ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「時代遅れ」と言って切り捨てていては……

 突然だが、私はどちらかと言えば機械音痴である。いや、けっこう、と言ったほうが正しいかもしれない。たとえば小学生のころ、授業の一環で、各グループに分かれて短い映像を撮ったことがある。そのとき、私はカメラに写らないところでラジカセを使って、BGMを流す役割を担った。が、何度やっても再生と停止のタイミングを間違える。押すボタンが分からなくなるのだ。停止するつもりで巻き戻し、その巻き戻しを止めようと、なぜか開閉ボタンを押す。みなに笑われ、やがて自分でも笑わないではいられなくなりながら、結局いまいちなBGMなまま、撮影を終えた。こんなことなら、自分で演奏するか歌うかした方が早いのではないか、とちょっと本気で思ったものだった。いまでも、新しい機械のボタンを押すのが、ちょっと怖い。

 東京都が、新型コロナウイルス感染者数の統計を誤っていた、というニュースでは、ずいぶんFAXのことが話題になった。私は、Twitterで検索して、人がその話題についてどのようなことを言っているのか、稀に調べてみようと思うことがあるのだが、30〜50個くらい見れば、だいたいみな同じようなことしか言っていないのを確認して、早々に終わらせる。

 FAXなんてものをいまだに使っている東京都や保健所を、時代遅れとあざ笑うものが大半だった。予想通りだった。

 集計のミスについてはとくに擁護するつもりはない。小さくはない(もっとも、アメリカなどと比べるとそれでも誤差のような値であるようにも思えるのだが)数値の隔たりが出てしまったのは事実なのだから、原因の追及、手法の見直し等は必要となるだろう。

 そもそも人手が足りなかったことが大きな要因なのか、ダブルチェックなどの危機管理が甘かったのか、そもそも送られてくるデータのフォーマットがバラバラであり、情報の管理が煩雑だったのか。私がぱっと思いつくのはこれくらいだが、これはこの度のウイルス禍のみならず、役所の業務を考えていくときに反省し、改善していくべきことだ。たとえば、人手不足が根本の問題であったとすれば、それは記憶にも新しい大地震や台風などの自然災害の際にも業務に支障を来す要因ともなろう。すると、役所の労働環境の改善などが求められてくる。

 このような議論が起きるならば、報道の意味もあるというものだろう。もちろん、FAXでの集計に問題があることは当然だ。文字が不鮮明になることもあるし、受け手側の用紙切れで印刷できなくても、送信完了の扱いになってしまう。あと、今回の件では、その使い方には問題があったように思われる。報道を信じるならば、入力したあとでわざわざ手書きしてFAXで送る必要はあったのだろうか。どうしてもメールではいけない理由があったのかもしれないが、それは解決できない原因であったのか。その点については調べ、改善して欲しいと思う。

 が、私がここで違和感を持ったのは、FAXを一考の余地もなく「時代遅れ」の通信手段と見なすひとの、あまりにも多いことだ。当然、そのすべての発現を確認したわけではないのだが、いくつか印象に残っているものだと、私の会社ではPDFをメールに添付ですよ、だとか、東京都にはまともなエンジニアが居ないらしい、だとか、フォームを作らないのか、だとかいったものがあった。まったく間違っている意見だとは思わないが、やはりその根幹として、時代遅れの道具を使っている役所を下に見ている感じがあり、そこには肯けない。なぜ現在もFAXを使っているのか。そこをこそ考えるべきではないか。(また、今回のFAXと判子の問題を並べているひとも多いが、慣例や伝統という性格がかなり色濃い判子問題とこれは、別のものだろう。「慣例」はまだしも、FAXは「伝統」ある通信手段だから、と必要性を訴えるひとはいないと思われる。)

 たとえば、出版関係などはいまだにFAXが用いられる業界でもあるが、それは「慣例だから」という理由のほかに、FAXの方が都合がいい側面がある、という理由もあるのではないか。また、その他の法案に関して抗議のメールやFAXが殺到している、とのニュースもある。要は、FAXはまだ使われている通信手段なのである。

 もっといえば、新しい道具が、必ずしもすべての点において過去の道具に勝るというものでもない。たとえば、洗濯機ができたからといって、手による揉み洗いが一掃されたわけではない。小さい染みだと、手洗いの方が効果的な場合もある。掃除機がいくら進化しても、いまのところ箒や雑巾、モップが駆逐されてはいない。枯れ葉を掃くとき、昔ながらの竹箒がいかに便利であるのか、思い知る。

 同様に、果たして電子メールがあらゆる面においてFAXに勝るのかと言えば、それは疑問だ。たとえば、FAXは基本的に、送り手と受け手で同じ紙面を共有する。ところがデータは、OSやバージョンの違いによって想定できないエラーが起きる可能性がある。文字化けもそうだし、PDFでも、スキャンした画像なら別だが、WordやExcelのデータをPDF化したものだと、場合によっては一部の文字が欠けたりすることがある。つまり、送り手と受け手で違うものを見ている可能性があるのだ。もっといえば、FAXはものとして残るが、データは案外簡単に消えるし、さらにいえば改竄が容易だ。考えてみると、意外にも信頼の置けないものである。また、データには形式が多すぎる。送る側が統一してくれれば良いが、拡張子が、こっちはpdf、こっちはdocx、こっちはxmls、こっちはtxt……なんてなっていたら、面倒で仕方ない。

 また、メールをひとつひとつ開き、添付ファイルを開いて、さらにはダウンロードして、ということを繰り返すのは、けっこう骨が折れそうだ。そして、今回みたいに数を数えるような作業では、デスクトップ上で済ませるよりも、実際に紙を積んでおいた方がむしろやりやすそうだ。PDFを印刷すればいいではないか、という声もあるだろうか。それに対しては、だったらFAXでもいいのでは、と応えられる。OCR機能を使えばいい? 確かに最近のOCRの精度は上がっているが、完全ではない。過信は禁物だ。ましてや、正確な情報が求められる作業なのだから。

 最初からフォーマットを用意しておいて、それに入力して送ってもらえばいいではないか。これに対しては、確かにその通りだと思う。だが、万人がそのフォーマットを使いこなせるかどうかは疑問だ。ハードの問題もそうだし、使う人間側の問題もある。また、皆が皆通信環境を整えていると思い込むのも危険だ。

 やや難癖をつけたようなところもあったと思うが、現場での作業を考えたとき、必ずしも電子データがすべての面において優位だ、とは思えなかった。あと、いちおう校正を仕事にしている身から言わせてもらえば、スクリーン上の文字を追い続けるのはあまりにも眼に厳しい。今回のように体力的にも精神的にも厳しい状況では、すべてのスクリーン上で完結させていてはからだが持たないだろう。もっとも、それを補って有り余るだけの人員が居れば、三時間交代などで作業を回すこともできるかもしれないが。

 そもそも見逃し等のエラーが、紙と比べるとずっと多い。校正の現場では、紙に出力したもので作業をおこなうのがセオリーだ。もちろん、それでも見逃すときは見逃す。人の手が入る限り、ミスは避けられない。だからといって、少なくとも現状はすべてを機械化できるわけでもない。いまの給付金申請の例を見ていればわかるように、電子化をしたら電子化をしたで、べつの問題が生じるのである。そしてそれは、紙による申請では起きようのなかった種の問題だったりする。

 

 新しいものが絶対に優れている、とは思い込まないことが必要ではないか。

 私がこの問題にこだわっているのは、私の関心の的である本についても同様だからだ。電子書籍ができても、紙の本がなくなったわけではない。もちろん、電子書籍にも便利な点はある。紙の本では絶対にできないこともできる。だが、逆に電子書籍ができたことによって、紙の本の利点がより分かってくる。

 一部の紙の本を擁護する言葉に、どうにも感情論やノスタルジーめいたものが目立つことに、私は常々疑問を抱いていた。もちろん、言っていることに賛成しないのではない。紙の匂いだとか、あたたかみだとか、活字の質感だとか(もっとも、それをいったら写植を経てDTP時代のいまの「活字の質感」ってなんだ、と思わないでもない)、言わんとすることは分かる。その感情を否定はしないし、できない。だが、もっと主張すべきことがあるのではないか、と思う。

 電子書籍ではないが、「ネット書店」と「リアル書店」(正直、この呼称は好かない)の議論について柴野京子がこのように述べている。

 ほとんどのインターネット書店に関する議論は、一般書店への批判を含めた利便性の評価、ビジネス上のサクセスストーリー、既得権益が奪われることへのやっかみ、「町の書店」に対するノスタルジー、のいずれかに属する。(柴野京子『書棚と平台』弘文堂、2009年、207頁)

 これとまったく同じことが、「電子書籍」対「紙の本」でも起きているのではないか、と思われる。「紙の本」陣営の言い分は先ほど挙げたから、「電子書籍」のほうに目を向ける。こちらは私の持つ情報が少ないから偏りが生じることは否めないが、とくにビジネスパーソン向けのコンテンツに、紙の本なんて無駄なものを買うのはやめて、電子書籍にすべきだ、という論をしばしば見る。曰く、紙の本はかさばる。持ち歩くのも大変。すぐに開くことができない。一方、電子書籍なら何百冊の本を持ち歩くことができる。書いてみてなんだが、むしろ電子書籍の方が自らの利点を主張できているような気がしてきた。もっとも、この種の主張をするひとたちに傲岸不遜な空気が感じられることがしばしばあるので、承服しかねるところはある。

 ところで、私は少しだけ電子書籍も使っているが、こういったビジネスパーソン向けに発信しているひとが勧める本は、たしかに電子書籍でもいいかな、と思うことがある。電子書籍で読んでいて、私はまったく困らないからだ。反対に、私にとっては電子書籍では困る本もある。たとえば、学術書。電子書籍で読み通す自信はない。ある種の小説もそうだ。非常にストレスを感じることがある。言ってしまえば、不便なのだ。

 そう。紙の本とは機能的に、非常に優れた道具なのだ。最近、私はそのことをいたく痛感している。もちろん、紙の本の機能性に注目している人はいるが、一例としてウンベルト・エーコの発言をひく。

E〔註・エーコ〕:(…)物としての本のバリエーションは、機能の点でも、構造の点でも、五百年前となんら変わっていません。本は、スプーンやハンマー、鋏【ルビ・はさみ】と同じようなものです。一度発明したら、それ以上うまく作りようがない。(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』工藤妙子訳、阪急コミュニケーションズ、2010年、24頁)

  この対談のなかでエーコはしばしば、紙の本を車輪になぞらえて、その「一度発明したら、それ以上うまく作りようがない」ほどの機能面の充実を訴えている。その通りだ。素材が変わった、印刷の手法が変わった、などの変化はあるものの、基本的な機能と構造はほとんど変わっていない。複数枚の紙を綴じた。言ってしまえばそれだけのものであるが、本を「使って」みれば自ずとわかってくることだろう。これほど便利な道具も、そうそうない。書き込みが容易で、付箋もペタペタ貼れる、隅を折ってもよし(ここまでのことは、図書館で借りた本などではやってはならない、念為)、じっくり読むも、ぺらぺらめくるもよし、電気は必要ないし、なにより、参照することが容易だ。何頁の何行目、と指定すれば、その文章の所在地をピンポイントで示すことができる。

 実はこれらのことが、電子書籍だと難しい。私は、元からこのような紙の本の利点を実感していたわけではない。電子書籍を使ってみてこそ、このようなことに気づけたのだ。だから、もちろん紙の本の不便さも分かってきた。分厚い本だと立ちながら読むことは難しいが、これは電子書籍なら解決する。字の大きさを変えられるのは、老眼になってきたひとにはありがたい機能だろう。横断的な検索は、紙の本では難しい。

 このように、電子書籍が生まれたことにより、紙の本の持つ特性がより実感されるようになる。これは、他の道具についても言えることだろう。手帳アプリをちょっとだけ使ってみたことがあるが、やってみて、自分にとっていかに紙の手帳が使いやすいものであったのか気づく、とか。

 とにかく新しいものを無反省に称揚し、旧来のものを切り捨てる姿勢は、このような再認識の機会を喪失させる。それは過去の道具を蔑ろにするばかりか、新しい道具の真価をも見逃すことに繫がりかねない。あまりにも道具の、そして時代の変化が激しいいまだからこそ、旧来のものを見つめる姿勢が肝要なのではないか。この度の出来事で、私はそのようなことを考えていた。

 

 最後に、もちろん新旧の比較のなかで見えてきたものを補ってみようとする姿勢の一例を挙げる。

 モニターをずっと見ていると、すぐに疲れてしまう。これは電子書籍も同様で、すぐに眼が著しく疲れる。紙の本だったら数時間程度は連続で読めるが、パソコンやスマートフォンの画面に映った字を追っていくと、疲労感が桁違いだ。だから長時間の読書には向かないと思ってきた。しかし、Kindle Paperwhite をつかってみて驚いた。紙の質感を再現したこのバックなら、長時間の使用にも堪えられそうだ。これなどは、電子書籍側が、紙の本の利点を導入して自らの欠点を補った例であるだろう。

 ただ最新の技術のうえにあぐらをかくのではなく、このように旧来の道具を見つめたうえでの進化を、ソフト面でもハード面でも、望みたいものだ。

 

(矢馬)