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習作としての読書ノート『シュレーディンガーの猫を追って』第15回

 

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第15回

 

 当初の予定では、そろそろ終わっていてもおかしくはなかったのだ。それなのに、まだ半分もいっていない。もちろん、これは私の怠惰というほかないのだが、ペースが落ちていること、そしてモチベーションがいまいち上がらないことには、多少の理由もある。

 まず、これは前回にも書いたような気がするが、だんだんと書くことがなくなってきている。なかなか話が進まない作品ではあるのだろうな、と思っていたが、予想以上だった。ようやく、家にやってくる猫を自分の家の猫にすることになったくらいで、当然、大きな出来事があるわけではない。最初のころはそれでも、私の手持ちの知識や経験から話を広げる、もとい迂回することがかろうじてできてはいたが、さすがに弾切れだ。あと、これはちょっと前まで知らなかったのだが、私と同じようなこと(と言っては烏滸がましいが)をプルースト『失われた時を求めて』で実践している方がいるらしい。柿内正午『プルーストを読む生活』(零貨店アカミミ)である。未読であるため(というより怖くて読めない)、紹介文等のみからの情報だが、私などよりも読書量や知識量があり、かつしっかり継続しているこの本の存在に打ちのめされた感は否めない。

 加えて、いまはほとんど外に出ておらず、からだを動かせていない。加えて、地元の図書館は閉館しており、本屋も、かろうじて近所のスーパーに入っているチェーン店は再開したが、正直、ここの本屋は私を刺激する棚ではない。部数の多い新刊を散歩がてら、あるいは帰宅途中に寄って買うことはあるが、予定外の買い物をさせられた、という経験はほとんどない。批判する気はないが、私にとっての重要度としては落ちる。

 一方、並ぶ背表紙を見ているだけで刺激を受ける書店はいまだに臨時休業。この本屋に行くことは、学生時代とくらべると少なくなってはいたが、どんなに間隔が空いても、ひと月空くことはなかった。多いときには週3日くらい行っていた。

 それが、もうそろそろふた月になろうとしている。同じく背表紙を見ているだけでも良い図書館も閉館しており、おそらく、いま私は反射神経が鈍っている。私は、積ん読することこそが良い、とは必ずしも思わない。読めるなら読んだ方がいいのではないか、と思っている。が、すべての本を読むことができないのは事実だ。そして、ときには背表紙を眺めるだけ、目次を見るだけ、立ち読みでぱらぱらめくるだけ、読むか分からないけどとりあえず買うだけ、といった「だけ」が大きな意味を持つことがあるということも知っている。

 そのような刺激を受ける棚は、ジャンル、時代、雑多である方が良い。売れ筋ばかりが置かれている棚を見ていると、不思議なことに、そのほとんどを読んでいないはずなのに、ああもう知ってるな、と感じることが多々ある。そしてこれは、ネットでも満たせない。これはのちのち考えたいことだが、これは紙の本と電子書籍との違いでもあるだろう。適当に漁るのには、紙の方が向いている。前々から思っていたが、こういう情勢になって改めてそのことを痛感した。

 本を読むにも、文章を書くにも、からだを動かして外の空気を浴びなければならない。なんだか寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』みたいだ。ちなみに、この本も私は未読である。

 

 そろそろ本題に入る。

 第13章は、ちょっと書くことに困る。要となるのは冒頭近く「わたしには猫の性別に関する持論がある」というところだろう。

要点だけを明かせば、猫は雄でさえ雌なのだ。(126頁)

 この章は案外長いのだが、その多くが、猫は雌である。女は牝猫である。という語り手の持論の証明に費やされている。あとは、猫(彼女)との会話、もっといえばピロートークのようなやりとりだ。この辺りはちょっと読んでいて恥ずかしくなってくるし、「とかく男というものは、女をペットのように考え、装飾性とか家庭的といった美徳を基準に評価を下す。それを認めたうえで弁護しよう。ただし、たいていの場合、自分が牝猫だと思うことに歓びを見出すのは女性自身だ——そして、すでに指摘されているだろうが、たとえばそれが雌犬ということはけっしてない」から始まる議論に関しては、正直、ちょっとついていけなかった。 

 といったわけで、この章に関してはあまり書こうと思うことがなかった。

 しかし、これも以前のように、休みの日には意味もなく外に出て、公園に入ってみたり、食べ歩きをしてみたり、買うつもりもないのに服屋に入ってみたり、そしてなにより本屋に入っていたりすれば違ったのかもしれない。このウイルス禍が、いつ沈静化するのか分からないが、これからの生活を考えていかねばならなくなるだろう。

 フライングして、次の章を読んだ。ここでは思索が広がっていったのが一安心といったところか。

 

(第16回に続く)