ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「ナイン・ボウリング」2(宵野過去作)

 

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 姉が例の宣言をした日の深夜。自室で眠っていた幸人は、右耳にささやかれる自分の名前で起こされた。姉さん? 目を開ける前に反射的にその声の主を呼ぶと、暗闇のなかから姉の顔の輪郭が浮かび上がってきた。姉は見つめるだけでなにもいわない。幸人が電気をつけるために起き上がろうとすると、ううん、いいの、と肩を押さえ込まれて、ベッドに寝かされる。幸人のベッドは窓際にある。姉がこの部屋に入ってきたのは、いったいいつ以来だったろう。姉は、横になっている幸人をまたぐようにしてからだと腕を伸ばす。遮光カーテンが開け放たれると、深夜の月の明かりが薄く部屋に射し込み、幸人の視界には姉の寝間着の淡い色が広がっていた。ちょうど胸の位置だった。姉は、幸人のベッドに潜り込んできた。寝ぼけまなこの頭で思考が追いつかぬまま、幸人のからだは自然と窓側にずれ、それなりにおとなのからだに近づいたひとりの男とひとりの女が入るにはけっして十分ではない空間に、幸人と姉のからだが押し込まれた。

 すぐ目と鼻の先で、姉が自分の顔を見ている。その視線の力に、幸人はあらがうことができなかった。どうしたの、姉さん。ようやく幸人が絞り出した言葉に、姉は、ごめんね、と返事をした。なにを謝ることがあるの? 幸人には、姉になにか謝られるような心当たりはなかった。姉は、たしかに切迫している雰囲気は感じられるが、けっして錯乱しているわけでも、やけになっているわけでもないようだった。ひとり、自分の言葉に、冷静に納得しているようにも見えた。ごめんね。再び姉がつぶやいた言葉に、今度はなにも言い返せなかった。お互いに口をつぐみ、天井を見つめていた。風に流された雲が月を覆ったのか、部屋がすうっと暗くなった。

 小さい頃、こうしてふたりで寝てたよね。唐突に姉が切り出す。暗くなった深夜の部屋では、その表情をうかがうことはできない。そんなの、ずっと前のことだよ。そういわれることで、翻っていまの状況を意識せざるを得ない幸人は、少しぶっきらぼうに答えた。そうだね、ずっと前のことだよね。姉の声には、どこか自嘲の響きが感じられた。

 沈黙が流れる。もしかして姉は、自分のせいで弟がいつも優秀な姉と比べられ、つらい思いをしてきたのでは、と、どこかで後ろめたさを抱えてきたのではないか。そう思い当たった、というよりも、それくらいしか思い当る節のない幸人は、俺は姉さんのせいで苦しんだことなんてないよ、たしかによく比べられたけど、それは周りが勝手に俺の身丈にはまったく合わない期待を勝手にして、勝手に裏切られた気になってあたってきただけだから、それは姉さんの責任ではないよ。小さい声ながら、はっきりした声で言い放った。すると姉は、昔は僕っていってたのに、と予想外の方向の感想をもらす。姉さん、俺ももう高校生なんだよ、一人称くらい変わるよ。そうだよね、変わるよね、ごめん。またそうやって謝る。うん、ごめんね。姉は視線を落とした。

 顔を横に向けて姉を見る。姉は、ひどく小さく見えた。このひとは、こんなに繊細なひとだったろうか。幸人は驚かされていた。それは同時に、姉はなんでもできるひとだ、と思い込んでいた自分がいたことに気づかされたということでもあった。自分もまた、姉に勝手な期待を抱いていたのだろうか。このような押しつけをプレッシャーに感じていたのかどうかまではわからない。しかし、ともかく姉は、なんでもできるひとではなく、できることはできて、できないことはできないひとであることに気づかされた。もちろん、だからといって自分と姉が同じ水準の人間であるとまでは思わないし、思えない。いくら姉弟であるとはいえ、この彼我の差は絶対だった。同じ血が流れているからといって、それがいったい、なんの保証になるというのだろう。それでも、だからこそ、いま目の前にいて、おなじ毛布のなかでおなじ体温を共有しているこの女性を、幸人はある意味でははじめて概念的なものとしてではなくひとりの他者として捉えることで、かえって身近に感じることができたのかもしれなかった。

 いつ家を出るの? 三日後くらいには。荷物とかはどうするの? とりあえず必要なものはまとめて、あとはその都度持ち出す。そっか。うん。

 こんな風な、意味のない会話が続いたのは、いったいいつぶりだろう。幸人はずっと、姉と、こんな意味のない話をしたかったのではなかったか。彼氏さんはどんなひと? 幸人は尋ねる。姉は少し返答につまったようだった。幸人からふっと視線をそらした。いいひとだよ、私が高校卒業するまで、いろんなこと、待ってるっていってくれたひとなんだ。進んで合わせたわけではないんだけど、大学もいっしょなんだ。そう語る姉はどこか嬉しそうで、また、どこかしみじみとしているようでもあった。よかったね。うん。幸人はこころの底から、よかったな、と思った。

 ねえ幸人。姉の声に、少しだけ明るさが戻っていた。なに? 名前、呼んでくれないかな。え、なんで? いいから。彼氏の話をしたあとだけに、妙な気恥ずかしさがあった。けれども、微笑ながら有無を言わせない圧力で迫ってくる姉には根負けした。幸人はそっぽを向いて、たぶん口をとがらせながら、姉の名前をつぶやいた。すると姉は幸人の頬を両手で挟んで自分に向ける。だめ、私の目を見て。自分はさっき、目をそらしたくせに。そんな軽口は、出てこなかった。羽月、姉ちゃん。違う。羽月。

 気づいたときには、幸人の唇は、羽月の唇にふさがれていた。

 ただ、唇と唇を合わせるだけの、きっとつたない口づけ。姉の彼氏は、いろんなことを待ってくれている、と言っていた。これも、そのうちのひとつに入るのだろうか。羽月が離れると、幸人は急な息苦しさに、あえぐように空気を吸い込んだ。

 これが私のけじめ。そうつぶやいて姉は、からだをひねって起き上がり、ベッドを出て部屋へと帰っていく。その背中に、幸人はなにも訊くことができなかった。これが、いまのところ、幸人にとって最初で最後のことである。月の光が、再び部屋のなかに戻ってきた。

 スコア表、ユウリという自分の名前の横で点滅している横向きの白い三角形をじいっと見つめ続ける裕里のつむじに向かって、とりあえず投げてみなよ、と促す。裕里は頷いて、シューズの履き心地を確認するようにつま先で床を蹴ってから、音を立てずにレーンに上がり、上向きに吹き出し続ける風に右手をかざす。その風、なんの意味があるんだろうね、と幸人がひとりごちると、これはハンドドライヤーっていって、汗を乾かして手のコンディションを一定に保つためのもの、と教えてくれる。ボウリングするの初めてなのに、よくそんなこと知ってるな、と呆れ半分でいうと、昨日、本で少し勉強した、とこともなげに答えた裕里は、今度は厚手で小さな正方形の黒いタオルで、おっかなびっくりにボールを拭いてから、ぎこちなくレーンの前に立つ。幸人もそちらの方の意味は、球に付いた油をとるためのものである、とさすがに知っていた。しかし、それはレーンを転がったときに付く油を主に指すのであって、まだ一度も投げていない球にまでそれをする必要があるのかどうか、幸人は少しだけ疑問に思った。もっとも、カウンターで船を漕いでいる店員を見るに、球のひとつひとつにまできちんとした手入れが行き届いているようにも思えなかったから、いったいいつかはわからないが、だれか別のひとが最後にこの球を投げたときの油が、まだこびりついているのかもしれない。

 裕里は立ち位置が決まらないようで、右に左にしばらくそわそわしていた。ようやく動きを止めると、まず背筋をぴんと伸ばした。後ろ姿だけは立派なプロボウラーのよう。一歩目、踏み出す足は左足、すり足の如き足運びで三歩進んで、ファウルラインの手前でぴたっと止まり、慎重に振りかぶって、ボールを離す。ドスン、と重い音を立てて転がった球は、投げ出しこそ一番ピンのまっすぐ向かうと思われたが、だんだんと左に曲がり、真ん中を通り過ぎるころには、黒いガーターのうえを、ゴロゴロゴロゴロとその窪みの存在感を主張するように転がるだけで、ひとつもピンを倒すことはなく、直立した十本のピンの前には、上からバーがすうっと下りてきた。

 しばしピンを見つめていた裕里が戻ってきたとき、裕里が投げた黄緑色の球が戻ってきて、幸人の球をかちんと弾いた。

 私、カーブはかけていない。一度戻ってきた裕里の第一声に、幸人は、そういうもんなんだよ、みんながまっすぐ投げられたら、だれも苦労しない、と自分の経験の浅さを棚上げして答えた。投げ方までは勉強しなかったのか? そう尋ねると、読むのとやるのでは勝手が違う、ときっぱり答え、第二投へと向かう。もうすでにして安定しはじめてきたルーティンから、やはりかくかくとしたぎこちないフォームで放たれる黄緑色の球は、今度は第一投とは反対のガーターへと落ちた。

 特に悔しがる様子を見せずに戻ってきた裕里は、次、笠松くんの番だよ、とベンチに腰を下ろす。幸人は立ち上がらない。このゲームは小野峰が俺の分まで投げていい。そう? 裕里は首を傾けた。ああ。じゃあ、そうさせてもらうね。裕里は遠慮する素振りもなく立ち上がり、球を手に取って、持ち上げる。

 一投ごとに立つ位置を半歩ずつ左右前後に変え、腕の振りを、投げた後の手首の向きを、球の拭き方を、あらゆる可能性を試すがごとく、後ろの幸人には目もくれないように、黙々と投げ続ける。幸人はその背中を見続ける。種目は違えど、もうすっかり見慣れた光景だった。

 

(続く)