ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ 2

 3/3

 近頃多発している、私側にはまったく落ち度もなく、そして避けようのない小さなトラブルに心を砕いていたせいか、とにかく精神状態が悪かった。最近でこそ、あまり気にせずに過ごすことができているが、私は一時期、とりわけ学部生時代には、ときに電車に乗ることが困難だった。

 外に出る予定があった。外出時間ぎりぎりまで、心が落ち着くのを待ってみたが、甲斐はなかった。仕方ない、と心療内科で処方されている薬を一錠、白湯で飲み込んで外に出た。この薬は、だいたい三十分ほどで効果があらわれるらしい。劇的にその効果を感じたことはないのだが、とくに意識せずに済んでいる、ということは効果があるということなのだろう。

 昼過ぎ、帰宅のために電車に乗る。平日の昼であるためか、はたまた流行病のためか、車内にひとは少ない。端の座席に腰を降ろす。再読している松山巖『うわさの遠近法』を開いて数頁、千里眼事件の経緯などを興味深く読んだが、からだを揺らす単調なリズムにつられるように、頭が、こくり、こくりと揺れ始める。あの薬には、眠気を誘う副作用がある。しおりを挟んで、目をつむった。

 目を覚ますと、住吉駅を発車するところだった。なぜここに自分がいるのかが分からなかった。そもそも、自分がどちら側を目指しているのかすら分からなかった。意識が覚醒するには、錦糸町駅に到着するまで待たなければならなかった。

 まさしく、(おそらく)大手町駅から住吉駅までの時間がぽっかり抜けたような感覚に陥った。あまりにも深い眠り。少し恐怖を覚えた。前後の繫がりを断ち切られると、存在が揺らぐ。そんな当たり前のことを、改めて痛感した。

 慌てて口の端を拭う。公衆の面前で涎を流すことは、かろうじて避けられたようだった。

 

 3/5

 5月の文学フリマ東京が開催されるのか、やや怪しくなってきたような気がしないでもない今日この頃。とはいえ、冊子自体はちゃんと造る気でいる。

 しかし、ここ数日、急に不安になってきた。果たしてできあがるのだろうか、と。

 もっとも、この種の不安はいつだって抱えている。完全な自信の下に製作を進められたことなど、一度としてありはしない。こんなものを造ってしまって、大丈夫だろうか。こういった後ろめたさが、常につきまとう。たぶん、本づくりとはそういうものだ。

 これは文章についてもいえる。読み直せば読み直すほど、粗ばかりの拙い文章に思えてきてしまう。いや、実際に粗は多くて拙いのだろうけど、もう最初から書き直したくなってしまうこともしばしばだ。今回は、ちょっとその度合いが大きい。我ながら、ちょっと分不相応の目標を立ててしまったのではないか。これが自分ひとりにかえってくるだけならまだしも、自分がへまをしてしまった場合、寄稿者にも迷惑がかかる。そんなプレッシャーもあるのだろうか。

 いまはとにかく、全力を尽くすしかない。原稿到着まであと少し。ひとりの読者としてみんなの文章を楽しみにしながら、待つことにしよう。

 

 3/6

 たまにこういうときがあるのだが、本を読むことにつかれた。読書は趣味ではあるものの、趣味だってずっと続けられるものではない。好きな食べ物でも、毎日三食食べていれば飽きてしまうのといっしょだ。

 こういうとき、どうすればいいのだろう。ひとつは、まったく性格の違うことをやってみる。たとえば、からだを動かすことなんてどうだろう。有酸素運動になるようなことなら、からだにもよい。ジョギングなんかよい。が、都会には安心して走れるところが多くない。二駅さきの大きい公園には、ランニングコースがある。そこまでいくのも良いが、だったら荷物はどこに置こう。いい案だと思ったが、とりあえず保留。しかし四月からは週五で働くのだから、むしろ今のうちに運動を習慣にしておいた方がよいとも思う。

 もうひとつは、字ではない、たとえば映像作品を観るのもよいかもしれない。じつは私、映画に疎い。それがちょっと負い目で、コンプレックスでもある。でも、世の中には名作と言われている映画があまりにも多すぎる。もちろんこれは小説などについても言えることなのだけれど。思うのだが、選択肢が多いというのも考え物だ。いわゆる狭義の「自由」というものは、必ずしもひとを幸せにはしない。適度な制限が、ときには必要なのだ。

 これは、いま私が考えている本づくりにも言えることだと思っている。いまは技術、というよりテクノロジーの発達により、私たちは案外、どんなことでも試せるようになった。フォントひとつ取ってもそうだし、造本、組版もそうだ。そして、周りを見てみると、かなり独特な造りをした本というものが少なくない。もちろんおもしろいと思うのだが、自分ではそういったものを造ろうとは思わない。

 とりあえずしばらくは、私はこの方向でやっていきたい。

 

(矢馬)