・骨王』講談社文芸文庫、二〇〇四年六月

小川国夫『随筆集 夕波帖』幻戯書房、二〇〇六年十二月(二〇〇八年四月、第二刷)

小川国夫『弱い神』新潮社、二〇一〇年四月

勝又浩『私小説千年史 日記文学から近代文学まで』勉誠出版、二〇一五年一月

勝呂奏『評伝 小川国夫 生きられる〝文士〟』勉誠出版、二〇一二年十月

金井雄二『短編小説をひらく喜び』港の人、二〇一九年二月

川崎長太郎『鳳仙花』講談社文芸文庫、一九九八年七月

志賀直哉『志賀直哉随筆集』岩波文庫、一九九五年十月(二〇一七年七月、第七刷)

島尾敏雄・小川国夫『夢と現実—六日間の対話—』筑摩書房、一九七六年十二月

中村光夫『風俗小説論』講談社文芸文庫、二〇一一年十一月

森内俊雄『道の向こうの道』新潮社、二〇一七年十二月

 

日本近代文学館主催『没後十年 小川国夫展—はじめに言葉/光ありき—』

 

                                                             論考  『世界の中心で、愛をさけぶ』は なぜ文学と見なされないのか  雲葉零

 

一 序論

 『世界の中心で、愛をさけぶ』(以下、場合によっては本作と略称)は二〇〇一年に発表された。三百万部を超える平成を代表する大ベストセラーであり、映画化、ドラマ化もされている。一方で本作はその知名度ほどには評論の対象にはなってこなかったのではないか。論文検索サイトCiNiiで本作を検索すると二〇件ほどが出てきはする*13。だが、同じくベストセラー小説として知られる村上春樹『ノルウェイの森』が一四〇件ほどであることを考えると、知名度の割には少ないと言えよう。さらに映画関連の記事も二〇件の中には含まれる。小説としての本作を論文の主な対象にしたものは数件であ。またそれらの論考も二〇〇〇年代後半までがほとんどで、二〇一〇年以降に限ると一件しかない。ブームの直後にはとりあえず取り上げてみたものの、今や忘れ去られているということだろう。

 また文学好きの知人が多い筆者自身の体験からしても、好きな作品として本作を、好きな作家として片山恭一を挙げる知人は皆無であった。いや、それどころか記憶にある限り話題にすらなったことがない。

 このことこそ、私が本作を平成文学特集号で取り上げたいと考えた大きな理由である。つまり、本作は文学的評論に値する作品であるとはあまり考えられてこなかったし、その評価は今や完全に定着している。一方で本作では古典文学作品への言及もしばしば行われている。また作者である片山恭一は一九八六年に『気配』で文學界新人賞を受賞している。表面的な部分だけ見ても本作、そして作者片山自身の文学とのつながりは決して薄いものではない。

 さらに詳しく見ていけば、片山と文学のつながりはむしろ濃厚である。ニーチェ『権力への意思』についての片山の読書ノートにはこんな記述がある*14

 

 かつて戦争と貧困を描くのが文学だと考えられていた時代があった。とりあえず戦争と貧困が目の前から姿を消したいま、文学は自らの主題を喪失しているように見える。(後略)

(前略)生と死の差異が絶対的なものであるというのは、科学の口にすることであっても、文学が口にすべきことではない。超えられないどんな差異もあり得ないという確信のうちにこそ、文学の力への意思はあるのだと思う。

 

 さらに、片山はインタビューの中でこう語っている。

 

「特にグローバリゼーションみたいなものは人間の心とか未知の可能性というものを全部切り捨ててしまう。それに対して、文学というのは強烈に異議申し立てをしないといけない。大きな意味ではそういうものの一端で自分も書いているという思いがあります*15

 

 どちらを読んでも、自分が書くものが文学であるという意識を片山が明確に持っていることがわかる。また科学とは異なる価値観の探求、グローバリゼーションへの反発という文学観も現代日本でありふれたものであろう。

 これらの事実があるにもかかわらず、片山の作品は文学性があまり高いものとは思われていない。その原因を考えてみると、現代、平成における日本文学の輪郭が朧げにせよ見えてくるのではないか。

 また個人的なことを言えば、私自身この論考を書くまで、『世界の中心で、愛をさけぶ』というタイトルと、難病もの、純愛ものという定評ぐらいは知っていたが読んだことすらなかった。たまには、いったいどのようなものなのか、得体の知れないものを扱ってみようと思ったのである。

 二•一 時をかける語り手と死ぬべきヒロイン

 本作の主要な登場人物は語り手、松本朔太とその恋人のアキである。物語の流れを時系列順で記述すれば、二人は中学二年時に同級生として出会い、一七歳の誕生日を迎えた直後にアキは白血病で亡くなる。

 ここで注意する必要があるのは本作の時間軸が単純ではない*16ことである。アキの病死後、朔太郎とアキの両親がアキの遺骨と一緒にオーストラリアを訪する場面が冒頭部分にあるように。また単に時系列が連続していないだけではない。基本的に朔太郎は語られている時点を現在、生きているような視点で語る。以下のアキの臨終の場面のように。

 

 アキは口のなかで何か言いかけたけれど、ぼくにはもう聞き取れなかった。行ってしまうのだ、と思った。切り立ったガラスのような思い出だけを残して、彼女は行ってしまうのだ。

 頭のなかいっぱいに、真っ青な夏の海が広がった。あそこにはすべてがあった。何も欠けていなかった。全てを持っていた。ところがいま、その思い出に触れようとすると、ぼくの手は血だらけになってしまう。あのまま永遠に漂っていたかった。そしてアキと二人で、海のきらめきになってしまいたかった*17

 

 だが、同時に語られている時点を、過去として振り返るような語りが混入しているのである。例えば以下のように。

 

 中学校を卒業したぼくたちは、高校で再び一緒のクラスになった。そのころには、アキにたいする恋愛感情は偽りようのないものになっていた*18

 

 しかも、過去として振り返る場合も一定の時点から振り返っているわけではない。さらには我々が読んでいる本作が、語り手である朔太郎が書いたものであることを匂わせる文章もある。

 

 祖母が亡くなったあと、祖父はしばらくぼくの家で暮らしていたが、前にも書いたように、年寄りには住みにくい家だとか言って、一人でマンション暮らしをはじめた*19

 

 いわば本作は彼の手記や自伝のたぐいであるわけだ。となると作品の冒頭はアキの両親とのオーストラリア訪問で始まるのだから、書き手たる朔太郎は当然アキの死を知っているということになる。語り手朔太郎が、どの時間軸から語っているのかが分かりづらい点について、柄澤(2014)は以下のように指摘している。

 

「ぼく」にとって、時が経つことで「アキとの思い出に触れても、何も感じなくなる」ことは非常に恐ろしいことであった。アキの死から、最も離れた時間にいるのは(D)地点の「ぼく」である。(後略)

つまり、(D)地点の「ぼく」と手記中の語り部である「ぼく」の境界が非常にわかりにくくされているのは、(D)地点の「ぼく」が手記中の語り部の「ぼく」に寄り添うことによって、アキの思い出に触れることの痛みを再体験するためなのである*20

 

 ここでいう、(D)地点とは朔太郎が手記を書いている、つまり手記中の出来事が全て終わった時点のことである。この指摘は一理あるだろうが、読者という視点を導入すると構造的には同じであるが全く異質な効果が見えてくる。本作における、時系列の非連続性と語り手の時間軸が曖昧な語りは読者と朔太郎の内面を同期させ、しかも小説に臨場感を醸し出しているのだ。

 善し悪しはさておき、読む小説の大雑把なあらすじを把握しようとするのはありふれたことである。本作を読む前に読者の大半はヒロイン、アキが難病で死ぬということを予期していることになる。仮に時系列順に物語が進むのならばどうだろうか。当然語り手朔太郎は(小説内でアキが死ぬページまで)アキの死を知りえないので、語り手と読者の認識にずれが生じることになる。この問題をアキが死んだことを知っている、語り手としての朔太郎は解決している。また、あらすじを知らない読者はアキが死ぬという事実が冒頭で示されることによって物語の筋をはっきり知ることができる。これはある意味で冒頭で殺人事件が起こる推理小説のようである。死体ではなく遺骨が転がっているわけだが、読者は小説に引き込まれていく。

 そして現在を生きつつ、回想調でもある朔太郎の語りは倒錯しているが、実はこれは読者の読みと同質なのである。読者はアキの死を知りながら、彼女が徐々に病にむしばまれていくのをまるでその時を生きているかのように悲しむ。柄澤(2014)が指摘するように、時の経過は痛みを和らげる。それは朔太郎だけではなく読者、あるいは聞き手にも言えるのである。十年前に恋人を病気でなくしましたと告げられてもそこまで動揺しないだろう。だが、もし恋人が今まさに闘病中であると告げられたならば、その比ではない。

 いわば朔太郎はとっくの昔に終わった歴史的出来事を、まさに今起こっているかのように生き生きと語る講談師のような役割を見事に果たしている。講談師も客もその歴史的な出来事がとっくに終わり、講談師が現在から語っていることを承知しているにもかかわらずその語りに熱中する。講釈師見てきたような嘘をつきというが、実際に体験したことであっても、時間がたてば記憶があいまいになってくるのは人間の常である。この点、朔太郎が今まさに体験していることを述べるのであれば記憶のずれが発生する余地もないし、聞き手がずれを疑うこともないのである*21

試し読みはここまでです

                                                          エッセイ  天皇制の物語と、それに対峙する小説 ~中上健次『異族』と大江健三郎『水死』について~

 

 僕は普段はもっぱら小説を書いていてエッセイを書いたことなんてなかったから、先輩に『ソガイ』に寄稿しない?と声をかけていただいた時には何を書けばいいかわからなかったし今もわからない(だいたい、エッセイっぽく「僕は」で書きはじめてみたものの、いつも小説を書いたり読んだりしている習いで「この『僕』って誰だよ」みたいな気持ちに冒頭からなっていたりもする)。しかし、せっかく書きはじめてみたので、喫茶店か居酒屋で友人に話すようなテキトーさで何か書いてみようと思う。批評というほど立派なものは書けないので、論理をびゅんびゅん飛躍させて雑にやっていきます。個人的に好きな小説家としてはトマス・ピンチョンとかフィリップ・ソレルスがいるのだけれど(最近読んだソレルスの『本当の小説 回想録』は全人類に読んでほしいくらい良かった)、どちらも手に負えないし今回は平成文学特集ということで、中上健次や大江健三郎を扱います。

 さて、つい先日、中上健次の『異族』を読み終えた。僕は中上健次の小説がわりと好きで秋幸三部作や『千年の愉楽』系列の作品などの中期以降の作品をとくに好んで読んできたから(ちなみに、和歌山県で毎年開催されている熊野大学にも一度行ってみたりもした)未完の遺作である『異族』にも期待していたのだけれど、この本を読了したときに(あるいは読んでいる途中にも)僕が感じていたのはこの作品の痛ましいまでの平板さに対するとまどいだった。もちろん、その平板さはただの稚拙さではなく、中上の物語的な磁場を支えてきた「路地」が『地の果て至上の時』以降消滅してしまったことによる必然的な帰結なのであろうということはわかったし、紀州の「路地」が失われた一方で沖縄から台湾、フィリピンにまで舞台を広げ、右翼の青年であるタツヤがアジアの諸民族や天皇制の問題と関係していくことに物語の推進力を求める過程と並行するものでもあるだろう。タツヤは路地出身でありながらその出自からほとんど切り離され、『千年の愉楽』中本の一統や三部作の秋幸のようには自らの避けられない物語に不可避的に身を浸してしまうこともせず(路地のアニである夏羽との因縁も、物語の中盤に夏羽が自殺することでひとまず決着がつく)、ただ制御された暴力の型である空手を使いこなすサイボーグとして右翼の大物である槙野原に操られるがままに動き、「てんのう陛下万歳」と叫ぶ。タツヤの生きる物語は、不可避的に生きられてしまう路地の若い衆たちの物語とは異なり、「八紘一宇」「大東亜共栄圏」などの言葉に彩られたはりぼての紋切り型であり、そのはりぼてさ加減は物語が進むほどにひどくなっていく。たとえばその空虚さは、物語の終盤にタツヤが石垣島で右翼の街宣をするさいの「国旗は国の象徴です。日本の山河の美しさの象徴です。太陽の象徴です。祝日には国旗を掲揚しましょう*22」という言葉にもあらわれている。このことから、『異族』の平板さが、大東亜共栄圏の物語を推進力としながらもその物語自体を次第に骨抜きにしていく戦略であるというふうにも読めるだろうし、その読みはタツヤをはじめとする主人公たちの胸にあり「満州の地図」であるとされる青アザが、青アザの同志の一人である在日韓国人のシムによって「ただの色素異常」だと言い放たれることからも裏打ちされる(また槙野原やタツヤにつきまとい、あることないことをペラペラと話すシナリオライターもまた、この小説における物語の価値の失墜を示しているだろう。その点で、シナリオライターは『奇蹟』においてよりもさらに無残に物語る力を失ったオリュウノオバであるともいえる)。天皇制を軸にして物語を語りながら、その物語の無根拠さを極限まで露呈させることで天皇制の物語に抗うことの戦略として『異族』の平板さがあるとこの作品を擁護することもできるだろうし、ここまで考えたところでふと手もとにあった渡部直己の『不敬文学論序説』を読んでみたらだいたい同じことが(僕が用いた「平板」という語彙を用いてより丁寧に、しかしベケットまで引き合いに出すのは牽強付会な気もするけれど)書かれていてがっかりもしたのだが、しかしそれでも僕が思うのは、たとえ戦略的にであったとしても『異族』はつまらなさすぎるし、もっとうまく天皇制の物語に抗えるんじゃないの?ということだ。

 試し読みはここまでです。

*1:清水潔『桶川ス トーカー殺人事件 ―遺言』(新潮文庫、 二〇〇四年)に詳しい。

*2:又吉直樹 (一九八〇~) 代表作『火花』『劇場』

*3:村田沙耶香 (一九七九~) 代表作『ギンイロノウ タ』『コンビニ人間』

*4:藤崎彩織 (一九八六~)  SEKAI NO OWARI メンバー

*5:古市憲寿 (一九八五~)社会学者

*6: 落合陽一 (一九八七~)  メディアアーティスト

*7:磯崎憲一郎 (一九六五~) 代表作『肝心の子供』 『赤の他人の瓜二つ』

*8:古市は財務省の友人と細かく検討したところ、「お金がかかっ ているのは終末期医療、特に最後の一ケ月」であることが判明したので、「高齢者に『十年 早く死んでくれ』と言うわけじゃなくて、『最後の一ケ月間の延命治療はやめませか?』 と提案すればいい」「順番を追って説明すれば大したことない話のはずなんだけど」といい、 落合も「終末期医療の延命治療を保険適用外にするだけで話が終わるような気もするんですけどね」と応じた上で、「国がそう決めてしまえば実現できそう な気もするけれど。今の政権は強そうだし」 とまで付け加える。この想像力の欠如!   余 命一カ月と宣告された 命を前にしたとき、更に生き延びてくれるかもしれない一%の可能性に賭けずにはいられないのが人間なのだという想像力と、加えて身体性の欠如に絶望する。そしてその当然の帰結として、対談後半で語られる二人の小説観も、「文体よりもプロットに惹かれる」と述べてしまっている通り、身体性を欠いた、 単なる伝達手段以上のものではない。 (『朝日新聞』二〇一八 年十二月二十六日)

*9:「おれに想像力の欠如とか言われてるんだけど,帰結が「身体性を持った小説」みたいな話になるところが 小説のための小説を書く身体性の欠如感が否 めないオチになっていて面白い.」 ( @ochyai )

*10:「文春砲」が流行語大賞を受賞したとき、授賞式に「文春くん」 のマスクをかぶったひとが登壇した。これも、編集側が匿名であることを表した一幕だった ように思われる。

*11:『週刊少年マガジン』の、露骨に性行為 を描いた袋綴じ企画は、 紙媒体でしか読めないということで、他の号よりも売り上げが好調 らしい。また、なかには、原作者自身による 「同人誌」があったり もする。青年誌ならまだしも、少年誌でこれをやる意味とはいった い?   「紙の本を守る」 と出版界はいつも叫ぶ が、そういうことでいいのだろうか?  

*12:というより、ビジ ネスはつきつめれば倫 理と対立するものであ ろう。

*13:もちろん、CiNii に載ってない論文もあるだろうが、一つの目 安として。

*14:文學界』1996-09 p.297

*15:『ダ・ヴィンチ』 2003年 10 月号 p.35

*16:以下の議論は

柄澤 尚美「『世界の中心で、愛をさけぶ』論 : アキがいる世界、いない世界」

『都留文科大学大学院紀要』 18,p.1-17 2014

を参考にしている。

*17:『世界の中心で、愛をさけぶ』p.182。

*18:『世界の中心で、愛をさけぶ』p.31。

*19:『世界の中心で、愛をさけぶ』p.34。

*20:柄澤(2014) p.6。

*21:

話は逸れるが、歴史の語り部(例えば第二次大戦の兵士、民間人)にも同じような効果があるのではないだろうか。つまり、彼らは往々にして数十年前の出来事をあたかも現在起きているかのように語る。歴史学の立場からすれば、他の証言や史料との突合せがなければ史実とは認めがたいだろうが、目の前の語り部を前にしてあなたの証言は十分な証拠にはなりえませんとは言い難いものがある。この力は良い方向(史実に興味を持つ人間が増えること)にも、悪い方向(不確かな史実の拡散)にも働きうる。

*22:中上健次『異族』 講談社 1993 年 p.645