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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第6回

 

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 第6回

 

 前回、引用についていま思っていることを少し書いた。そういった理由で、とくにこの文章において、私は可能な限り長めの引用をしてきた。

 なので、ここでは逆に、断片的な引用を並べてみる。逆のことをやってみる。このことが思いのほか大事で、得るものも多いということをちゃんと意識し始めたのは、案外、最近のことである。

 わたしはわたし自身であり、そして他者でもあった。だがその他者もまた、わたし自身だったのだ。どちらか一方が真実であったわけではない。わたしが語る存在のいずれもが、わたしであり、かつ、他者でもあって、そのいずれもが平穏に共存していた。(40頁) 

 

もっとたくさんの世界があった。無限に存在するという考えを禁じるものは何ひとつなかった。(41頁)

 

わたしが観察していたこの実験の特徴は、そうしたすべての世界がひとつの等価な平面に位置づけられていて、そこには一切の序列がなく、他よりひとまわり大きな現実——あるいは非現実——を備えていると言える世界がひとつもないことにあった。(41頁)

 

無数の世界があり、そのすべてにわたしの自我が含まれている。(41頁)

 

わたしは、上と下、近くと遠く、前と後の区別がもはやない、座標を欠いた世界を自由に浮遊していた。(42頁)

  平行世界、パラレルワールドの可能性への志向が語られる。そして、自己の拡散、あるいは、自我の非所有を感じ取っているかのような語り。境界線や、区別といったものが無化されていることも示唆される。これも、いままでに散々述べてきたことの繰り返しだ。そして、このあり方こそが猫である、ということも。

 そういえば何回か前に、松本大洋『ルーヴルの猫』を買った、という話をした。さっそく読んでみた。この話でもやはり、猫は境界を越えている。その境界はいくつもあるのだが、もっとも大きなものが、現実の世界と絵画の世界との境界だ。主人公の白猫「ゆきのこ」は、絵画のなかに入り込むことができる「絵入り」の猫。ゆきのこは成長もしないから、子猫の大きさしかない。そして、同じく「絵入り」の少女がもうひとり、重要な人物になってくる——。

 この作品に深入りはしない。が、『シュレーディンガーの猫を追って』に関連付けてひとつ話すと、絵画のなかに入ってそのときの姿のまま生きる少女は、ここまでゆっくり読んできてしまったせいだろうか、フォレストが見つめる、亡きひとり娘の、べつの世界での姿であるかのようにも、どこか思えてしまう。

 

 さて、このあと、「中国パズル」と「中国(の)影絵」という、中国の名を冠したものが比喩として用いられている。かなり唐突だから驚く。そもそもこれがなんのことだかよく分からないから、ネットで調べてみる。

 中国パズルとは、どうやら木の部品を組み合わせた、木造版知恵の輪とでも言ったらよいだろうか。とにかく、そんな感じのものらしい。

 この比喩が指している箇所では、四次元より高次元、五次元とか六次元の世界は、人間には経験がなく、知性によって立ち向かうことが難しい。だったら、と数学的に手法を用いれば容易に証明ができるが、それを推し進めるとイメージを作り上げる手段がなくなってしまう、というややこしさを説いている。となると、つまり、こちらをとればあちらがとれず、といったような状況を、「中国パズル」になぞらえていることになるだろうか。

 これについてはなんとなく想像ができる。知恵の輪を解いていて、この大きい輪っかを外すためにはこの棒を右にずらさなければならないのだが、棒を右にずらすと、もうひとつの小さい輪っかが邪魔して、大きい輪っかが動かない。たとえばこのようなもどかしい状況を思い浮かべればいいだろうか。

 問題は「中国影絵」だ。こちらを調べると、皮影戯(ピーインシー)という、中国の伝統的な影絵芝居が出てくる。皮で作った人形を操って演じる芝居。検索して出てくる画像を見ていると、これはなかなかきれいで繊細なものなのだが、果たしてこの中国影絵を持ち出してなにを言いたいのだろうか。

 ある立体(三次元の物体)を用意し、それを平面(二次元の空間)に投影してみよう。手に入るのは忠実だが不完全なイメージでしかない。実行された射影には三次元のうちのひとつが欠けているからだ。あるいは、といってもまったく同じなのだが、例の中国の影絵をやってみるとしよう。スクリーンとなる白い紙の上には、背後から光で照らされた物のかたちが切り取られる。こうしてシルエットは手に入る。だが、それだけだ。光のなかで手にしている物体の奥行きについては、シルエットは何も語らない。そして、イメージがまったくの偽りになりうることも明らかになる。同じひとつのイメージが、外見の異なるいくつもの物体と一致する可能性があるからだ。また、同じ物体がいくつものかたちを取りうるのだ。(43、4頁)

  「例の中国の影絵」というが、「例の」と付されるほど有名であるかは疑問だし、いままで強調もされていないのだけど、言わんとしていることはなんとなく分かった。

 影は、物体が光に照らされて生まれる。それは忠実ではあるけれど、平面に落とし込まれているから、奥行きがない。一方、フォレストは闇のなかでものを見つめようとする。そのとき、ひとはいままで自分が見ていたものを、根本から疑わねばならなくなる。『ルーヴルの猫』の世界では、一般的に平面だと思われている絵画が、実はある種の境界を越えるものたちにとっては四次元、あるいはそれ以上の次元の空間としてあるということが認められるように。

闇夜の漆黒を前にしていることに気づく。そのとき、本質的な問いの時間が戻ってくる。(44頁)

  この「本質的な問い」が、フォレストの場合にはまさに暗闇から現れた一匹の猫なのだ。そしてこの一匹の猫が、この物語である。

 意識したときにはすでに始まっている。それが物語というものだ。わたしの物語は、月並みとはいえ、それなりに意外で、なかなか突飛なものになってしまっていた。変えるにはもう遅すぎた。物語が導くままに進んでいく以外に、選択肢はなかった。ある晩、一匹の猫が庭にやってきた。どこからともなく、暗闇のなかから不意に現れた。虚空で宙づりになっていた何ものかが、わたしの目の前で不意に猫のかたちをとって現れたかのように。 (45頁)

  薄々分かっていたことだが、この物語のなかで猫は、猫というひとつの生き物というよりは、なにかの象徴としてある。しかもそれは、「わたし」にとってはじめて意味を持つ「猫」というイメージである。この猫は、「わたし」になにかを示している。フォレストは「おぼろげな啓示の使者であるかのよう」とまで書いている。啓示は、神や超越的な存在によってもたらされる真理だ。啓示といえば、キリスト教やイスラム教のような、宗教的なイメージが強いかもしれない。だが、ひとがなにをもってそれを神とみなすのか、それはひとそれぞれだし、状況にもよるだろう。少なくともこのときの「わたし」にとってはこの猫が超越的な存在であり、そしてきっとこの猫が、「わたし」になにかを教えようとしている——と、「わたし」には感じられる。

 

 さてここまで読んできて、これは予感になるが、この作品は「わたし」と猫とのふれあいの物語にはなっていかないだろう。猫を、いるかいないかわからない猫を巡る随想の記録となっていくのではないか、というのが私の予想だ。さて、ここからどう進んでいくのだろうか。

 

「わたし」にとって猫がなにかの啓示の使者であるのと同様、いまの私にとっては『シュレーディンガーの猫を追って』という作品が、なにかの啓示の使者になりつつある。しかし、果たしていつ読み終えるのだろうか。現在46頁。まだ250頁以上も続いている。(さすがに夏休みまでには終えたいが……)

(第7回に続く)

 

(宵野)