第3回
第二章「すべての猫が灰色に見えるとき」。
日が沈み、雲が月と星々を隠していた。雲は空を覆い尽くし、残された光を奪ってしまう。庭の片隅に、それは姿を現した。リラのすぐそば、ほとんど乾き切った大きな金雀児の近くだ。それは壁影の一角に隠れていた。角にあるくぼみで、他所よりもいくらか暗闇が深かった。(22頁)
これまでは前置きで、ここから本格的に物語が始まっていくのだな、と思わせる冒頭、少ししてすぐのこの一段落では、主にふたつの疑問が生じる。「それ」とは?「リラ」とは?と。……と思いきや、なんと「リラ」とはフランス語で「ライラック」を意味する言葉だそうだ。これはちょっと知らなかった。ので、大きな疑問はひとつだ。「それ」とはいったい?
直後で、「それ」が猫であることが明らかになる。しかし、このとき猫の姿をきっちりと捉えることはできていない。
視線が捕らえるのは猫が逃げるときの動きだけ、立ち去るときに通り抜ける空気のなかに残していく痕跡だ。つまり、猫がそこにいたことを告げるのはその動きなのだ。だがそれも、猫がもうそこにいなくなって、その場所をほんとうに離れてしまってからだ。(同)
猫ほど、気配を消すことに長けている動物はなかなかいないのではないか、と思うことがある。塀のうえに寝そべる野良猫に、目の前に行くまで気づかなかったり、急に脇から飛び出してきたり。また、私の伯母の家には猫がいて、近くに住んでいるから、届け物を持って行ったりもらいに行ったりするときに少しお邪魔して、猫を見させてもらう。とくに、ほかの家族がいないとき、その猫がいる二階に上がると、電気もついていない二階は、しんとしている。ゲージは開いていて、なかに猫はいない。あたりを見回すがまったく見当たらず、となりの部屋のベッドの下にでももぐってしまったのかもしれない、と諦めて、従兄弟が買い集めている漫画をちょっと拝借して読む。2冊くらい読み終わってのびをすると、壁掛けの棚のうえから、私のことをじいっと見下ろしている猫と目が合う。おまえさん、そんなところにいたのか。近寄るとびくっと身構え、手を伸ばすと後ろ脚を屈めて、ぴょんと床に降りて、すたすたと足音を立てずにどこかに行ってしまう。そのくせ、放っておいて漫画を読んでいると、前触れもなく現れ、背中にからだを擦りつけたりしてくる。構って欲しいのかな、と手をしたから伸ばすと、やっぱり手を避けて、棚の上に戻っていく。猫は、いつそこに来たのかわからず、気がつけば来ていて、そしてすっといなくなってしまう。
それは姿を現した、と言った。いや、ちょっと軽率だ。逆のことを言うほうがより正確だろう。どれほど非論理的に思えたとしても、ひとは、猫がやってくるのを見るより先に、まず立ち去るのを目にする。消失は出現に先立つ。この法則にはほとんど例外がない。やってくる姿を目撃する前に、まずその出立を目の当たりにするのだ。(23頁)
こんな感じだから、最初がいつなのか、じつはよく分からない。「最初のとき」が無数にある、ありうる状態なのだ。
わたしが注意を払って名前を与える前に、その現象はまちがいなく何度も起きていたはずだ。つまりそれ以前にもいくつもの「最初のとき」があったのだろう。そして、同じ数だけの出現が、いやむしろ消失があったのだ。いわば、いくつもの発現だ。何度か起きて初めて、わたしはそのすべてが同じ性質であることに気づき、近くに住み着いているにちがいないたった一匹の動物によるものだと思い至ったのだ。(23、4頁)
これは帰納的証明である。そういえば、前の章には「帰納」の対義語である「演繹」の語があった。
仮に実験が可能だとしても、箱のなかの猫が死んでいると同時に生きていることや、死んだ被造物と生きた被造物をうちに含んだふたつの世界が密接に絡み合った状態にあることに、本気で賭ける科学者がひとりでもいるとは思えない。「重ね合わせの原理」は、少なくともわたしの理解では、仮説としての位置づけしかもたない。素粒子のみを対象にした、きわめて特殊な規約に従った実験を説明し、その結果を予測するために必要なものなのだ。結局のところそれは、純粋な確率の計算だ。「重ね合わせの原理」とは、実際の検証(同時に存在しながらも不可能ゆえに対立した複数の側面をもつ現実を、きわめて強力な一種の顕微鏡を通して肉眼で見るように正しく見ることを可能にする検証)に依拠するというより、量子状態がいくつもの実質(この場合は「状態ベクトル」と呼ばれるべクトル)によって抽象的に表象されていて、そうした実質はいずれも、無数にある他の実質として分解されながらもその総体と考えられるという事実に依拠している。そう考えると、この原則の神秘性はほとんど失われてしまう。つまり、素粒子にあてがわれる重ね合わせの能力は、状態ベクトルを表す数学的な形式から演鐸されると言ってよい。(19頁)
どこで切ればよいのか、どこを省略すればいいのか、非常に難しい文章だ(余談だが、私はできることなら「中略」のようなことをせずに引用をしたい、という気分がいまはある)。たとえここで言っていることがあまり理解できなかったとしても、「わたし」が、この演繹で導かれる「重ね合わせの能力」には、あまり魅力を感じていないことは察せられるだろう。
それにしても、ひとつ前に引用した箇所には、「はずだ」「だろう」「ちがいない」という、「わたし」の主観的な判断を示す語が頻出する。「その存在も、はじめは仮定の域を越えはしなかった。同じ猫だという証拠は何ひとつなかった。」と直後に語るのも道理だ。
この猫は、主観的な存在、あるいは表象として現れている。目の前に現れているのは動物としての猫ではなく、猫のかたちをして現れたなにか、という風に考える。そうすると、「ほとんど至るところで定期的に見かけるようにな」るのだ。
存在するのはただ、いずれかの時点で、その存在を信じようと決心したものだけだ。(25頁)
前の章で、物語に考えを託すことが語られていた。ここでも、存在を信じよう(「信じる」のとは少しちがう)とすることによって、立ち上がってくるものがある。
ここで、唐突に電話での会話が入る。相手はおそらく女性。「一緒に住んでいたというよりも、その家に交互にやってきていた」と言うが、いったいどんな関係なのか。なんとなく夫婦であるようにも感じるが、ここでは確証がない。
そのあと、「わたし」はその猫の所有を否定する。夕食を終えると、 葉巻を吸って、ウイスキーを飲みながら、庭の虚空を観察する。このときにも、その場所を「所有地」と言ったことを訂正する。そして、それを砂場のような場所だと言い直す。そんな「砂場」で、「わたし」は、「何かが現れるのを待」つ。さて、これまで何度か境をくずす存在として、猫を見てきた。ここで、猫はどこから現れるのか。
ほとんど液化して粘り気のあるものがじわじわと砂の上に広がり、あらゆる姿形にはりつくさま。そのくすんでどろどろとした組成。飲み込んだものの上に塩めく閃光。それはいわば、重油で汚染された液体のようだった。ゆっくりと河岸を浸す黒々として粘りのある水は、庭の奥にできていたあの口から徐々に飲み込まれたものにちがいない。どこよりも暗いその片隅は、猫が最初に現れた場所でもあるが、正確には穴というよりも、敷地と隣家を仕切るふたつの壁の繋がりが悪くて角にできた隙間だった。(28頁)
猫はやっぱり、境を越える。そうに「ちがいない」、と「わたし」は思っている。でも、実はどこからやってきたのか、その現場を目撃はしていない。だから、「この命はどこからやってきたのか。見きわめようと目を見開いても無駄だった。」と言わざるをえない。「わたし」のこの行為は、なんとも詮無いことだった。けれど、それだけではない。本当にまったく意味のないことならば、物語は進まない。だから、葉巻を吸い、ウイスキーを飲みながら暗闇に目を凝らすことで、生じることもある。
それ以上言うことはなかった。だが一方で、こうして暗闇に目を凝らし、影がどのように作りあげられるのか観察し、影が独立した存在となって虚無から身を離し、わたしのほうへとゆっくりと進んでくるにいたるまで、どのようにして中身に満たされるのかを見張っていると、わたしはずっと昔にうち捨てた仕事を視線によってやり直している気がした。かつて、わたしの関心を一瞬だけ引きつけた仕事を。
ほんとうに昔のことだ。
それがいま、こうして再開することに、わたしはいくらか驚いていた。(30頁)
「むかしむかし、あったこと」。これから語られていくのは、そんな昔話になっていくのだろうか。しかし、ここまで読んできているからわかる。昔話は、ただ昔を懐かしむだけのものではない。昔話を「信頼」することで、「永遠の複数性を備えたあらゆる可能態が至るところに分散してゆく」。だから私も、「わたし」の昔話に信頼を寄せながら、目を凝らしながら、ついていく。
(第4回に続く)
(宵野)