ソガイ

批評と創作を行う永久機関

本というもの——山中剛史『谷崎潤一郎と書物』「序にかえて」から

 もしかしたらどこかで言っていたかもしれないが、私の学部、修士を通じての研究テーマは谷崎潤一郎だ。もともとは谷崎と芥川の、いわゆる「〈小説〉の筋」論争に興味をもったところから始まった。それは大学2年生くらいのことだったと思うが、当時の私は「小説家」になりたいと思い、特にライトノベルを含めたエンターテインメント小説について考えていた。その過程で、そもそも小説の「ジャンル」ってなんだ? と感じていたところに、この論争が飛び込んできた。

www.sogai.net

  その後、修士では範囲を集中させようと考えた。学部時代、演習などにおいて谷崎の作品で比較的深く扱った作品は、『春琴抄』と『吉野葛』だった。そのうち『吉野葛』を選んだのは、創元社から刊行された潤一郎六部集のひとつである『吉野葛』の存在に、興味を持ったからだった。

 限定370部、和綴じ、横長、写真入り……。さすがに現物を手に取れたわけではないが、国立国会図書館のデジタルアーカイブで見るだけでも、自分が最初に接した新潮文庫版の『吉野葛』と、そして種々の全集版の『吉野葛』と、ここまで感じ方が変わってくるのか、と衝撃だった。同じ文章でも、造本によって作品は変わる。思えば当たり前のことを、このとき明確に感じた。

「本」を強く意識するようになったのは、この頃からだ。この出会いからまだ2年ちょっとくらいだが、その過程で私は、それまでとは随分と本への向き合い方が変わったような気がする。そして、その「本」を作る出版という現象についても関心が向き、私に小説のことのみならず、それこそ出版や本、ブックデザインのことを教えてくれた人に薦められた小尾俊人『出版と社会』を大学の図書館で借り、序文のあたりを読んで、これは自分にとって必要な本になると直観し、すぐに古書を見つけて購入し(余談だが、先日、横浜の「古書馬燈書房」に初めて行ったのだが、なんとこの『出版と社会』が3冊も置いてあり、衝撃を受けた。)……そんななかで感じたことを同人活動で実践して、といった形で、いまに至る。いまや、「本」と「そのなかの文章」への関心の比率は半々、あるいは若干「本」に比重が寄っている節がある。思えば、私は大学生になったあたりからずっと、本を読むこと以上に本を買うことが好きな人間だった。だから、実のところ、積み本が増えることはそれほど苦でもない。もっとも、物理的空間の問題は避けられないわけなのだが……。

 

 さて、私がいまのような生活をするきっかけとなった谷崎について、最近、1冊の学術書が刊行された。山中剛史著『谷崎潤一郎と書物』(秀明大学出版会)である。まさしく、という題名だ。

 私の修士論文の話をすると、五味渕典嗣・日高佳紀編『谷崎潤一郎讀本』(翰林書房)に収録されている山中氏の短い論考「谷崎と装幀」はやはり参考にした。また、山中氏が『日本古書通信』で谷崎の書物について連載していたのは耳にしていたのだが、当時はそこまで手が回らず、今回で収録されたもので、初めてちゃんと読んだ形である。

 ここまで書きながら、さて、私はこの文章をどのように進めていこうか、と考えている。いつも通り、ひとまとまりの分量で紹介的な文章にするか、はたまた、前から順に読書録のような形で、何度かに分けて書いていこうか、どうか。

 この本で扱われているのは、まさにここ最近私がずっと考えていることとも通底していることで、それに、「谷崎潤一郎と書物」というテーマ自体、ほんの僅かながらとはいえ、修士時代に集中的に調べたこともあることでもあるから、読めば読むほど、思考が広がっていくような感じなのだ。

 まだ結論は出ないが、とりあえず、まずは「序にかえて——書物あるいは古書という視座」を読んでいこう。ここは短いながら、非常に内容の濃い書物・古書論になっている。

 

 谷崎には「装釘漫談」(1933)という、しばしば引用される文章がある。特に以下の一節は、まさに谷崎の書物への考え方が明確に示されている。

私は自分の作品を単行本の形にして出した時に始めてほんたうの自分のもの、真に「創作」が出来上がつたと云ふ気がする。単に内容のみならず形式と体裁、たとへば装釘、本文の紙質、活字の組み方等、すべてが渾然と融合して一つの作品を成すのだと考へてゐる。

 もっとも、谷崎も初期は装幀については人任せにしていたのだが、昭和期あたりからは著者自装本が増えてくる。特に創元社では、かの有名な漆塗りの表紙の『春琴抄』をはじめ、限定部数の横長、和装本を作るなど、その装幀には多分に谷崎の意向を反映させている。

 少し先取りすることになるが、人は物質性を抜きにして作品に接することは不可能だと思う。さらにいえば、具体的体験が伴うのを避けられない。証拠に、同じ作品であっても、読む度に微妙に感じ方が変わったり、それまではまったく気にもとめず記憶にも残っていなかった一節が妙に印象に残ったり、二度まったく同じ感覚で読むことはできない。それは「書物」という物質においても同様だ。顕著な例では、同じ作品でも、明治期の初版本と、現代の文庫本、あるいは青空文庫、初出の雑誌で読むのでは、やはり受け取られ方が違ってくるはずだ。作品の流通やその受容において、だから「書物」という視点は欠かせない。

 その割に、その視点は「マニア」扱いされて、やや軽視されている感は否めない。つまり、「書物それ自体にこだわることはただの趣味的なフェティッシュ以外の何物でもないのではないか」と。それに対し山中氏は、清水徹の書物論を引いて、「読者の実際的読書を抜きにして文学を語ることができるのであろうか」「書物という物質を抜きにして読むことはできない」といい、そして「読書とはすべて具体的な読者それぞれの体験としてあるのならば、書物というオブジェへのフェティッシュは、むしろ当然ともいえる」と述べ、とりわけ近代において、作品と書物が不可分であることを示す。そのあと、鈴木一誌『ページと力』(青土社)における、「集合名詞」としての書物の著者の考え方を引いている。こう考えると、作者至上主義への反発からテクスト論が主流にもなったが、もし本当に狭義の「テクスト」のみにこだわって「書物」への視座を持っていなければ、それは結局、固有名詞としての書き手しか見ていない、「作者」と「作品」の切り分けが不十分なのではないか、ということになりかねないような気もしてくる。作者の特権と「テクスト」の特権は、意外にも地続きなのかもしれない。(ちなみに、私が書物に興味を持つようになったひとつの要因が、テクスト至上主義への懐疑だった。単純に、テクスト論があまり肌に合わなかった、というだけの話なのかもしれない。)

 自分に引きつけると、〈封切〉叢書の発想も、集合名詞への意識があったのかもしれないと思った。読者に「本」を切り開いてもらう。つまり、「集合名詞」に読者も巻き込むことによって、その本は唯一無二のものになる。鈴木一誌の言葉を借りれば、「いったん作品にしてしまったあとでは著者は、その作品を個人としての自分に奪回できない」(『ページと力』)。読者に、そしてなにより私自身にそのことを意識させる造本が、〈封切〉叢書のコンセプトだといえるのかもしれない。ひとつつけ加えると、本書の表紙は山中氏の書棚の写真である。そこに『ぐらごおる単曲版01』(鐵線書林)が写っているのを発見した。家にあるものだけを用いており、郵便仕様、小口側を切り裂いて本文を読む設計は、私が〈封切〉叢書を決意した大きな要因のひとつだった。

 話を戻す。私は、特に次の段落について、個人的に考えを深めたいと思っている。

(…)そうした多くの谷崎本を見渡したとき、往々にして幾つかの凝った装幀に目を奪われがちになるが、ひとつひとつ見ていくと、明治から戦後にかけて、それらは谷崎の著作であるということとは別に、印刷、造本、装幀の近代、あるいはまた出版の近代ということをも雄弁に語ってくれる。(ⅲ)

 出版に必要な道具や設備はシンプルであるが故に、直にその時代状況を映し出す。一番分かりやすい例で言うと、戦争末期の出版統制下での出版物は、紙や造本の質が非常に悪く、いまや変色が著しく、触ればこちらの皮がおろされるのでは、というくらいざらざら、簡単にページが取れてしまうような代物だ。物資の不足、統制が、否応なしに肌で感じられる。

 『アイデア』(誠文堂新光社)2020年10月号に、戸田ツトムに関する記事が掲載されている。そこには戸田ツトムと鈴木一誌の対談をまとめた本『デザインの種』の重要な部分を鈴木一誌が抜き出してまとめた、付録というには内容の濃いものが付いている。その033番、「ブックデザインは、その時代の習慣や技術的な制約と向きあいながらなされるのだから、ページの向こうに世界史が見えている」。これは鈴木一誌が別の場所でも同様のことを書いていたような気がするのだが、いまはちょっと見つけられなかった。ともかく、この視点を持っていると、目の前の1冊の本の見方が変わってくる。そして、そのように本を考えていくと、自然とその目は古書にもと向かってしまうのだ。

 というのも、やはり書物というものは複製技術時代の産物である。新刊本はどこで買っても、普通はそうそう変わるものではない。というより、そうであっては困る(まあ、そういう本も持っているのだが)。しかし古書は、もはや1冊1冊が違ったものとなっている。

読者を渡り歩きながら古書としても書物は流転していく。そのとき、複製技術時代の産物である書物は、複数同時に生産される商品の一冊であるに過ぎないにもかかわらず、一冊一冊が個別具体的な顔を持つアウラを身にまとうこととなる。(ⅹⅲ)

 その時代を反映している書物に、さらに過去の読者という歴史が重なっていく。たしかに、ここまでいくと趣味の領域にならざるを得ないのかもしれない。それでもやはり、書物への関心は強まるばかりなのだ。加えて、古書との出会いはほとんど偶然頼りなところもあり、それ自体が極めてスリリングな体験でもある。というよりも、「読書現象」という言い方があるとすれば、それはこのような書物との出会いや選択を当然含むと思う。だが、その個別具体性ゆえに、古書を学術的に論じることの難しさもあるのかもしれないとも思う。その点で、帯に「古書趣味と文学研究の越境・融合」(「越境・融合」にはルビで「ハイブリッド」)とあるこの本は、その道を示す端緒となるだろう。

古書は流転し時空を超えて読者を繋ぐ。読書とは孤独なものであるにもかかわらず、人は読書を、というよりも、複製物としての書物を通して、共時的平行的地平のみならず過去未来を問わない通時的な時間の垂直的地平に切り結ばれ、どこかにいる自分と同じ読者、かつて接しあるいは未来に接するであろう彼方の読者と想像力によって繋がることができる。そして書物は、とりわけ過去を背負う古書は、そうした力を秘めている古くて新しいメディアであるといってよい。(ⅹⅵ)

 書物というものは、「世界史」ももちろんのこと、「個人史」も秘めた、縦横無尽に広がる時間を内包したメディアだ。いつまでたっても興味が尽きることはない。お金や物理的空間の問題でなかなか難しいかもしれないが、私も、趣味の域を越えてはいかないだろうとはいえ、古書・書物についてさらに考えを深めたいと思った。そのための参考文献が、この本は存分に示されてもいる。そういった意味で、この本は書物・古書研究への指南書ともなるであろう。

 今回は結局「序にかえて」の部分にしか触れられなかったが、機会があれば本論の方についても紹介していきたい。

 

 最後に、これは蛇足もいいところだが、「ブックデザインは、その時代の習慣や技術的な制約と向きあいながらなされるのだから、ページの向こうに世界史が見えている」という言葉を引用した。ところが、DTPをはじめとした技術の発展により、もしかしたら本づくりに際し制約を意識できなくなっている人も、少なくないのかもしれない。良くも悪くもと言ってしまって良いと思うが、思い思いのデザインがなされた本を、同人誌を含めて、しばしば目にする。

 果たしてそれが良いことなのかどうか。本には版面という枠がある。本には、ページレベルにも強固な制約がある。そのとき、本書にも引用されている鈴木一誌『ページと力』の言葉を思い出す。

デザイナー志望の仕事を見ながら、版面意識が希薄だ、と思いはじめたのは、コンピュータでブック・デザインをするのが当たり前になったころからだ。(増補新版、387頁)

  版面意識の希薄さは、やはり技術によってあたかも「なんでもできる」かのように、そこまで言わずとも、無際限かつ気軽に試してみることができるために、「枠」が見えなくなっている、ということなのではないだろうか。その結果の生まれたものを想像・創造の産物、という人もいるかわからない。

 だが、私はそれも少し疑問だ。俗なたとえになるが、「縛りプレイ」という言葉がある。たとえばRPGにおいて、初期の最弱武器のみで最終のボスを倒す、というように、自ら制限を設けることだ。すると、普通にプレイしている際には歯牙にもかけない技やアイテムが思わぬ価値を発揮することがある。自らに制限を課すと、普通にやっているだけでは到底クリアはできない。そこで、プレイヤーはゲームという空間、そして課した制限の枠のなかで、限られた選択肢のなかでとにかく考えに考えていかなければならない。私は、むしろこういったときにこそ、想像・創造力は働くのではないか、と思う。

 私は、制限だらけの本というものに関心がある。とかく「枠」を意識することが難しくなっている現代、書物というメディアを通して世界を考えていきたい。

来し方行く末といった時間性のなかにある存在として書物を考えていくこととは、まさに古書文化の基底にあるものであろうが、一冊一冊が来歴という顔を持ち、それぞれの孤独な読者を繋いでいく古書というものを視座として改めて書物を考えるとき、そこには本文の精査だけでは見ることができなかった書物のそして文学をめぐる異なった展望が開けてくるはずだ。いま手許にある古書からどんな展望が開けてくるのか。本書はわたしにとってそれを問う最初の書物である。(ⅹⅵ〜ⅹⅶ)

  書物・古書から開かれる展望。その先に見えてくる時間に、これからも目を凝らしていきたい。

 

(矢馬)