ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「ナイン・ボウリング」1(宵野過去作)

 三年前、校舎最上階の四階の音楽室にはふたりの卒業生がいた。そのうちのひとりである少女は、窓に背中を預け、顔だけを外に向けている。眼下には、緑、赤のパステルカラーの校庭。手には卒業証書が丸め込まれた黒い筒、腕には花束を抱えた卒業生、それを見送る在校生代表の二年生が動き回るのを見下ろして、私、この世界の九十九・九パーセントに絶望してるの、とつぶやいた少女は、大学三年生となって、どちらかといえば女性と呼ばれる年齢になったいま、同じくその日音楽室にいて、しかし別の大学で大学三年生となっていた幸人の前で、アルミ製の棚にずらりと並ぶボウリングの球をじっと見つめ、ひとつひとつに指を入れては、抜くときにはきゅぽんきゅぽんと、カウンターで居眠りをしている中年の店員を除いてはだれもいないがらんどうのボウリング場に響かせながら、少しでも穴の大きい球を探している。

 三段ある一番下の台の球には手をつけず、となりの棚の、ひとつ重い八ポンドの球を手に取ろうとした彼女を、幸人は、五ゲームもやるんだったらその重さじゃ腕、もたないよ、痛める、ととどめる。五ゲームやるって、小野峰が自分で決めたんだろ。中腰の姿勢で顔を寄せてそういう幸人の顔を見つめ、そうなんだ、やっぱり五ゲームって多いんだね、と小さく首を傾げた裕里は、持ちかけていた八ポンドの球をがしゃりと戻し、両手のひらを腰からお尻に向かってすうっと滑らせながらしゃがんで、黄緑色の七ポンドの球に再び指を入れ、きゅぽん、と音を立てた。こんなにあるのに、もう少し大きい穴の球はないの? 少し不機嫌顔の裕里に対し、そればっかりはなあ、と幸人はため息をもらした。同じくため息をもらした裕里は、横に動いてからスカートの裾を、ももとふくらはぎにはさみ直した。

 小野峰、丈の長いスカート好きだよな、制服も長かったし。何気なくいうと、裕里は幸人をしたからにらみつけ、笠松くんも球選びにいきなよ、と鋭い口調でいった。

 ボウリングなんて、いったいいつぶりだろう。十一ポンドの球を適当に選んで先にレーンについた幸人は、そういえばあのときの姉さんは、中学にあがりたてだったっけ、と思い出していた。高校を卒業して家を出てからは一年に一度、義務として辛気くさい顔で帰ってくる程度の姉は、文武両道でひと当たりも良く、姉弟でありながら、文字通りの日陰者である幸人とは真反対の人間だった。自分にはないものをほとんど持っている姉と毎日顔を合わせていた幸人は、両親から、お姉ちゃんはできたのに、お姉ちゃんを見習いなさい、と口癖のようにちくちく咎められることだけは勘弁だったが、しかし当の姉に対して、妬みや顰みをおぼえたことはなかった。

 だったら、幸人は姉のことを好いていたのだろうか。いまになってしまっては、それはわからない。そもそも、姉のことを好きとか嫌いとか、そういった範疇で考えたこと自体がなかったような気がしていた。

 もういいよね、お父さん、お母さん。姉が夕食の食卓でそう宣言してから突然家を飛び出したのが五年前。姉が大学に入ってすぐのことだった。高校のときのひとつ先輩の彼氏と同棲するから。姉はこともなげに言い放った。彼氏なんて、いったいいつからいたのだろうか。姉は、そんな素振りを一切見せていなかった。

 両親は、端から見れば笑ってしまうくらいにうろたえて、おまえがちゃんと見ていないから、あなたこそ、いつも飲み会ばっかりでお姉ちゃんのことよく知らないくせに、飲み会も仕事のうちなんだよ、わかるだろ? さあ、どうだか、と口げんかを始める。しかし、この両親は、親戚の集まりではいつも、お姉ちゃんくらいのひとは、その辺の男が放っておかないよ。どこに出したって恥ずかしくない、自慢の娘だ、と言いふらしていたのではなかったか。それにしても、姉に彼氏がいたことが両親にとって、どうしてこれほどまでの大問題であるのか、幸人にはわからなかった。姉は、そんな両親の声もどこ吹く風で味噌汁をすすっていた。

 姉に彼氏がいたこと自体は、意外ではあったが、混乱させるほどに幸人を驚かすことはなかった。姉なら彼氏くらいいるだろう、と思っていたからではない。姉には、幸人が知らない面があることなぞあたりまえのことだ、と思っていたからだった。自分では、姉のことを理解するできるはずがない。

 お椀を置いた姉と目が合う。おめでとう、姉さん。となりでまだ口論を続けている両親の耳には入らないよう、顔を少し寄せてささやく。姉は一瞬だけ顔をゆがめ、うん、と一言だけ答えると残りのご飯をかき込んで、二階の自室に上がっていった。ごちそうさま、を言わなかった姉を、幸人はそのとき初めて見たような気がするけれども、それも本当かどうかわからなかった。もしかしたら一度くらいは、そういうこともあったのかもしれない。

 ブラウン管テレビのような球面の画面、その青いモニターに浮かぶスコア表、左端のプレイヤー欄に並ぶ、ユウリ、ユキトの白いドット文字を幸人は眺めている。裕里が、ようやく球を抱えてやってきた。黄緑色の、七ポンドの球だった。これだけ、ほんの少し、穴が大きかったの。レーンとレーンの間にある球を置くところに、どこか重たそうに持ってきた球を置くと、裕里は幸人が見ている画面をのぞき込もうとする。腰まで伸びた髪が幸人の肩にあたる。裕里はほとんど髪を結ばない。高校のときは校則もあったから、ひと目のつくところではひとつに結んでいたけれども、隙さえあればゴムをほどいていた。頭皮が引っ張られて、かゆくなるの。いつだったか、裕里は言っていた。たしか、梅雨時のじめじめした日の、階段の踊り場ではなかったか。

 結んでいないこの髪を、幸人は何度か撫でたことがある。

 高校三年生の秋。午前での短縮授業が終わり、食堂で醤油ラーメンを食べてから図書室にいくと、その奥の席で、裕里が机に突っ伏していた。その日は、というよりも、その日も、ふたりはべつに待ち合わせたわけではなかった。ふたりが明確に待ち合わせをするようになったのは別々の大学に入ってからのことで、高校の三年間は、一度もクラスはいっしょにならなかったし、それまではお互いに連絡先も知らないくらいだった。それにしても、図書室で会うことは珍しい。裕里の脇には、広げられた参考書と、数式が書きかけのノート。早々と指定校推薦を決めた幸人には少し縁遠いものだった。

 窓から日が射している。裕里の頬は薄い黄色に照らされている。幸人の手は吸い込まれるように、その頬にかかったひと束の髪を彼女の右耳にかき上げていた。寝顔があらわになる。ひどく無防備な寝顔に感じた。また髪が流れて落ちる。口に入りそうだった。寝息に揺れる髪を再び背中まで上げてから、今日は帰るか、と、足音を立てないよう、その場をあとにした。

 お互いに二十歳になってから。大学の講義のあとだった。お互いのキャンパスの真ん中の駅で待ち合わせてから居酒屋で飲んでいると、いつもより少しお酒のペースが早かったせいかすこしまぶたをとろんとさせた裕里が、店員にほとんどの食器を下げてもらってすっきりしたテーブルにあごを乗せて、正面の幸人を上目遣いにみる。

 大丈夫か。幸人が声をかけると、うん、少し、酔ったくらい、けど、眠い、と裕里はぷつりぷつりつぶやく。あまり大丈夫には見えず、とりあえずお冷やでももらうか、と、からだを傾けて店員さんを呼ぼうとすると、裕里は唐突に、いまなら、髪、触ってもいいよ、と少しだけはっきりとした声でいった。なにを、と返すと、図書室でのこと、私知っているんだから、と再び机に突っ伏して、幸人から目線をそらしながら言う。思わず見返した裕里の顔は酔いのせいかほのかに上気していて、一見ほっそりしているようなその顔も、このように突っ伏していると頬の肉がぷにっと横に伸びて、柔らかそうだった。以前はどうだったろうか。あれだけじっと見ていたはずなのに、思い出せない。すると、二年前は、頬まで見る余裕がなかったのかもしれない。

 幸人が伸ばしてきた手を、裕里は目線だけで追う。幸人の手が頭に置かれると、今度は幸人の腕のしたから幸人の顔を見あげる。その視線を受けながら、幸人は指先で裕里の髪を撫でる。なにも言葉を発しない。どこからか、乾杯の音頭が聞こえてきた。裕里のまぶたは垂れ下がり、穏やかな寝息を立て始めた。幸人は、しばらく頭から手を離さなかった。きっと、今度は本当に寝ていたと思う。

 

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