「読売新聞」2020年3月28日の朝刊、その1面に、「国語力が危ない」と題された記事が掲載されていた。「エモい」などを巡る国語力の問題を多角的な視点から考察した記事になっている。
その内容については全体的に思うところもあるが、それを指摘していたらきりがないのでここでは措く。ただ一点、『東大読書』(東洋経済新報社)の著者である西岡壱誠氏のコメントには、大きな問題があると感じた。
東大に入り、友人たちの語彙の豊富さに驚いた。LINE(ライン)のやりとりも、「了解」と「諒解」を区別して返信がくる。「終わりの意味を持つ『了』は話の最後に使われ、途中では、あえて『諒』を使う。状況に応じて言葉を選んでいる」と西岡さんは話す。
賛成反対や好悪の問題ではなく、これは日本の漢字史から見て端的に誤りである。
「了解」と「諒解」に区別などない。それをあたかも区別があるかのように言うのは、テレビ番組などでもよく見られる似非マナーや似非語源と同じようなものである。これを「語彙の豊富さ」と言ってしまうのは、歴史を無視しているようにも思われた。
そもそも、一般的にいま「諒解」という表記を目にすることがあるだろうか。まあ見ないだろう。なぜか。より一般的な「了解」という「代わりの」表記がある以上、無理してまで使う必要がないからだ。
国語辞典をひいても、『広辞苑』は「了解」で立項して、説明の中で「諒解」も同じであることを説明、『明鏡国語辞典』では「了解(▼諒解)」と立項。この▼は常用漢字表外字であることを示している。もちろん、常用漢字のみで生活に苦労しないかと言えば、必ずしもそうとは言い切れないのだが、少なくとも私は「了解」と「諒解」を分けている辞書を知らない。
さて、この『明鏡国語辞典』における(▼諒解)の括弧がなにを表しているか。凡例にはこう書かれている。「『同音の漢字による書きかえ』(昭和31年7月、国語審議会総会報告)などの書きかえで実際に行われることが少なくなった表記形や、ある場合で特に用いられる表記形などは、( )で囲んで示す」。「諒解」についてはこの前者、「同音の漢字による書きかえ」の例である。
実は漢字制限論は明治時代からずっと論じられてきた問題なのだが、敗戦後、GHQからの提言もあって急速に進んだ。1946年に内閣告示・内閣訓令された「当用漢字表」は、実際には制限というより目安であるのだが(それは1981年にそれにとって代わる「常用漢字表」にも言える)、少なくとも公的な文書においては、当用漢字表にない漢字を用いないようにしている。しかし、その際には問題も生じた。表外字の文字を使えなくなることによって、多くの熟語が使えなくなってしまったのだ。
たとえばいまはみな「回送」と書くだろうこの熟語、もとは「廻送」と書いていた。「廻」は表外字である。すると「かい送」と交ぜ書きするか、別の熟語に置き換えねばならない。そこで、この「同音の漢字による書きかえ」だ。「当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字表以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、表中同音の別の漢字に書きかえることが考えられる。ここには、その書きかえが妥当であると認め、広く社会に用いられることを希望するものを示した」この提言で、「廻送」は、同音の当用漢字「回」を用いた「回送」に書きかえることを認めると示した。「廻」は「回」とは別字であり、「單」が「単」の旧字であるのとはまったく別の関係だ。だから、たとえば戦前期の文章に「單」とあった場合に、「旧字は新字に書きかえる」方針であればほぼ無条件で書きかえられるが、同条件では「廻」を「回」に書きかえられるわけではない(たとえば、「現在一般的に用いられている表記に改める」という方針にすれば、一部ではそれも可能かもしれない)。
そのほかに、「編輯」が「編集」、「愛慾」が「愛欲」、「車輛」が「車両」、「日蝕」が「日食」、「辺疆」が「辺境」などがある。特に、「欲」とは別字である「慾」は、「欲」のあとに作られた文字だと『新字源』には記されている(以下、漢字の意味などについては『新字源』に依拠する)。
そして、「諒解」もその「書きかえ」のひとつであり、当用漢字「了」を使って書きかえた結果が「了解」という表記になるのだ。同様に「了承」は、もとは「諒承」である。つまり、「諒解」と「了解」は、その字が当用漢字であるかそうではないか、という違いだけで、意味においては違いなどまったくないのである。
たしかに「了」には「終わり」の意味もある。が、それは後付けでしかない。もちろん、同音の漢字を選ぶ際に「リョウ」のなかでも「了」が、たとえば「量」や「両」よりは意味的に近いということが選択の根拠にはなっただろうが、それはたまたまとも言える。ちなみに「諒」には「明らかに知ること」という意味がある。つまり「諒解」は、「増加」や「伸長」などと同様、同じ意味の漢字を重ねた二字熟語なのである。もっと言ってしまえば「了」にも「さとる」とか「理解する」という意味がある。たしかに日本固有の「了」の意味として「すっかり終わりにする」という意味もあるが、それを言えば「了解」の「了」は「終わり」ではなく、この「理解する」の意の字であると言った方がいいだろう。だからこそこの書きかえが通用したのだろうし、その点で、私はこの「諒」を「了」に書きかえること自体は、そこまで悪くはないと感じる。
もちろん、当用漢字、そして常用漢字をめぐっては、漢字の字体の簡略化などにおいて不徹底さがあり、そのせいで余計に混乱を招いているところはある。その点については阿辻哲次『戦後日本漢字史』(ちくま学芸文庫)に詳しいので、興味がある方は読んでみてほしい。ネット上には、漢字の表記について様々な情報が飛び交っているが、なかには、「マナー講師」が提唱する本当にあるのかどうかよく分からないマナーに似た、後付けでそれっぽく思わせる語源論や使い分けを堂々と主張しているものも少なくない。もっとも、そのようなおかしな漢字論を生み出してしまっている元凶のひとつが、当用漢字、常用漢字まわりにおける不徹底な部分なのだろうが*1。
念の為につけ加えると、西岡氏の考え方を否定しているのではない。高校時代に成績が悪く、その要因のひとつに「示唆」の意味が分からないために、「suggest」という英単語が身につかない、といったような語彙の少なさを感じて、勉強法を見直して二浪の末に東京大学に入学したことは素直に凄いと思うし、それこそ示唆的である。語彙が豊富であることによって思考の範囲が広がることは、たしかにその通りだ。あらゆる勉学の基礎に語彙があること。それは強調してもしすぎることはないのかもしれない。
だが、この「諒解/了解」については、明らかに錯誤があり、読者に間違った情報を与えてしまうので問題だ。しかもそこに「東大生」という肩書きによる保証がつくのだから、なおさら厄介なのだ。
果たして西岡氏が言うような「使い分け」をどれくらいの東大生がしているのかは正直甚だ疑問だが、もしこれが東大生一般の使い分けであるなら、はっきり言って、無意識の選民意識を感じてしまう。もちろん、仲間内でその使いわけをするのはまったく構わない*2。それに、「同音の漢字による書きかえ」はあくまでも「お願い」であり、公文書においては別だが、それ以外の場面において全国民がそれに従う義務もない。事実、私だって従っていない例がある*3。
だが、それをこのように、あたかも東大生は語彙力があるが故にこのような正しい使いわけができるのだ、と言われると、やはり反論せざるを得ない。最初にも言ったが、それは歴史の無視であり、さらに言えば改竄である。それは法曹や議員、警察など各権力の中枢の多くを占める東大生こそが、一番やってはいけないことではないのか。
もっとも、クイズ的な能力をもって「頭の良さ」とする昨今の「東大」ブームを見れば、こういった言説が受けるのも、うべなるかな、といったところではあるが。
大修館書店のHPにこのような記事があったので、参考までに。(閲覧日2020/07/19)https://kanjibunka.com/kanji-faq/history/q0513/
(矢馬)
*1:漢字の使い分けについては、基本、悩んだらもっとも一般的な字を使うか、さらに言えばひらがなに開けばいい、というのが私の意見だ。自動変換できるようになり、そもそも人は漢字を使いたがりすぎなのである。「事故に遭う」は、べつに「事故にあう」にしても日常的にはまったく問題なかろう
*2:というより、私がとやかく言えるものでもない。それはネット掲示板で飛び交っているネットスラングに対し、その掲示板上で「その言葉は間違っています」と指摘するようなことだ
*3:書きかえの対象である「篇(→編)」や「註(→注)」を私は好んで使うが、別に他の人がそうしないからといって特になんとも思わないし、相手によっては最初から「編」や「注」を使うだろう