第12回
だいぶ時間が空いてしまった。この間にはいろいろあって、他の文章を読んで論文を書いたり、それとは関係のない文章を書いたり、そもそも雑事に追われて、あまり本を読めない時期があったりもした。世の中でも様々な出来事が起きて、ますます世間というものに嫌気がさしていった。また新たに書き始めるまえに、これまで書いてきたこの読書ノートを読みかえしてみた。今思えば、まだ当時の私は明るい希望を持っていたようだ。果たしていま、同じような筆致で文章を書くことができるのだろうか。不安だ。
だから、まだ分からないけれど、これからの読書ノートは以前にも増して、脇道に逸れることが多くなるかもしれない。というよりも、作品の方がサブテキストとなってしまう可能性すら危惧している。これは本末転倒だ。しかし、ここは開き直って、とにかく筆の任せるまま書いてみようと考えている。
さて、第二部へと入っていく。第九章「オッカムの剃刀で」。
オッカムの剃刀とは、本文中でも説明されているが、問題解決のために、無駄な仮説を可能な限り排除して考えていく思考法のこと。単純化、というと聞こえが悪いが、まあ有効性は理解できる。たとえば私がさっきまで挑戦していたナンプレも、盤面を一度に考えてようとすると難しいが、与えられているヒントの数字から、まず特定できるものを見きわめることによって、自ずと他のマスも埋まっていく。この比喩が合っているのかは分からないが、問題解決に必ずしも必須ではない仮定は、そぎ落としておかないと否が応でも視界に入ってきて、余計に思考を混乱させるといったことは、多くの人に覚えがあるだろう。
しかし、だとすればこの『シュレーディンガーの猫を追って』という随想は、自らどんどん新たな仮定や情報なども盛り込んでいって、剃刀で肉をそぎ落とすのとは逆の方向に進んでいるように思われる。第九章まで進んで、しかも部も改められて、それでも語られるのはいまだに「シュレーディンガーの猫」を巡る出来事の周辺を、ぐるぐるぐるぐる回っている。
この点については、書き手も理解している。というより、ここまで「シュレーディンガーの猫」を追ってきて、むしろ混乱してきているように感じられる。それでも、あるいはそんな自分を鼓舞するかのように、エクスクラメーションマークを付して、強く主張する。
こうした状況下では、当時のコペンハーゲン学派がそうだったように、何であれイメージを作り出すという考えを諦め、不可能なイメージの代わりに予測の有効性があれば十分なモデルで我慢するのがもっとも理性的だ。そのうえで、それが現実のどんな描写に対応するかという問いは一切立てない。だがそれでは、元も子もない! そんなことをすれば、世界について真実を語ろうという漠然とした意志を完全に放棄することになるからだ。そして、世界が現れるときの仮象としての諸現象を予測するだけで満足してしまうことになる。(85頁)
(……)オッカムの剃刀の原則によれば、与えられた問題に対しては、もっとも単純な解決こそがつねにもっとも正しいのだ。楽観主義ないしは実用主義のおめでたい証しとしか言いようがない——なぜといって、世界が必然的に単純だと示すものなど何ひとつなく、むしろ正反対だと思わせることだらけなのだから!(88頁)
ここは、まさしく語り手の強い意志を感じる。なにを今更、と言われるかもしれないが、やはりこの、一見学術的な語り口で「シュレーディンガーの猫」を追っている語り手が、けっして透明な語り手ではないことが、改めてわかる。というより、透明な語り手などというものが果たして存在するのだろうか。客観性が求められる学術論文であっても、そこに広義の作家性なるものがあるように、ここ数年の私は感じていた。人間は、まったく合理的な存在ではあり得ない。経済学において、「経済人」という概念がある。これは、経済的合理性に基づいて、自らの利益を最大化するように個人主義的に行動する人間モデルのことだ。もちろん、経済現象を分析するときに、まずこのようなモデルを立てて、それを前提とするところから始める必要があることは分かる。しかし、実際には人間、そんなに合理的な行動は取らない。変数があまりにも多い。この変数の多さは、なにも経済学に限らない。文学研究だって同じだ。だから、同じ研究対象、同じ参考資料を持ちながら、ひとや時によってまったく違う結論の研究が生まれたとしても、不思議ではない。
さて、これだけ行ったり来たりを繰り返すなかで、やはりここに戻ってくる。
箱のなかの猫に話を戻せば、猫は、生きていて、かつ〔2文字傍点〕、死んでいると考えねばならない。それは、猫がある世界では死んでいて、かつ〔2文字傍点〕、べつな世界では生きているということだ。(90頁)
この随想が、およそ合理性とはほど遠いところにあることは、言わずもがなだろう。そもそも、オッカムの剃刀は、問題の解決のために有効な手立てとして提示されている。では、もし問題の解決ではなく、思考そのものが目的だとしたら……?
ともかく、しかしこの随想はただ同じところを回っているだけではない。少しずつではあるが、変化が生じている。ここまで平行世界についての連想がいくつかあったけれど、ここではそれが、やや進展を見せている。
「あえて言うならば」と前置きして、「世界は見る見るうちに増殖してゆく一方で、そうして作られたいくつもの世界はたがいに排除し合う」と言い、そして「だから、世界はたがいに平行であると言うよりも、直角に交差していると言ったほうがより正確なのだ」と、言うなれば「直交世界」論が立ち上がっている。
つねに、至るところで、現実世界は同時にあらゆる方向へと分枝する。あらゆる可能性は、同時に実現されている。仮想と現実のあいだにはもはや区別がない。すべてはどこかにおいて正しい。そして、至るところでまちがっている。すべては純然たる確率に委ねられている。(91頁)
どうだろう、これはたとえば、ツリーダイヤグラムのようなものを想定すればよいのだろうか? しかし、なるほど。たしかにこの考え方のほうが字面的に、娘が生きている可能性の世界に思いを馳せるこの作品の詩想に、よりフィットするではないか。こんな喩えは良いのかどうか分からないが、RPGゲーム、いや選択肢を選んで話を進める形式のシミュレーションゲームの達成率を100パーセントにすることが途方もない作業であるように、この可能性すべてを見ていくと、その線、あるいは網は、それこそ地平線の彼方まで、無限に広がっている。これを語り手は、「無限宇宙よりもさらに果てしない一種の「メタ宇宙」」と名付けてみる。
そして言う。「シュレーディンガーの猫」は、まさに「その最初の開拓者にふさわしい」と。古の時代から、とりわけ近代からは明確に宇宙というものを、人間は目指している。技術の粋を、そして莫大な資金を結集させて、危険を顧みず、時には犠牲を払いながら、上へ上へ、人びとは宇宙を目指してきた。しかし、なんということだろう。足もとを見れば、その中身が見えない箱のなかには、上空の宇宙よりもずっと広大な宇宙があったというのか。
(第13回に続く)