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「ナイン・ボウリング」自作解説?

 

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 三年前、校舎最上階の四階の音楽室にはふたりの卒業生がいた。そのうちのひとりである少女は、窓に背中を預け、顔だけを外に向けている。眼下には、緑、赤のパステルカラーの校庭。手には卒業証書が丸め込まれた黒い筒、腕には花束を抱えた卒業生、それを見送る在校生代表の二年生が動き回るのを見下ろして、私、この世界の九十九・九パーセントに絶望してるの、とつぶやいた少女は、大学三年生となって、どちらかといえば女性と呼ばれる年齢になったいま、同じくその日音楽室にいて、しかし別の大学で大学三年生となっていた幸人の前で、アルミ製の棚にずらりと並ぶボウリングの球をじっと見つめ、ひとつひとつに指を入れては、抜くときにはきゅぽんきゅぽんと、カウンターで居眠りをしている中年の店員を除いてはだれもいないがらんどうのボウリング場に響かせながら、少しでも穴の大きい球を探している。

  いちおう引用の形にはしてあるが、わざわざこんな形にする必要もない文章である。というのも、これは私が数年前に書き、とある新人賞に応募し、見事一次選考落ちした小説の冒頭の第一段落だからだ。以降、賞に応募してはいない。そろそろ再開してもいいのかな、とは思っているが、まあ慌てることもなかろう。

 これを、原型がほとんど残らないくらいに大幅に改稿して、ある機関誌に寄稿したことはあるが、このまんまの形で発表したことはない。だから、ここを初出としてよかろう。タイトルであるが、プロフィール用紙の方にはちゃんと書いていたはずなのだが、そのデータがどこかにいってしまい、思い出せない。「ナイン・ボウリング」とか、そんなタイトルだったような気がする。(こんな感じのタイトルから、この作品がどんな作品から影響を受けているのか、察するひともいるかもしれない。)

 さて、パソコンのデータを整理していたら見つけたこの作品を、どうして引用しようと思ったのか。それは、「私、この世界の九十九・九パーセントに絶望してるの」とつぶやいた「少女」のこの言葉、おそらく、書き手である私が、いまだその意識を抱えているような気がするからだ。変わっていない、成長していない、ということもできるのかもしれないが、まあ、ぶれていない、という言い方もできるだろうか。まあ、ここでは別に、どちらでも構わない。

 ところで、私の創作歴は浅く、作品数なども大したことはないのだが、そのほとんどが、ひとりの男とひとりの女の物語だ。そして、周りのアマチュアのひとたちの作品を読んでいつも驚かされるのだが、私は、そのひとたちのような独自の世界観、登場人物を創造することができない。正直、自分には小説の才能が致命的なまでにないんじゃないか、と卑下ではなく本気で思う今日この頃なのだが、そんな私は、自作の登場人物に思いっきり自分を投影しがちだ。というより、そうでもしないと人間らしきものが生まれない。それは、男性だけでなく、女性の登場人物に対しても同様だ。だから、この作品の女性登場人物(裕里)にも、自分らしきものを感じてしまう。

 とはいえ、意識の上ではいちおう、私は自分の小説で、自分を超えた無意識下に浮遊しているものを文字に浮かび上がらせたい、と思っている。簡単な言葉を使えば、自分Aと自分Bをぶつけて、止揚させたところに作品を生みたい。おまえのようなひよっこが偉そうなこと言ってんじゃないよ、と言われてしまえば、その通り、まったくもって返す言葉がない。が、遠慮も大事だが、ときには無謀を恐れず、大きいことを声に出してしまった方がいいのだ、と最近、周りを見て思うようになった。自信がつくのを待っていても仕方ない。結果が、その自信の裏付けになるのだ。まずは動くしかない。

 さて、この作品の男性登場人物(幸人)も、「九十九・九パーセント」に絶望している人間だ。しかし、その姿勢は、残りの〇・一パーセントを消そうとする裕里とは違う。

俺は、九十九・九パーセントにしか絶望していないみたいだ。

 それにしても、当時の私はどんな顔をしてこんな青臭いセリフを打っていたのだろうか、と思わずにはいられないが、それは措き、幸人は残りの〇・一パーセントに(作品的にはそれが裕里にあたるのだろうが)、希望を抱いている。当時の私は、そんな風に思えていなかったと思う。おそらく裕里側の考え方をしていた。たぶん、私は幸人のような考え方ができる人間になりたかったのだ。自分と正反対ではない、自分と同じだけど、しかしそれを受け入れながら乗り越えているような人間に——。すると、この作品はまさに自分を慰めるだけに書いたもの、と言えてしまう代物で、そんなものが商業出版するに値する、わけがなかった。

 しかし、困ったことに私はこの作品がそれほど嫌いではない。それも、しっかり私のために書かれた作品だからかもしれない。

 

 あれから2年、果たして私は幸人のような人間になれているだろうか。書かれたものは常に現在よりも前のものである。けれど、彼/彼女らは、しばしば私の先を歩いている。困ったものであるのと同時に、頼もしいものである。

 最近になってようやく、私はまた、小説を書き始めた。そのなかに、幸人や裕里は登場しない。けれど、どこか遠くから、球の転がる音が聞こえている。

 

(宵野)