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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第14回

 

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 ようやく100頁を越えた。ところが、問題はすぐに訪れた。この次の「11 猫たちの日々」と「12 シュレーディンガーと呼んでいただきたい」、正直、ちょっと書くことが思いつかない。それでも何かしらは書かなくてはならない。自信はないが、頑張ってみよう。

 前回、「物語」についての考察が挟まれ、私としてはむしろここが肝なのではないか、と密かに思っていたのだが、今回も、猫と物語が結びつけて論じられている。

猫というものは、どこからかやってくるのではなく、戻ってくるものなのだ。(103頁)

  これはおもしろい発想だ。そして、ここで思い出されるのが、いつだったか言っていた、「猫は現れる姿を見せる前に、立ち去る姿を見せる」という原理だ。このふたつの現象は矛盾しない。つまり、私たちが猫を知覚したとき、それは初めて現れたものではないということを別の見方で表現したに過ぎない。もともとそこにある、あるいはあったものを捉え直す。

 これは、物語を語ることと同じだ。

 実際、物語がいつ始まるのかがわかったためしはない。誰もが、しかたなく、最後に語られた話を受けて物語を始める。(106頁)

  物語、というと少し大袈裟になってしまうかもしれないが、もっと日常に即して考えても、これは同じ事が言える。

 たとえば中学校の入学式。真新しい制服に身を包んだ帰り道、春風がさっと吹く。校舎の脇に生えた桜が揺れ、散った花びらが吹きつける。その1枚が、ひらひらと舞ってブレザーの胸ポケットに入った。

 これはちょっとしたエピソードではあるが、花びらがポケットに入ったからこそひとつのエピソードとなったのである。その出来事がなければ、真新しい制服で道を歩いていたことは、とくに物語の要素にはならなかったはずだ。ちなみに、これは私の身におきた実話だ。

 私はいまこの話を、帰り道のところから語った。しかし、これを入学式に向かう道のりから始めることもできるだろうし、桜が開花したニュースにまで遡ることもできるだろう。もっと言ってしまえば、小学校の卒業式にまで遡って、語り直すこともできるかもしれない。(小学校の卒業式と言えば、私の学校ではひとりひとりが壇上に上がって校長先生から卒業証書をもらうのだが、私の番、壇上で名前を呼ばれるのを待って気をつけをしていたときに、どうやら地震があったらしく、呼ばれるまでにちょっと間があったことが思い出される。もっとも、私はその揺れにまったく気づいていなかった。)

 だいぶ余計な話をしてしまったが、物語の始まりは特定できない。つまり、とりあえず語られた物語にも、その前にはさらに別の物語があった、ということである。なにを言いたかったのかわからなくなってきたが、ともかく、この『シュレーディンガーの猫を追って』が、猫を通して亡き娘について随想しているのと同時に、一種の物語論になっていることがわかる。

 

 で、項が改まり、いきなり自分のことを「名前が必要なら、シュレーディンガーと呼んでいただきたい」と言い始め、突然、シュレーディンガーとして語り始める。ここで、たとえば「フェリックス・シルヴェストル」とかだったら「普段わたしにあてがわれている名前にけっこう似てもいる」と言っているから、やはり語り手に「フィリップ・フォレスト」の存在を感じる。

 ここはかなり異質な箇所で、「シュレーディンガー」と名付けられた「わたし」が「自分」のこと、すなわち実在の「エルヴィン・シュレーディンガー」のことを調べ、自分のこととして語っていく、というスタイルをとっている。挙げ句、ある女性との不倫関係、つまり「二重生活」が「重ね合わせの原理」の着想に繫がった、などというトンデモ仮説を語り出すのだから、それは科学者たちに「諸々のお詫び」をする必要がたしかにあった、というものだろう。

 

 (第15回に続く)