ソガイ

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「ナイン・ボウリング」7(宵野過去作)

 

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 思えば、あの四泊五日の旅行はたった半年前のことなのだった。それから、ふたりの関係はどのように変わっただろうか。いや、見かけとしてはそこまでの変化はない。観光らしい観光はしなかったあの旅行自体が、ほとんど日常の延長であったからだ。しかし、それはそれこそ、見せかけの事実ではないだろうか。自分はまた、なにかを見落としているのではないか。なにかを見ないようにしているのではないか。

 裕里のスコアは伸びない。球を放って、レーンの奥に落ちるまで見送って、戻り際、天井からぶら下がるモニターをじっと見つめる。そんな動きを繰り返す裕里が、果たしてあの出会った日から変わっていないと言うのだろうか。さきほど飲み物を買っていた際、幸人の背中を見ていたような気配があった。いまのところの最大本数、九本を、幸人は見逃していた。思考は広がる。幸人は、自分が見ていない裕里のことは知らない。同じ空間にいたとしても、自分が寝ているときの裕里のことはわからない。たとえば、幸人の頭を脚にのせて本を読んでいた裕里のこと。

 第十レーン、ユウリの分を投げ終わった裕里はゆっくりとした足取りで戻ってくる。腕も指も脚も、もう限界に近いはずなのに、裕里は、ユキトの分を投げようと、バーが上がるのを球を掲げて直立して待っている。幸人のからだは動いていた。ハンドエアーにもタオルにも目もくれず、ぶっきらぼうに球に指をさして持ち上げる。脇によけた裕里はなにもいわなかった。幸人は、白熱灯に照らされた十本のピンを見据える。こうして立ってみると、ピンはなんと遠く感じることか。

 踏み出す足も、歩数も、フォームも考えない。歩幅が合わず、ファールラインから足ふたつ手前に踏み出した左足に踏ん張りをきかせ、反動で振り出された右腕から、少し指に引っかかった球が放たれる。一直線に見えて、しかし微妙に左に傾いた球は、一番ピンをかすめるように抜けて、後ろのピンを弾く。八ピン。ようやっと、かつてのボウリングのときの身体感覚が、おぼろげながらによみがえってきた。自分の球は昔も、やや左に逸れていた。まっすぐ投げよう、まっすぐ投げよう、と頭では繰り返しているのに、からだは従ってくれない。なんだかんだボウリングもそつなくこなす姉、幸人より頭ひとつ背丈が高かった姉は、真面目な表情で手取り足取り、指導をしてくれたのではなかったか。幸人、とにかくまっすぐ投げたいのなら手首を返してはだめ。投げた後も気を抜かないで、フォロースルーは、一番ピンにそっとお賽銭を投げるように。どこを調べてもこのような指導法はないだろう。そして、そうだった、そんなことを言う姉は、いわゆるハウスボウルに横回転をかけて、ナチュラルなカーブボールを投げていた。

 そんな邂逅と同時に、変化も感じる。当時の幸人では、同じコースに球がいったとしても礼儀正しい音で数本のピンがお辞儀するだけだったはずだ。幸人は、運動音痴ということはないが、高校の体育の授業以来、まともな運動はしていない。それでもこれだけのピンが倒れたのは、直立不動の一番ピンの背中で後ろのピンたちがはじけ飛んだから。この不随意の腕力は、幸人が男性であることを示す徴のように思えた。

 耳の後ろを、ガコン、という無機質な音が打った。はっとして見ると、バーは倒れたピンを掃除し終わっていた。戻ってきた球を取りにいく。裕里は立ったままだった。お腹の前には球も抱えていた。それ、降ろせば。裕里は、一段下から幸人を見上げてから頷き、端に球を戻す。今度もタオルで球を拭かず、指をさすやいなや胸のまえに掲げた幸人は、残った二本のピンを見据える。一番ピンと二番ピン、右に寄った配置。かつての姉のアドバイスを思い出したのはいいが、いますぐそれを実行できる気はしてこない。自分の球は左に曲がる。だったら、最初にもっと右側に立てばいいのではないか。そして同じように投げれば、ちょうどいいところに行くはずではないか。一歩、右に足をずらす。目に映る景色が変わって、ああ、なるほど、そうだったのか、と予感が立つ。その予感を抱えたまま、足を踏み出して球を投げる。球は、右のガーターすれすれのところを憎たらしいくらいまっすぐ進み、ピンを倒さずに見えない壁に乾いた音を立ててぶつかった。予感通りの軌道だった。ねらいすぎ。姉の声が聞こえてきた。

 立ち尽くす裕里の横を抜けて、次ゲームに進む操作をおこなう。今度はたぶんわかる。視界の外にいる裕里は、自分のことを見ている。それはどんな目だろう。それはまだわからない。ちょっとトイレ行ってくる、先に投げていていいよ。そう告げたときに見た裕里の顔は、やっぱりいつも通りの無表情だった。

 時刻はまったく気にならなかった。みっつのコールののち、幸人? と気の抜けた声がする。ごめん、姉さん。いま大丈夫だった? うん、いまうちにいるから。そっか、ごめん。謝ることないでしょ、ちょっと待ってて。姉はそう言って子機から遠ざかると、数十秒して戻ってくる。お待たせ。姉は、電話するときには近くに飲み物を置いておく習慣があるらしかった。それで、どうしたの?

 うん。幸人は、話す内容をしっかりとは決めていなかった。そもそも、なにを思って姉に電話をかけたのか、それすら曖昧だった。

 自分は、いまだ姉とのあの空白期間を埋められていない。そう思っていた。時間は戻らない。できることは、思い返したり思い出したりすること。でも、自分のなかに、それがなければどうすればいいのか。当時も、姉を避けていたわけではない。それでも、積極的に関わることからどこか逃げていたことはたしかだった。あの一夜を境に、自分と姉との距離は近づいた。たとえそうであっても、過ぎ去ってしまった時間は、もう二度と取り戻せない。自分の身長が姉の身長を抜く、その過程の時間は、僕のなかにはない。いまのいままで、そう思っていた。

 でも、それは少し違うのかもしれない。急に十二歳から二十歳になったわけではないように、一三五センチから一七八センチに瞬く間に伸びたのではないように。記憶にはなくとも、経た時間はからだやこころのどこかに残っている。

 姉さんは、後悔してないの? 携帯越しに、姉が息を飲むのが聞こえる。しばしの逡巡ののち、かちゃりと瀬戸物の音がしてから、ふうと大きく息をついた。してるよ。姉の返事は、きっぱりとしたものだった。もっと、素直になっていればよかった。すべてのことで意地を張る必要はないし、それはただのわがままだと思う。それでも、本当は、これだけは、きっとだれがなんと言おうと、意地を通さなきゃいけなかった。なのに、私はそれを置き去りにして、全然違うものばかり貫いてきた。それに向き合うことが怖くて、でもそんな自分から目を背けて、べつの、どうでもいいものものを貫く自分の見せかけの強さで、ごまかしていた。それに気付いたときには、もう失われてしまった、という結果しか残っていなかった。私は、きっと、幸人といっしょに大きくなりたかったんだろうね。

 幸人は、携帯を反対の手に持ち替える。鏡で自分の顔を見ることは、好きではなかった。薄明るい電灯の下、肌はいくらか青白く見える。鼻梁の右に大きなにきびができていることに、はじめて気付いた。軽くつめで引っ掻いてみる。針で刺されたような痛みが走った。

 最初は、なにかを取り戻すように幸人と遊んだりして、実際、いろいろなことを思い出したんだけどね、そうすればそうするほど、虚しくなっていくんだ。変化の過程を、私はもっと当事者として見たかった。変化は、後からしかわからないものだけど、だからこそ、本当に大事なものはそのとき、しっかり見ておかないと。くだらない、あら探しのような因果関係にとらわれてはだめ。まずはあるがままを見ること。原因は、ついてくるから。昔の私に会えるのならそう言ってやりたい。けれど、時間は前に進むから。

 ねえ幸人、いまあなたに、大事なものはあるの。にきびが痛む。携帯を置いて、顔を乱暴に洗う。肌を刺すような冷水に肌が引き締まる思いがする。痛みも赤みも引いた。シャツで手と顔を拭う。携帯を再び手に取る。たぶん、いる。姉は微笑んだらしかった。そっか。うん。じゃあ行ってきなさい。わかった。

 あ、ちょっと待って。通話を切ろうと耳から離した携帯から、姉の慌てる声がした。これだけはちゃんと言っておくね。幸人のこと、愛してるからね。うん、僕も愛してる。言ってから気付いた。ああ、僕は姉さんのことを愛しているんだ、と。下世話な文脈から逃れた愛。今度こそ、それを素直に認められた。

 裕里は、第一レーンの第一投も、まだ終えていなかった。ベンチに膝をそろえて座り、うつむき加減に一点を見つめていた。スポーツドリンクは、少しだけ減っていた。まだ投げていなかったんだな。裕里は一瞥したのち、再びうつむいて、うん、と一言だけ口にしてから、スポーツドリンクを手に取った。キャップに手をかけ、しかし回さないでうつむいている。疲れたのなら、終わりにするか?

 え。裕里は呆気にとられたようだった。それもそうかもしれない。裕里の行動を積極的に止めたことは、一度としてなかった。もしかしたらちょっとしたお節介くらいはあったかもしれないが、それでもしたいようにさせていた。本人の気が済むまで、やらせていた。

 変化を恐れていたのだろうか。そうかもしれない。いまの関係が心地いいから、あるいは、いまのままならそれ以上悪化することはないから。でも、時間の流れは、まったく変化しないことを許してはくれない。本当に必要なのは、変化に身を置くことだったのかもしれない。幸人はいつも、なにかに追い詰められているような裕里の悲痛の表情に、思うところがあったのではないか。もちろん、そんなに必死になって絶望しようとしなくてもいいではないか。希望を持って生きていれば、きっといいことがあるさ。そのような薄っぺらいことをのたまおうなどとは一切思っていなかった。なにより、そんなことを自分が言えようはずもない。

 ううん、やる。唇をきゅっと結んで立ち上がった裕里の背中を、幸人の目は追っている。球を抱えて直立した裕里は、なかなか動き出さない。なにかをためらっているようだった。そしてそれ以上に、疲労の色を隠せなくなってきている。

 きっと、裕里は幸人の知らない幸人を見ていた。それが、ひとつの答えだった。

 幸人の足は動いていた。いまだ固まったままの裕里の肩に手を添える。裕里が自分を見上げる目線を感じた。幸人はまっすぐピンを見つめている。疲れてきたせいだと思うけど、腕が最初から斜めに出てる。曲がるのはたぶんそのせい。あと、疲れているからこそ、余計な力が入っている。それで、球離れにむらがある。だから安定しない。修正点をひとつひとつ挙げているあいだ、裕里はなにもしゃべらない。うなじから肩、背中にかけて、汗でびっしょりだった。ほてりと冷たさが入り混じる彼女のからだを、幸人は自然と支えていた。波が引くように、音が消えた。サラリーマンも店員も、いつの間にかフロアからいなくなっていた。裕里の息づかいが、手のひらから聞こえてくる。力を抜いて、からだを預けて。幸人は初めて、裕里を見た。口を半開きにしていた裕里は、きゅっと結んで口のなかのものを飲み込むと、こくりと頷いた。

 幸人が左足を出す。一息遅れて、裕里の左足が出る。右足を出す、右手を引く。球の重みに裕里のからだが引っ張られ、その背中が幸人の胸にぐっと押し付けられる。幸人は、そのからだを支える。左足。ふたりの足が揃う。球は自然と裕里の手から放たれていた。けっして速くはない球は、それでも一番ピンに向かってまっすぐ進んでいく。裕里の顔を見る。瞬きもせず、息を止めて球を見つめる彼女の顔は、どことなく上気していた。一番ピンに当たった球は、右に逸れて奥へと消えていく。穏やかなピンアクションは、回転したピンが最後に七番ピンを足払いのようにしてなんとか倒すと、十番ピンだけを残して終わった。

 不意に湧いてきた温もりに、幸人は慌てて裕里からからだを離す。右の手のひらには、裕里の汗のぬるさが残っていた。裕里は、両手をぶらんと垂れ下げたまま、一本だけ残ったピンを見つめていた。声をかけられなかった。足も動かず、少し離れたところから裕里の後ろ髪を見ていた。

 唐突に振り向いた裕里は、幸人の顔を一瞥することもなく、手っ取り早く球を構えた。幸人が慌てて横に退けると、その脇を抜けるようにして助走をとって球を放る。球足の速いそれは、まっすぐと十番ピンの真横を素通りした。スコアには0が刻まれ、孤独なピンは降りてきたバーに倒されて奥へと吸い込まれ、上からは十本のピンが降りてきた。

 どういうつもりなの。裕里は、ライトに照らされたピンを見つめたままだった。その表情はうかがえない。正直、なんでこうなったのか、よくわからない。ただ、ひとつ、謝らなきゃいけないことがある。なに? 堅く、厳しい口調だった。初めて耳にした声色だった。幸人にはそれが少し嬉しかった。わかったんだよ。なにが? 俺は、九十九・九パーセントにしか絶望していないみたいだ。

 裕里は振り向いた。今度は、まっすぐと幸人の顔を見る。笑っても、泣いても、照れてもいない。むしろ咎めるような視線だった。ここまでこの関係を続けてきておいて、いまさらそれを言うのは反則ではないか。もしかしたらそんなことを訴えているのかもしれない。幸人にも、その自覚はあった。六年間。幾度として、この心地よい関係が変わりかねない機会があった。それでも、ふたりの関係は変わらなかった。いや、変えなかった。あるいは、少なくとも、変わっていない体でいた。変わることを恐れていたのだろうか。それも間違いではない。しかし、それは現状に甘えていたのとは違う。進んでしまうことで、なにかが、決定的に失われてしまう、そう思われて仕方なかったのではなかったか。それは、ふたりの進む先があの一点である、とどこかで勝手に限っていたせいではないか。その点、やはりふたりもまた、あの文脈から自由ではなかった。そして、それはいまもそうだ。自分たちの関係が、単なる男友だち女友だちのものとは違うことはわかっていた。だからこそ、進むことを拒否していた。しかし、そもそも、ふたりは互いのことを自分の友人だと思っていただろうか。だとすれば、べつにそれは失われなどしないのかもしれない。

 裕里は、絶望したがっている。そこに一縷の希望も作りたくはない。そんな彼女のことを、幸人はそれなりに知っている。自分がしたことは、裕里への裏切りだったのかもしれない。

 裕里が絶望しようとする理由は、いまだにまったくわからない。手がかりらしきものもない。過去になにかあったのか、なかったのか。確固たる思想があるのか、なんとなくなのか。それも、いまになってはどちらでもいいことだった。

 幸人は、裕里に球を持たせた。胸のまえに両手で抱えた裕里は、幸人の顔を見上げた。幸人はまっすぐ見かえした。あと一ゲーム、まだまだ先は長いぞ。笠松くんは体力有り余っているでしょ、なに言っているんだか。裕里の表情は変わらなかった。いや、少し微笑んだかもしれない。

 裕里は球に指を入れると、くるりと回ってから肩越しに幸人を見た。幸人は、彼女の肩にかかった髪をのけて、背中に流してやる。先、まだまだ長いんでしょ。そんな裕里の小言の返事の代わりに、幸人はからだを軽く合わせ、手を重ねた。

(了)