ソガイ

批評と創作を行う永久機関

これからの余生に向けて

 先日、無事に修士論文を提出し、口述試験も終えておそらく修士課程を3月で修了することになる。

 この2年、本当にあっという間だった。学部時代の4年間も短く感じたが、それと比べてもずっと時間の進みが早かった。来年度の新入生ガイダンスの話を教授がしているとき、まさに自分がその立場だったときのことが、昨日のことのように思い出されてしみじみとしたものだ。

 何度か話しているが、大学に入ってからの私の生活は、けっして易しいものではなかった。不安障害のために一時期は大学に向かうのが精一杯で、就職活動もうまくいかず、皆が普通にやっていることがまったくできない自分に失望したこともあった。もっとも、ではいまの自分に期待をしているかといえばそれも首を傾げざるを得ないのだが、ただ、そのことに対してはどこかポジティブに考えられるようになっている。

 私は身近なひとにしばしば、「自分の人生、12歳以降は余生だ」と言ってきた。特に酔っているときに口にするのだが、これは結構本気で思っている。あるいは、そのように思うことで自分を慰めている節もある。中学校に入って古文の授業で「死に後れる」という言葉を知った。死ぬ機会を逸して生き続けること、あるいは大切なひとに先立たれて自分だけ生き残ることを意味する言葉だ。ここには浄土教の思想、つまり極楽浄土に往くことを説く思想が背景にあるのではないかと思うが、それを抜きにしても、当時の私はこの言葉に、なるほど、「死」というものをそのように捉えることができるのか、と惹かれた。いや、べつにいま生きていることが嫌なわけではない。それでも、私にはこの言葉が前向きなものに思えたのだ。だって、「死に後れた」と思うこと、それは生きていてはじめて可能となるのだから。

 私に「社会」というものを語る資格は一切ないと思うのだが、この社会は「前向き」で「積極的」であることを善とする風潮があるように思う。それは就職活動において「おとなしさ」は「暗さ」を意味することにも見られる。巷にあふれる就活指南本を開いてみれば分かる。とにかく行動的であることが求められる。いまや大学1年生の時点でインターンに参加する学生も少なくないと聞く。行動して成果を生み出すこと。そして世界に飛び出すこと。そんな「動け!動け!生きろ!生きろ!」という声が滲み出るエネルギーがますます求められる。正直、私にはちょっと暑苦しい。

 とはいえ、それが一概に悪いとは言えない。それで成果を出しているひとも確かにいるからだ。もっとも、そこに起因する競争意識が種々の対立や闘争を生んでいるような気がするのだが、だからといって、いまの私は世界を変えようとするだけの気概を持ち合わせているとも言えない。だから、私は自分が歩んできた道をそのまま歩もうとする若者がいたら、おそらく諭そうとするだろう。卑近なところで言えば、この国の終身雇用制度はやがて崩壊し、それに伴ってひとびとの価値観も変わってくる。新卒至上主義も廃れていくだろう。とはいえ、だったら数年後にまったくひっくり返っているかといえば、それもないだろう。はっきりいって、新卒で正社員になってしまうのがとりあえずは安パイだ(もちろん、いまの世のなか正社員であることが生涯の安泰を保証するわけではないが)。正直、私のような経歴を歩むことはおすすめしない。これも少し前にどこかで書いたが、私はいまだ、「普通」の人間になり損ねた落伍者の意識を持っている。言ってしまえば、自分のことを落ちこぼれだと思っている。そして、たぶんそれは一生消えないだろう。どころか、周りのひとが順調に人生のステップを上るのを見て、ますます強まるかもしれない。もし現時点での記憶を持ったまま学部生に戻ったとすれば、間違いなく、私は就職活動を一生懸命頑張るだろう。今世ではまったくいかなかったインターンなんかに参加し、OB・OG訪問なんかもするだろう。

 しかし、それでもこの院に行ったことは、間違いなく自分の財産になった。この選択が正しかったかどうかは分からない。でも、絶対に間違いではなかった。多くのひと、多くの書に出会った。ここでなければ得られなかった、かけがえのない財産だ。生きていて良かった。いや、厳密に言えばこうなるだろう。死なないであってよかった。

 牽強付会かもしれない。しかし、偶然いま読んでいる『生まれてきたことが苦しいあなたに——最強のペシミスト・シオランの思想』(大谷崇、星海社新書、2019年12月)で、こんな文章に出会った。

 〔註・自殺という観念の〕利点のふたつめは、いつでも自殺できると考えることで、残りの人生が一種の余生となることだ。自由な逃げ道があることで、安心できる可能性、生き続けられる可能性が生まれてくる。いわばそれ以降の人生は、もう破綻してしまった人生の、ささやかな延長戦となる。いつでも逃げられるのならば、もう少し続けてもいいのではないか。逆に、そのような余生になったからこそ、はじめて見えてくるものもあるだろう。いやになったらやめてしまえばいいのだ。(108頁)

 もちろん、シオランが言うような「自殺の観念」を私が持っているかといえば、少し違う気がする。しかし、ここで語られる「余生」感は、ストンと胸に落ちた。そして、納得した。ああ、そうか。私は自分の人生を余生だと思っていたからこそ、あの苦しい時期もなんとかやり過ごすことができたのかもしれない。

 さて、シオランは「働くな」と言っているが、私は4月からいちおう、本格的に働き始める。それも今のところは正社員ではないから、不安定であることに変わりはない。

 それでも、生きていれば案外いいこともあると、この2年間で学んだ。この世で生きていることも、悪いものではない。

 もうちょっとこの余生を続けてみよう。素直にそう思えるようになったことが、この2年での、私の一番の成長なのかもしれない。

 

 

(宵野)