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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第11回

 

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 第11回

 

 先日、友人のお宅にお邪魔した。その友人は2匹の猫を飼っていて、そのうちの1匹が黒猫だった。

 人懐っこいキジトラの子と比べるとなかなかこちらに顔を出してこない黒猫の子に近寄る。すると、すすっとからだをよじって、ベッドの下に入り込んでしまった。追ってのぞき込むと、暗闇に溶け込んで姿が見えなかった。それでもじっと見つめていると、耳っぽい線がぼんやりと浮かんで、奥にはこちらを見る瞳の光が灯った。けれども、体勢を変えようと少しからだを動かすと、ようやく捉えたその影は、また闇に消えてしまった。

 猫には「昼間は飼い猫。夜は野良猫」という二重生活を送るものがいる、と指摘したうえで、フォレストは、自分が庭で見た猫について、このように考察する。

 わたしが庭で見た猫は、そんな猫たちの一匹だ。家に居つくようになるまでは、大勢のなかの一匹だったのだ。もっとも猫は、それまでの習慣を捨てたりしなかった。家からいくらか離れたところで出くわすこともある。というか、自分ではあの猫だと思う一匹を見かけながら、わたしには確信がもてない。どの猫も似ていて、暗闇では色の区別がつかない。猫たちが逃げてゆく距離では、シルエットさえはっきりとは見えないのだ。


 他の猫であっても、不思議ではない。 (73頁)

  なるほど。だとすると、私の体験について、こんな想像をすることもできるだろう。

 つまり、友人は猫を2匹飼っているつもりだが、実は、昼には別の場所で生活し、夜にだけそっと友人宅に入り込んでいるもう1匹の猫がいる。私たちの前には、黒猫ちゃんと交互に顔をのぞかせるからなかなか気づけない。だから、私が暗闇のなかで見たと思った猫のシルエットは、あの黒猫ではないもう1匹の子のシルエットだった。

 確かに、私は黒猫がベッドの下に入るところは見た。けれども、もともとそこに猫がいなかったとは確認していない。また、黒猫についても、ベッドの下に潜り込んだときに一度、私の視界から消えた。連続した時間追うことはできていない。

 こんな想像は、ちょっと面白い。いや、もちろんこれは冗談半分の想像だ。けれど、私の想像を補強する訳ではないけれども、飼い猫が、飼い主の知らないところで結構気ままな行動をしていることを発見した研究は、現実にある。

『密着! 猫の一週間』という番組で、その概要を知ることができる*1。これは、イギリスの、猫を飼っている家が多いとある村を対象に、猫に発信器やビデオカメラを取り付けて、その行動を探る実験のドキュメンタリーだ。

 猫は、お互いの行動がかぶらないように、見張りのルートや外出の時間帯をずらしていて、また万が一かち合ってしまった場合は、お互いにうなり声を上げて威嚇はするけれど、後退るようにして、本当の喧嘩には発展しないようにしている、というなかなか興味深い結果も見られるのだが、その中には、ほかのお宅にこっそりお邪魔して、ご飯をいただいている猫もいたのだ。それも、どちらの家の家族も気づかぬうちに。ときに、猫にとっては、他人のお宅もテリトリーに入るのだ。やっぱり境界を越えるものなのだ。

 だから、私の詮無い想像についても、その可能性がゼロとは、言えない。私たちが絶対だと思っている境界も、猫にとってはないようなものなのだから。もっとも、猫には猫で、行動範囲を規定するラインを持ってはいるのだが。

 

 作品に戻る。噂によると、「わたし」が暮らす、というよりは滞在する家のかつての持ち主の男は、ある日前触れもなく溺死したそうだ。死が漂う家。その男が死へと向かう光景を想像しながら、「わたし」はこう述べる。

ひとはいつでも、生きる理由と同じ数だけ、死ぬ理由を胸に抱いている。そして、一方が他方よりも優れている——とか、劣っている——などということはけっしてない。(76頁) 

  この言葉が、私には強く印象に残る。これは、けっして後ろ向きな言葉ではない、と私は思う。小さい頃から、私は死が怖かった。とにかく怖かった。こんなにも身近なのに、得体の知れない無の世界。私だけではない。いまここに生きている人、生きものは、みないつかは死ぬ。その事実が、小さい頃の私には受け入れられなかった。いや、いまだってちゃんとは受け入れられていない。でも、それを怖がり続けていても仕方ない。いつかは死ぬのだ。死の忌避は、生への固執を導く。しかし、生の行きつく先は必ず死なのだ。死から逃れるために生にしがみついたはずなのに、それは死の裏返しでしかない、という不合理。ぎゅっと抱きついた腕の先、自分からは見えない手のひらが触れるのは生ではなく、死なのだ。

 だから、生と死を等価なものとして見ることこそが、本当に死を受け入れ、そして落ち着いて生を送る方法なのかもしれない。そう思うのだ。

 生と同時に死に身を置く。それは、死者とともにある、ということを意味する。もちろん、これは幽霊の存在を肯定するのとは違う。

 幽霊をほんとうに信じているわけではないが、自分は死人の家に住んでいるという説明のつかない感情をつねに抱いてきた。そもそも考えてみれば、少しでも古い家に住めば、結局は死者たちの家で生活することになる。あらゆる種類の亡霊の手を経てきた住まいに暮らす、何番目かもわからない、束の間の住人であり、彼らのもとに遅かれ早かれ合流するのだ。 (77頁)

  この借りぐらしの意識が、「わたし」に所有の否定をさせるのだろう。「自分たちがどこかに住んでいるという感情を抱かなくなって久しい」という言葉を彼に言わせるのも、この意識だろう。

 しかし、「わたし」は現実、自殺しないで生きている。その理由は?

 しばしばひとは、行動の理由に大きな理由を求める。あるいは、確固たる意志を見ようとする、と言ってもよいだろうか。

 いつだったか、番組で採りあげられる有名人やスポーツ選手にドラマがあるのは当然だ、といった話をしたことがある。同様の番組を思い起こしてもらえればよい。彼/彼女らは、再現ドラマのなかで大きな決意で決断を下し、行動する。とくに考えなしに生きている自分などは、ときに恥ずかしくもなる。でも、考えてみれば、もしそれが些細な理由だとしたら劇的なドラマにならないから、物語の筋には採用されない。ひとは、そんな軽い理由を求めていないのだ。決意であって欲しいのだ。なんとなくは許されない。

 これは自殺を報じるときも同様だ。ワイドショーは、ある人物の自殺の動機やメッセージを、あの手この手を使って考察する。ふらっと死んでしまった。そんな可能性は一切考慮されない。

 男女関係、金銭トラブル、病気、事務所トラブル、介護疲れ……もちろん、要因のひとつだろう。しかし、一瞬前までは、まったく死ぬ気などなかったかもしれないではないか。たまたまそのとき窓が開いていて、通過電車が入ってきて、吸い込まれるように死に向かってしまったひと、そういうひとだって、実際にいるらしいのに。

 周りが求めてくる理由など、当の本人にとっては関係のない話である。

もっとも取るに足らない理由によって、ひとは自殺へと追いやられることもある。しかし反対に、もっとも些細な理由が命を救いもする。 (79頁)

  では、「わたし」の場合は?

 わたしのもとに命ある何かがやってきた。わたしにはそれが、命を絶たない十分な理由のように思えた。(同) 

  庭にやってきた猫の存在が、彼のにとっての死なない理由なのだ。

 だから、ここまで続く猫を巡る随想とは、まさに彼の「生きる」という営みなのだ。

 ひとは、庭にやってきた猫によって生きることができる。私にはそれが、とんでもない救いであり、尊い奇跡であるように思え、感動すら覚える。

 

 私もまだ、生きていけそうだ。

 

(第12回に続く)

 

(宵野)

*1:2019/08/16現在、Amazon Prime Videoでも観ることができる