ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「優しい海」1(宵野過去作)

 優しい海

 

 飛び込んだ海のぬるさは、彼女の心臓を止めてはくれなかった。穏やかな波に揺られながら、口を開けて、降りそそぐ太陽の光を眺めていた。あきれるくらいに鮮やかな水色の空を、活気に満ちあふれた入道雲が縁取る。いままでの人生で最も美しい景色をほしいままにしながら、お気に入りのキャミソールが海水でダメになってしまったことに落ち込んでいる自分に、彼女は自嘲の笑みをこぼした。こんなことならば靴は履いたまま飛び込むんだった、帰りはどうしよう。手足の力を抜いてだらんと垂らしても、ちっともからだは沈まない。穏やかな波は、それでも彼女を海岸に運ぼうと、少しずつ押している。そのとき彼女の頭に浮かんだのは、砂浜に打ち上げられるボトルメールの映像だった。どうせ拾われるなら、きれいな女の子がいいな。それも、女子中学生。女子高生はだめ、なんとなくだけど。

 大きくあくびをすると、彼女は目をつむった。目尻から流れる涙は、こめかみを通って、海と混ざった。

 

 大学生のうちに目標を見つけるのが当然。ふんぞり返ってそういわれたとき、彼女の世界は慌ただしくなった。他人から評価されるように自分を磨かねばならない。ひとり頷きながらそういわれたとき、彼女の世界は他人の色に染まった。二十代のうちは、夢を見てはいけない。訳知り顔でそういわれたとき、彼女の世界は突然、色を失った。目標、評価、夢、彼女の大学生活は、そんな言葉に振り回されただけの四年間だった。学んだこと。それは、この世のなかに信頼できる言葉はない、ということだけだった。

 頬をじりじり焼かれる痛みに目を開けると、彼女は砂浜というより岩肌といったほうがいいような場所に横たわっていた。あごを上げると、先刻飛び込んだ崖が目に入った。ほぼ真下に戻ってきただけ。無人島とまではいわなくとも、せめてもう少し遠くに流れ着きたいものだった。岩肌で切った左の手のひらから流れる血を舐める。塩と鉄とが混ざった味だった。この味だけが彼女のからだに世界を生々しく感じさせるものだった。

 右から左へと流れる雲が、太陽を覆い隠す。世界は早送りのように光を失う。体温まで一気に奪われたように感じて、彼女はからだを小刻みに震えさせ、両腕で抱いた。雲は横に長くたなびいていて、薄闇が明ける気配はない。気だるいからだを上げ、ごつごつした岩場を、足場を確かめながらひとつひとつ上がる。滴り落ちる水が不規則に跳ねるのをつぶさに観察しながら、彼女は波が岩を打つ音を聴いた。

 適当に積まれた岩だが、彼女には不思議と、次に足を踏み出すべき位置がわかった。どの位置に、どちらの足を、どの向きで、どれだけの体重をかけるのか。自然と得られる情報を、彼女のからだは反芻していく。あと二十三歩だ。足元を見つめたまま彼女は、いち、に、と歩数を数え始めた。空は、相変わらず晴れない。

 二十三歩目に出した右足は細かい砂利を踏みしめて、彼女はそのまま仰向けに大の字になった。目をつむるとよみがえってくるのは、ここからは遠く離れている沖縄の海、おそらく高校時代の修学旅行でいった場所だった。自由時間、水着のうえに長袖のパーカーを羽織った彼女は、透き通った海に飛び込む友人を見送って、ひとり砂浜に横になっていた。目を閉じて、でも眠ることはなく、蒸し暑い空気にたゆたっているその二時間が、三泊四日のなかでもっとも記憶に残っている時間だった。

 大学の四年間と社会人としての二年半で、特に使うあてもない貯金だけがどんどんたまり、通帳の増えていく預金額だけが、彼女に時間の経過を教えてくれる。酒に溺れようにもビール一杯ですぐに眠りに落ちてしまうし、煙草は、大学時代の友人に勧められたときの一回で懲りていた。その友人は、当時の彼氏から数えて四番目のひとと結婚したことを、彼女のSNSで知った。めっきり投稿が減っていたSNSは、その日にやめた。目がホーム画面のアイコンをつい探してしまう目の動きも、三日も経てばなくなっていた。ずいぶんあっけなかった。

 突然のまぶしさに、彼女は手で顔を覆う。目覚めた太陽は、彼女の顔を鋭角に照らす。暖色が濃くなり、溶かされるような暑さから、ふっとからだが浮いてしまいそうな温もりに変わる、そんな光だった。取得した有給休暇は十日間、この日はまだ、その二日目だった。宿もしっかり十日間取っている。帰ったら、新鮮な魚料理が待っているだろう。

 キャミソールもジーパンも、からっからに乾いている。少しぱりぱりしているが、動くには問題ない。立ち上がって、表面に吹いた塩を払うと、左の手のひらが痛んだ。岩肌で切ったことを思い出し、この傷だけが、この岩を登る前と後で変わっていないものであることを、彼女はなぜだかおかしく思った。指についた塩の粒を舐めてみる。今度は塩というより、砂の味がした。

「いくんだ」

 いつの間にか隣には少女がひざを抱えて座っていた。腰まで垂れた髪の束、セーラー服の襟、濃紺のプリーツスカートの裾をはためかせた少女は、半分、地平線に沈んだ夕日の方を見つめたままだった。絵になる姿だった。ひとを撮りたい、と感じたのは久しぶりのことだった。

「制服、きれいね」

「無駄ってわかってるからね」

 そういって放った一握りの砂利は、岩と岩の間に、音もなく消えていった。

「ここの海は深いって聞いていたんだけど」

「私だって同じ。だからここを選んだ。けど、だからこそだめだった。どんなに強く飛び降りたつもりでも、この海は受け止める。むかつくくらい、優しく」

「でもあなた、昨日飛び込んだでしょ」

 少女は初めて顔を上げ、彼女を一瞥した。

「なんだ、見てたんだ。だったら最初からそういえばいいのに。いい性格してるね」

「どうして」

 眉間にしわを寄せた少女は、ほんと、いい性格だよ、とつぶやく。

「いったでしょ。この海は、むかつくくらい、優しいって」

 少女は立ち上がってお尻をはたき、はい、と崖のうえに置いてきた靴を、踵に指をひっかけて突き出した。彼女がそれを受け取ると、少女は海岸沿いの道を宿とは反対の方角に帰っていった。

 

 青春と売春、一方は良く、一方は悪いとされるが、どれだけ巧妙に取り繕うとも、どちらも同じ春であることには変わりない。そして、春を迎えるためには冬を越す必要があって、だとすれば青春以前は冬の時代ということになる。自分にとってはその冬の時期のほうがずっと暖かく、心地よく、晴れやかな気持ちでいたように思う。もしかしたら、少女はいま、その冬と春の境目にいるのかもしれない。彼女は、やはり相も変わらず穏やかな海を見下ろしながら、十時開店、十九時閉店のコンビニエンスストアの一角に売られていた温泉まんじゅうをかじっていた。

 少女に出会った翌日、それでも彼女はもう一度飛び込むつもりでこの崖に身ひとつでやってきた。けれど、少女曰く「むかつくくらい」優しい海に、彼女の意気はくじかれた。そんな自分を、彼女は情けないと思うよりも、道理だと思った。このまま死んでしまったら、とは思っても、死にたい、とは思えない。そういうことだった。

 人間と自然。なんの目的もなくただぼんやりこの海を眺めている彼女の頭には、大学の講義でしばしば語られた、こんな普遍的なテーマが浮かんだ。自然を人間が超越すべきものとしてとらえる西洋に対し、東洋は、人間と自然との調和という概念がある、という紋切り型の講義のレポートに、それはあまりにもステレオタイプな見方で、同じ日本人でも考え方が千差万別であるように、西洋人のなかにだって、自然と共存していこう、と考えていたひとが一定数はいたはずである、と、これまた賢しらな大学生が言いそうな反論を述べて最低評価を食らったことを思い出しながら、結局、その教授が言った西洋型と東洋型の自然観は、根本的なところでどちらも間違っていたのではないか、と彼女は思った。

 波が打ち付ける。太陽はちょうど彼女の真上で照っていて、周りの木々、頭上を飛ぶ猛禽類の背中、彼女のつむじ、手のなかの食べかけの温泉まんじゅうのこしあん、砂利の地面、波の飛沫、目の前に広がる大海原、どれにも等しく光を当てていた。

 彼女の頭上を、大きな影が何度も横切る。その羽音は次第に近づいてきている。ひとくち、温泉まんじゅうをかじり、ひとくち大にして、屈伸して勢いをつけ、彼女はそのかけらをぽんtp放り投げる。彼女の後頭部を風切り音が走り、翼を大きく広げた猛禽類が、海の方に向かって滑空していった。ずっと向こうでUターンすると、今度は嘴を空に向けて急上昇し、彼女の視界から消えていった。鷹だったのか。空を見上げながら、彼女はつぶやいた。

 そうしている間にも太陽は傾き、雲は流れ、幾千の波が岩肌に消えていく。

 飛び込むことを止めて以降、彼女は携帯電話をポケットに入れて持ってくるようになった。すぐさま対応しないと困るような連絡が入るとは到底思えない彼女にとってはほとんど無用の長物であるが、唯一、時計とカメラとしては使用価値があった。しかし、この場では時計も、ほとんど意味を成さない。太陽の傾きと空の色があれば十分だった。残ったのはカメラとしての機能だった。彼女はこの機会を持て余すかのように、事あるごとに写真を撮り続けていた。対象にこだわりはなく、目についたものを、気が向いたときに撮る。それを繰り返していた。自然に多くなるのは風景の写真であり、その半分近くが崖からの景色である。ほとんど同じアングルで撮った風景も、並べてみるとまったく違う。そんな当たり前のことに気付かされ、それだけに、なぜ人間だけがその個体の固有性といったものに固執されるのか、いまさらながらに疑問に思うようになった。

 いま一度、崖の先から海を見下ろす。初めてこの場所に来たとき、少女も同じ場所に立ち、海を見下ろしていた。とっさに木に隠れて息を殺してその様子をうかがっていると、少女はちょうど鳥のように手を広げ、吸い込まれるように、頭から飛び込んでいった。水音がして初めて慌てて、駆け出して崖から海をのぞき込むと、うつ伏せになって浮いている少女が目に入った。動く気配がなかった。まさか、と思った矢先、少女はからだを反転させた。目をつむり、気持ちよさそうに横たわった。しばし見とれていた彼女だったが、いつ少女が目を開けるかもしれない、と、音を立てないように顔を引っ込め、駆け足でその場を去った。しばらく走り続けて宿が目に入ったところで、彼女は急に胸が苦しくなり、足を止めて腰を折って息をはいた。吸う息に喉はびゅうびゅう鳴り、自分でも痛々しい。自分がろくに息も吸わないでここまで走ってきたことを、そのとき知った。

 八日目の海も濃紺がにじみ、そろそろ宿の食事の時刻になる。彼女の胸中を知ってか知らずか、配膳の際にはその日の献立の材料から料理人の性格まで話していき、食事が終わったころを見計らって、低い物腰のわりには遠慮もなく部屋に入ってきて、なにもないこの町の自慢と自虐を一対九の割合でしゃべってくる女将さんを、ここのところ、彼女はそこまで嫌とは思わなくなっていた。ただ受け取るだけのなんら生産性のないおしゃべりには、ただ純粋に話す行為と聞く行為とがあるだけで、余計な打算を働かせる必要がなかった。常の疑いを強いられることのない会話は、思えば物心ついた頃から得難いものであった。

 なにも進展はなく、予定していた滞在期間の大半が過ぎた。もともとなにかを得ようと思った旅でもなかったからそれでもよかった。しかし、このまま帰るには心残りがひとつある。翌日の予定が決まった。

 そして波が進んでいく方向に目を向けてから、彼女はこの崖をあとにした。

 

(続く)

 

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