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日を待つ——森内俊雄『一日の光 あるいは小石の影』

 東京堂書店の新刊棚、しかも平積みされているこの本に自分の目を疑った。森内俊雄『一日の光 あるいは小石の影』(アーツアンドクラフツ、2019年12月)。森内俊雄、三十余年にわたるエッセイ集成だ。

 ここ1年、森内俊雄の近著『道の向こうの道』に感銘を受けて、ことあるごとにこの作品、そしてこの作家のことを話してきた。

 

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文学系の大学院に行っていることもあって、周りには本を読む人がもちろん数多くいる。しかし、現在もときどき文芸誌で名前を見ることができるにも関わらず、少なくとも同世代で彼の名を知っているひとはほとんどいない。私だって、ひとに紹介してもらうことがなければ、永遠に出会うことのない作家だった可能性が高かっただろう。

 森内俊雄は1936年生まれで、現在(2020年2月)83歳ということになろう。ひとつ上に大江健三郎(1935年生まれ)、下に古井由吉(1937年生まれ)がいるが、息の長さで言えばこの大作家ふたりにも匹敵する(未だコンスタントに連載を持つ古井はちょっと別格な気もするが)。とはいえ、やはり知名度では大きな差がある(芥川賞の候補には何度か挙がっているが、受賞には至っていない)。すでに発刊から1年強経った『道の向こうの道』を書店の棚に見つけることは、なかなか困難なことだった。

 だから、偶然に森内俊雄の新刊に書店で出会うこと、これはもはや事件なのである。しかも平積み。かつては分からないが、少なくとも私は森内俊雄の本が平積みされているのを見たことがない。もっとも、これは東京堂書店というちょっと独特な選書をしている書店だからこそであろう。思えば、私は『道の向こうの道』もこの書店で購入したのだった。

 全488頁。ひとつひとつの文章は短いものが多いけれど、こつこつ書き続けているとこれだけの量に達する。まさにその結晶だ。著者自身「あとがき」で、「続けられた歳月に祝福がある」(482頁)と述懐している。そして、こんなことを言えるのも「八十三年、生存してきたから」(同)である、と。

 

 このエッセイ集は、森内俊雄の博識、というよりは広い意味での乱読さをまざまざと見せつけられ、そして宗教観、死生観、読書観など、どこを掘っても大きな一本の水脈につながる支流を見ることができる。また、けっこう時代の変化に柔軟で、電子書籍を愛用しながら、一方で紙の書籍にも親しむ軽やかさや広さがある。そのためだろうか、そこで語られる宗教観や死生観などに、説教くささはない。最近、尊大さが滲み出ている一部のインフルエンサーや著名な書き手の言動に辟易していた私に、救いと癒しをもたらしてくれた。難しいことはなにひとつない。彼が座右の書とする聖書や八木重吉の詩集と同じように、好きなとき、好きなところを開くといい。その度、ひとつの指針を授けられることだろう。

 さて、個人的にこのエッセイ集を通読していて驚いたことがある。それは、なんと森内俊雄は『道の向こうの道』の続篇を準備している、という事実である。

 驚愕した。大学入学から卒業して就職浪人になるまでを回想した『道の向こうの道』に、そもそも4年ほどかかっている。今度は「カトリック信徒になるまでの紆余曲折」を書くつもりとのことだ。そして、私が知る限り、まだ続篇の第一篇は発表されていない。仮に、近く第一篇を発表し、同じだけの期間を要するとなると、完成は2023年とかになる。単純計算、そのとき彼は87歳だ。エッセイによると若いときから絶えず、なんらかの病気に悩まされている著者である。

 不安だ。焦燥感にも駆られる。是非とも私はこの続篇を読みたい。そんな欲が、心を急かす。

 しかし、だからこそ森内俊雄の言葉を反芻する。それは「待っている」と題された文章の冒頭だ。

 わたしたちの一生、生涯は「待つ」ことで終始し、まっとうされる、と言ってもよいだろう。いつも何かを待って、暮らしている。それぞれの一日を考えて見ても、日は待たれることではじまり、来たる日を待つことで終わる。いったい待つことでない時間が、一日のうちであるものだろうか。

 喜怒哀楽さまざまにしても、とにかく、わたしたちは待つことで生きている。待つことを放棄して、いかなる日々があるだろうか。(350頁)

  待つことは、つい受動的なものと考えられがちだ。時代は、とにかく動くことを要求する。動き、動き、動き続けることが称揚されている。もちろん、動くことは大事だ。しかし、本来それは見た目には動かない、つまり待つということの価値をおとしめるものではないはずだ。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、突きつめると最後は待つことに至るのであり、そして、しっかり待つことは、思いのほか骨の折れることである。

 待つことの大切さは、ものを書くことについても言えるだろう。精神論みたいに聞こえてしまうかもしれないが、書くべきことが天から降ってくる、そんな瞬間がまれに訪れる。それを待ち続ける辛抱強さが必要だ。もちろん、それはただ漫然と待っていればいいわけではない。いろいろなものを読み、観て、感じる、頭の片隅に己のテーマを抱えながら。そして、その瞬間を逃さない。不思議なもので、これはその一時期にしか書けない、なんてことが起きる。それも、前触れもなく降ってくる。それを摑むためには、努力もそうだが同じだけ運も必要だ。

 このように、待つことに人生の本分を見ている森内俊雄だからこそ、ひっそりとでも50年、文章を書き続けることができたのだろう。だから、私も待とう。「あとがき」にあるこの言葉を信じながら。

 いま、机の上には2Bの鉛筆が、新品のまま二函ある。はるかな昔、「早稲田文学」の編集会議に出席すると、三浦哲郎氏がおいでになった。会議のあとで、鉛筆書きがいかに具合よいか、という話になった。その三日後に、プレゼントが届いた。わたしは感激してお礼状を書き、それでも足りない、と思ってショパンのノクターン全曲、ピリス盤をお贈りした。

 鉛筆が風化変質することはない。これから先は、おそれおおいが、三浦哲郎氏からの鉛筆で書きたい。二十四本もあれば、ずいぶん書ける。この一冊は、おおよそ七百三十枚である。これから、もう一度、やっていけるのではあるまいか。(483頁)

 

(宵野)