ソガイ

批評と創作を行う永久機関

積んである本について話してみる

 日々本を積んでいて、一冊読み終わるまでに三冊は手持ちの本が増えているような有様、積み本がなくなることは一生ないのではないか、と思わないでもない私であるが、ここで一度、自分がどのような本を積んでいるのか、確認してみるのもいいだろう。

 ところで、買っても読まなくては意味がないではないか、と言われたら、正直なところ言い返す言葉がないのだが、しかし、その本が自分の手許にあるかどうか、というのは案外大きな違いだと思うのだ。最近はシェアの文化が進んでいて、ものを持たない生活を志向するひとも多い。それはそれでいいと思うし、私だってストリーミング配信のサービスを利用したりもする。

 ただ、こと本についてはどうしても所有したがる性向にあるのは、やはりそれを、どこか自分のものにしておきたいからなのだろう。

 第一、一冊の本を読んだからといって、そのすべてを憶えることなど私には不可能だ。いや、一割だって憶えていないと思う。登場人物の名前に至っては、かなり高い確率で忘れている。そして、所有しているからといって、そのすべてを読み返すわけではない。なんだったら、読み返さない本の方が多いだろう。

 だったらなぜ、部屋のスペースを著しく圧迫し、本棚に入りきった試しもなく、本棚の上、手前、ベッドの下に積み重ねられるだけの本を持っているのか。正直自分でもよくわからないが、たぶん、「自分はふとした瞬間にあの本を紐解くことができる」という機会を常に抱えていたい、という、どうしようもなく生産性に欠ける願望が一因かもしれない。いつか読む。その「いつか」が来るのかはわからないけれど、常に自分はその選択肢を選べる状況にあるのだ。——まあ、そんなところだろうか。積み本について調べると、「積み本を解消する方法」について紹介した記事が多く見つかる。参考にはなるが、たぶん私には、積み本を解消する気がそもそもないのである。

 

 さて、見たところ百冊弱ある積み本を整理しなおしてみた。当時の自分はなにを思ってこれを買ったのだろう、というものもたくさんあった。そんななかでも、興味深い本はもちろんあった。いくつか挙げてみよう。

 

 

・三浦哲郎『燈火』幻戯書房、2016年8月

 これは地元のブックオフで見つけた。もともと1260円だったところを粘って、数ヶ月後「表示価格から50%OFF」のシールが貼られ、折良くレインボーセールかなにかでさらに20%OFFで購入できた。私は三浦哲郎の作品を、まだ「拳銃」くらいしか読めていないが、この未完の連作短編には、帯にやられた。

「井伏鱒二や太宰治を経て、三浦文学は新しい私小説世界を切り拓いた。移りゆく現代の生活を研ぎ澄まされた文体で描く、みずみずしい日本語散文の極地、初書籍化」

 しかも解説が佐伯一麦ということもあって、近頃私小説に興味がある私にとっては魅力的だった。

 この本は幻戯書房の、「銀河叢書」から出ている。後ろには銀河叢書の既刊が掲載されているが、小島信夫、田中小実昌、舟橋聖一、島尾ミホ、木山捷平など、なかなか興味深いラインナップになっている。どれも欲しいが、いかんせん、このシリーズは値段が高めなのだ……

 

・川口葉子『東京カフェ散歩 観光と日常』祥伝社黄金文庫、2012年12月

 「東京カフェマニア」という個人サイトも開いている文筆家の著作らしい。

 東京の96のカフェ・喫茶店を写真付きで紹介、ルポしている。巻末にはマップもついていて、この本片手に東京の喫茶店巡りを楽しむこともできそうだ。

 私がコーヒーを飲み始めたのは高校生のころだ。格好つけたい、大人ぶりたい、といった理由ではなく(そもそも中高一貫の男子校だったら、格好つけるような相手もいなかった)、そのころに、学校を何度も休むくらいつらい偏頭痛を発症したことが要因だ。ネットか何かで「偏頭痛にはカフェインがいい」という情報を見つけ、父が取り寄せていたドリップのコーヒーを拝借して飲み始めた。最初はただ苦いだけで、牛乳と砂糖をたっぷり入れなくてはとても飲めたものではなかったが、大学生になったころから、味覚が衰えたのかどうかしらないが、基本ブラックで飲むようになった。始めてひとりではいった喫茶店、まあドトールなのだが、急に注文の番が来てメニューを見るが、どれがどれかわからず、慌てて、たまたま目についたエスプレッソを頼んでしまい、あのちんまりとしたカップの底に沈む真っ黒の苦み抽出成分が出てきたときには面食らったものだった。砂糖を入れれば案外おいしくいただけたのではあるが。日に一杯飲むか飲まないかくらいで、まだまだ味の違いもいまいちわからない者ではあるが、コーヒーにはちょっと凝ってみたいなあ、と思う今日この頃。

 東京にはたくさんの全国チェーンの喫茶店がある。ただ、なかなか席が空いていないというイメージがどうしてもある。一方、たまに散歩中に見つける町の喫茶店には惹かれるが、なかなか緊張して入れない。でも、いつかは入ってみたいなあ。そんな潜在意識が、私にこの本を買わせたのだろうか。

 ぱらぱらめくってみると、自分の地元や行動範囲にある喫茶店も載っている。せっかくだから、この本を見てちょっと扉をくぐってみようかな。

 

・コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環』日高敏隆訳、ハヤカワノンフィクション文庫、1998年3月

 あらかじめ言っておくと、私は動物行動学にはそれほど興味はない。表紙の雁かなにかの鳥の雛がかわいかったのと、ローレンツの名前は生物の授業で習って知っていて、なんだか懐かしかったから、なにか他の本といっしょに買ってしまったのだ。(ところで、私はセンター試験の「生物」でなぜか満点を取っている。確実に良かったと言えるのはこれと「日本史」だけだったから、文系なんだから、ほかのところをもっと頑張るべきだったと思うのだが。さすがに、そのとき「刷り込み」の問題が出たかは憶えていない。)

 なかにはローレンツ自身のイラストなんかも入っていて、ポップな感じだ。ぱっと見てみたところ、カラスの章がおもしろそう。カラスの行動は、街中で見ていても不思議というかおもしろいところがある。そういえば、去年の夏、私はひとりで越後湯沢に行ったのだが、朝散歩していると、パアン、パアンと破裂音がする。なんだろうと思っていると、建物の屋根にカラスが駐まっていて、また破裂音がすると一目散に道路の真ん中に降りてきて、なにかの破片をくわえて、また飛び去った。クルミのような木の実の殻を自動車に割らせるカラスがいることは知っていたが、いざ目の前で見ると、まあたいしたものだと感心せざるを得ない。まあ私は小さい頃、二羽のスズメに追われて逃げるカラスも見たことがあるのだが。

 

・日本近代文学会関西支部編集委員会編『〈異〉なる関西』田畑書店、2018年10月

 1920・30年代の「関西」を、文芸作品を主に対象として論じた論集。織田作之助、直木三十五、中上健次、賀川豊彦、横溝正史などの作家が採りあげられているようだ。おもしろい並びだ。

 どうしてこの本を買ったかというと、「吉野葛」がこのあたりの時期に書かれているからだ。関東大震災が起きたのが、1923年9月1日。出版の一大中心地東京は大きなダメージを受けた。谷崎がそのとき関西に移住しているのは有名な話だ。谷崎と関西との関係を考えるとき、ただ日本の伝統的文化というだけではなく、たとえば創元社だとか、当時のメディアだとか、そういったものとの出会いというものも考えなければならないと思う。

 そのとき、当時の関西について多方面から論じているこの本が、もしかしたら役立つかもしれない。——と思って買ったのだが、まだ読めていない。いや、そろそろ修論は書き始めなければならないのだから、遅くとも夏休み中には読んでおこう。

 

 

 ほかにもいろいろあるのだが、今回はこのあたりで。

 

 この記事を書いてみて感じたことがある。

 ひとは案外、読んだことのない本からもいろいろ話すことができるのだ。

 

(文責 宵野)