そこに、やはり少女はまったく同じ場所、まったく同じ格好で座っていた。
「久しぶりね」
顔を向けた少女は、相変わらずの気だるい表情で、夕日の光に目を細めている。
「今日はちょっと、雲、かかっちゃってる」
「でも、これはこれで、きれいね」
少女のひとりごとを拾った彼女は、砂利を蹴りながら少女の傍らに立って、夕日の上、群青色の夜空にぽつんと浮かぶ三日月を眺める。
「ここ、星もけっこう見えるのね」
「そりゃあね。なにもないから」
彼女は、少女の横顔を盗み見る。抱えた脚にあごを埋め、ときどき思い出したかのように瞬きをする以外は微動だにしない。口は真一文字、かと思いきや、突然口角を上げると、顔を伏せてからだを震わせ、くっくっ、と喉を鳴らす。ひざを屈め、顔をのぞき込む。少女は少し顔を上げたかと思いきや、彼女の瞬きの瞬間に、その唇を奪った。懸命に突き出した唇を無理やり、でも、どこまで押しつけていいのかわからないで戸惑っているような、ぎこちない口づけだった。
時間にしたら一秒もなかった口づけ、しかし、少女の味が口内に染みわたるには十分すぎる一時だった。唇を離した少女の目からは、一滴の涙がこぼれていた。彼女の胸の奥に、苦い滴が音を立てて垂れ落ちた。
「あなた、そういう趣味だったの」
「違うよ」
少女の瞳は、もう潤んではいなかった。
「ひとを好きなったことなんてないし」
再び背中を丸めた少女は、広がっていく夜空には目を向けず、海の奥に押しつぶされていく夕日だけをただ、見つめていた。少女の目の高さからは、たしかに夜空よりも夕空の方が、自分を見てくれているような気がするのだった。
「お姉さん」
「なに」
唐突に、お姉さん、と呼ばれたことへの驚きを隠しながら、彼女は答えた。
「この一週間、一度も飛び込まなかったね」
彼女は答えなかった。出会った日からこの日まで、彼女は毎日あの崖に赴き、穏やかな波が岩肌を打って立たせる白い飛沫を縁から見下ろしていたが、ついに最後の一歩を踏み出すことはなかった。この間に考え続けていたのは、彼女を苛み続けてきた正論と呼ばれる言葉の数々ではなく、なんの具体性も、なんの思想性も感じられない、この海は、むかつくくらい、優しい、という少女の一言だった。優しい海の飛沫は、無機質な岩肌を潤し、黒ずんだ藻を育む。規則的に押し寄せる波は、その前の波と同じものなのか別のものなのか。毎日数時間、この場所から波を見続けてきた彼女には、それぞれが別の個性を持ったもののように思え、岩と波との刹那的な逢瀬が、甘く、そして切なく感じられた。
下から、少女が自分のことを見ている。その視線を、どこかで感じていないわけではなかった。一週間あったから、そのなかには当然平日もあったのだが、それでも少女は必ずあの場所にいる、という確信があった。
「どうして」
少女の声には、少々の苛立ちの色が見られた。風にはためくスカートが、彼女の足をくすぐった。なに笑ってるの、という視線がぶつけられる。それを受け、いま自分が、くすぐったくて笑っているのか、それとも、初めて少女の感情の動きが見られたことが嬉しくて頬が綻んでいるのか、よくわからなかった。
「なんだ、見てたの。だったら最初からそういってくれればいいのに。いい性格してるのね」
そう答えると、少女は露骨に顔をしかめて横目でにらんだ。それには気づかないふりをした。少女の同級生はこの顔を知っているのだろうか。宿から三十分強歩いたところに、中学校がある。朝食を早く頂いて九時頃、彼女はその中学校に道路を挟んで向かい側にある、古風な喫茶店の窓側の席でエスプレッソの小さなカップに口を付けながら、若々しい歩みと笑顔で門をくぐっていく学生の姿を眺めていた。
「中学生だったのね、あなた」
「は?」
きょとんとした少女は、自分の制服に目を落としてからぎょっとしたように息を飲むと、敵意を隠さずににらみつけながら後ずさりする。
「なに、この一週間でそんなことしてたの。気持ちわる、ストーカー、変態。あんたこそ、そういう趣味なんじゃないの」
「あら、お姉さんっていってくれないの」
「うるさい」
言葉は刺々しいが、腕はからだを抱き締め、女にはほとんど背中を向けている。そんな様子を見ていて、堪えていた笑いが噴き出し、彼女はおなかを抱えて、ほとんど呼吸が困難になるまで、見栄も外聞もなく口を大きく開け、気が済むまで笑い声をあげた。咳は出る、涙も出る。バランスを崩し、後ろに手を付いて、お尻も付いた。それでも、まだ止まらない。頭の奥でかちかちと火花が散る。こめかみが脈打ち、喉の奥で唾が詰まりむせる。咳が咳を呼び、胸を押さえると、「ちょっと、大丈夫」と、少女は背中をさすって顔を覗き込む。大丈夫、といおうにも咳が止まらないので、手を上げることで答えることしかできない。少女の、呆れ半分、心配半分の表情に、なぜか自分が十若くなったように感じた。
ようやく呼吸を整えて、もう平気である旨を伝えると少女は聞えよがしにため息をつき、「なんかもうばかみたい」とつぶやいた。
日は、もうすっかり暮れていた。白く冷たい光が、少女の横顔を照らしていた。いつもなら街灯があっても、コンビニエンスストアの目に痛い光があっても、夜は暗いと感じる。なのにこのとき、人工の光はひとつもないこの場所の夜は、暗さのなかにも薄い明るさがあった。むしろ、昼の間よりも少女の輪郭が明瞭になり、まるで夜のなかに少女の存在が浮遊しているかのように感じられた。仄かに朱に染まる頬を、いつまでも見ていたいと思った。ひとつ呼吸を置いてから立ち上がった少女に引っ張られるようにあごがあがった。
「帰るんだ」
「日が暮れて、真っ暗になるまでにはちゃんと家に帰るって条件だから」
いい終わらないうちに歩き出した少女の背中を座ったまま見ていると、少女は立ち止まり、スカートの裾を広げながら振り返った。
「明日までなんでしょ、ここにいるの」
「うん、そうだよ」
「だったら明日の三時、崖のうえに来て」
返事を待つことなく、少女は踵を返すと足早に立ち去っていった。遠ざかる背中に、彼女はひとしれず言葉をかけた。最初からそのつもりだよ、と。
(続く)