ソガイ

批評と創作を行う永久機関

習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第7回

 

www.sogai.net

 第7回

 

第5章「眠れない夜」。

 

「なぜなぜ期」という言葉がある。2、3歳くらいの子どもが、どんな物事にも「なんで?」「どうして?」と質問ぜめしてくる時期のことだ。それは些細なものから、ときに壮大なものだったり、哲学的なものだったりする。わかりやすい例を挙げると、「どうして空は青いの?」とか、「なんで電話ができるの?」とか、「なんで○○くんの家はお金持ちなの?」とか。大人からすれば、そんなことが気になるのか。そんなことを気にしたって仕方ないではないか、と思ってしまうようなものもしばしばだ。

 しかし、じゃあいざ答えようと思うと、思いのほか難しい。私は昔、大人とはどんなことでも知っているひとなんだ、と思っていた。早く大人になりたい、と心の底から願っていた。まだ20代だから、その程度で大人を語るな、と言われてしまえば返す言葉がないのだが、しかし、いちおうは「大人」と言われる年齢になって分かってきた。

 大人は、どんなことでも分かっているのではないし、それどころか、考えてもいない。なかなか答えが出ないような事柄を考えないでいられるようになったひと、それを大人ということができるのだ、と。無論、それが悪いことだなんて思わない。いまを生きていくためには、そんな深遠なことばかりを考えてはいられない。しかし私は、考えずにいられるようになったことを誇るような人間になることを、どこかで生理的に拒否しているようだ。文学なんてものに興味を持つようになったのは高校生のときだったが、そんな私の奥底の希求も、無縁ではないのかもしれない。

 こうして本質的な問いを立てるときがふたたびやってきた。質問するのはいつも子どもたちだ。大人はみな、答えなどないと言い放って投げ出してしまう。例外は、哲学者、学者、詩人だ。赤子と同じくらい無防備な彼らは、赤子とほとんど同じ結論——あるいは結論の欠落——にたどり着く。(47頁) 

  私が要領も得ずに長々と書いてきたことは、実はこの一段落で言い当てられていると言ってもよい。こうして見てみると、やっぱり私はまだまだ文章が拙いと感じる。

 さて、実はすでにして、今回も1回で1章が終わらない予感をひしひしと感じている。が、まずは、ここでの「なぜなぜ期」のやりとりの始まりを引用する。

「前はどこにいるの?」
「生まれる前かい ?」
「ママのおなかのなかさ」
「それは知ってるわ」
「そうか」
「みんなそうなの?」
「ああ、みんなそうだ」
「でも、前は?」
「何の前だい?」
「もっとずっと前」(同)

  生まれる前にひとはどこにいるのか。これは人類にとって永遠の問題である。誰にも分からない。

 母の話によると幼き私は、やがて私の妹となる命が母のお腹に宿っていることを、妊娠が発覚するよりも前に分かって、「ママ、うちは五人家族だね!」「え、なんで? うちは四人でしょ?」「だって、ママでしょ、パパでしょ、タタ(祖母のこと)でしょ、ぼくでしょ、あと赤ちゃん!」と嬉しそうに話したそうな。あと、母の胎内での記憶もあったらしく、尋ねると、かなり詳細にお腹のなかでの自分の行動や出来事を語ったそうな。

 これが本当なら、私はなにかの能力者だったのではないか、なんて、わりと冗談抜きでそう思うのだが、しかし、その私だって、生まれる前の世界のことはもうなんにも分からない。そして、そんなことは考えたところでどうしようもない。万が一わかったところで、だからなんだというのだ。そう考えるのが自然だろうか。

 いつもだったら、私だってそう考える。早く電車空かないかな、甘いものが食べたいな、この仕事面倒くさいなあ、そんなことばかり考えている。けれど、ふとした瞬間に、こういった深遠な問いに引き込まれることがある。そんなとき、私の心は時空を飛び越えて、大げさかつ実直に言えば、宇宙的な空間に放り込まれたかのような感覚に陥る。

 で、先ほどの例でもそうだったが、私のこんな拙い喩えを、フォレストはもっとぐっとくる言葉で述べている。

 誰が話しているのかわからない。暗闇のなかに聞こえる会話のようだ。はるかな昔から。ふたつの声が応え合う。誰のものかわからない。いまの声なのか、かつての声なのか。これから生まれてくる存在なのか、あるいははるか昔に亡くなった存在なのか。それすらわからない。ふたつの影の対話。眠れずに頭のなかを考えがぐるぐる回っているときに、わたしはよく耳にする。子どもが父親に話しかけている。あるいは、母親に。わたしが誰かに話しかける。誰もいない。おそらく自分自身に対してだ。むしろ、わたしは口をつぐんでいる。わたしは声を聞く。彼らが言っていることに耳を傾けようと努力する。いまとなってはもう何年も前から心を占めている訓練だ。暗闇のなかで言葉をとらえようと試みること。歳月を経たあの会話は終わっておらず、まだどこかでつづいているのだと納得しようとするかのように。(48頁)

 「誰のものかわからない。いまの声なのか、かつての声なのか。これから生まれてくる存在なのか、あるいははるか昔に亡くなった存在なのか。」、「わたしは声を聞く。彼らが言っていることに耳を傾けようと努力する。」。ひとによっては、「おまえ、この話をするの何度目だよ」と思うだろうが、やはり今の私がこういったものを読むと連想してしまうのが、小川国夫なのだ。

 彼の晩年の随筆に、まさに「耳を澄ます」という題のものがある。「書けない時には、よく海を見に行きました」で始まるこの文章は、小川の創作論といって差し支えなかろう。海でさまざまな「声」を聞いて創作意欲を起こした、という彼は、このように語る。

 小説とは、作者が自分はこれを言いたいと主張することでしょうか。それとも、自分の耳にはこのようなことが聞こえると言っているのでしょうか。後者だとすれば、書かれているのはすべて聞こえてきた言葉ということになります。作中の会話も独白も、作者に聞こえてきた言葉を、右から左に読者に取りついだだけ、ということになります。私には、この行きかたが好ましいのです。(「耳を澄ます」『随筆集 夕波帖』13、4頁)

  では、そのときの「声」とはいったい誰のものなのか。今度は「死者たちの声」から、その末尾。

 ただ一つ、はっきりしている望みがあります。耳を澄まして、死者たちの言葉を聞きとることです。あらためて戦死者の手記を読もうとも思いますが、それ以上できるだけ多くの言葉を私は聞きたいのです。夢の中であってもいい、彼らの肉声が聞こえてこないかな、と願っているのです。そう言いますと、読者は、それは小説家が小説を書きたがっているということではないか、と感じるかもしれませんが、実はその通りなのです。
 小説家にとって一番大切なのは、耳を澄ますことだと思っている私は、あわよくば死者の声を聞き、彼らと会話もしてみたいと望んでいるのです。テレビの影響もあって最近歴史づいているのですが、残念ながらわからないことばかりです。そして私は、なまなましい声を聞きとること、それだけが小説家の歴史へのかかわりかたではないかと思っているのです。(「死者たちの声」同書18頁)

 小川は、小説を書くことで死者と話をしようとした。死者の声を聞くために、小説を書いていると言ってしまってもよい。

 私は、フォレストが小説的な文章を書いている理由も、同じところにあるのではないか、と改めて感じ始めている。そうでなければ、「あるいははるか昔に亡くなった存在なのか。」と最後に強調するようにつけ加えるはずがないように思うのだ。そこにはやはり、ひとり娘の姿がにじむ。だって、まだ「わたし」は言わないけれど、どうしたってこの問答の少女像に亡くなった娘を重ねているのは明らかではないか。娘の声が聞きたい。あわよくば会話したい。だからこそ「シュレーディンガーの猫」の世界に思索を巡らすのではないか。娘が生きている世界がある。その可能性に縋るようにして。

 

 予想通り、第5章が全然終わらないままここまで来てしまった。ここでは最後、少し脇道にそれて小川国夫の話をして終わりにしよう。なお、いまからここに記すのは、2019年5月6日の文学フリマ東京にて頒布した『ソガイ vol.4 平成文学』に私が寄稿した『「私」に還り、「私」を消す作家—小川国夫『弱い神』から』の一部を抜粋したものである。自己引用が果たしてどこまで認められるものなのか、実はよく分かっていないのだけど、こういう場だし、出典も明らかにしたのだから許して欲しい。

 

〜おまけ、ここから〜

 さて、晩年の小川にとって、その耳を傾ける相手とは、家族をはじめとした、死者の声だった。そして、小説を書く目的のひとつ、それ自体が、死者の声を聞くことだった。厳密には『弱い神』の連作の作品ではないが、その続編の一端だったと見られる「未完の少年像」からひとつ、場面を引こう。これは、作家である岩原が同級生に頼まれ、彼が園長を務め、そして『弱い神』における重要人物のひとり、海江田總も職員として務める〈あおぞら学園〉という精神障害者の施設で、文学の話をする場面での言葉だ。

 ここで是非触れておきたいのは、死者にあてて文章を書くことです。死者も読者であり得るでしょうか。言うまでもなく、あり得ます。渋谷隊長に向けた言葉がそれです。この場合、私は自分で喋るよりも、主として相手に質問するでしょう。相手の言葉を呼び出そうとして、それから耳を澄ますのです。(……)そして少尉の声が聞こえたと思ったら、それを右から左に原稿用紙に写せばいいのです。このようにして、小説家は亡くなった友達とやり取りができる、と私は信じています。(『弱い神』五四七、八頁)

  ここで語られていることが、先に引用した晩年の随筆の文章と重なることは言うまでもないだろう。

 ここで言われている「渋谷隊長」とは、小説でも随筆でも、小川がしばしば語る、特攻隊として出撃して命を落とした親友のことである。彼は海軍少尉だった。小川とそれほど歳は離れていない。彼は出撃前、一度故郷に帰ることを許された。そのとき、道ですれちがった際、彼は自転車を降りて小川に敬礼し、「ぼくはお国のために死にますが、君は(一生懸命)勉強してください」と言ったのだという。岩原(そして小川)は、この、自分が耳にしてきたなかで「最もすぐれた言葉のひとつ」のあとに続く言葉を追い続けている、というのだ。

 さらに続けて、もうひとつの小説の可能性がある、と言う。

それは、小説には完全に自分あてのものもあるだろう、ということです。ひたすら自分の心に向かい、見きわめようとして書く場合です。(五四九頁)

  今度は自分の心に耳を澄ます。そして遂には、

それから、遂には、自分さえも相手にすることなく、読者のいない小説を書くことです。言葉が伝達を目的とするなら、こんな小説は矛盾そのものですが、私はあり得ると思っています。(五四九頁)

 「言葉が伝達を目的とするなら」と前置いている。つまり、彼の中では必ずしも伝達を目的としない言葉で綴られた小説があった、ということだろうか。これは文学によって「生きられている」、「文士」の言葉だ。「文士」というあり方にこだわり、同人誌時代から、商業誌に随うことを拒絶してきた書き手の、ある意味究極のあり方だったのかもしれない。

〜おまけ、ここまで〜

 

 死者の声に耳を澄ませた小川国夫は、最期にこのような作品を残した。では『シュレーディンガーの猫を追って』でフォレストは、どのような作品を書きあらわしたのか。小川国夫と重なったことで、ますます私には興味深い作品になってきた。

(第8回に続く)

 

参考文献

小川国夫『随筆集 夕波帖』幻戯書房、2006年12月、2008年4月第2刷

小川国夫『弱い神』講談社、2010年4月(なお、『ソガイ vol.4 平成文学』にて、これを「新潮社」と誤植していることにいま気がついた。この場を借りて訂正する。)

 

(宵野)