ソガイ

批評と創作を行う永久機関

個人的2020年の10作品(矢馬潤)

いろいろあった2020年、「ソガイ」としてはそれほど多くの活動ができたわけではない。5月に「ソガイ」の第五号を刊行、その後、7月に「ソガイ〈封切〉叢書」を勢いで開始し、先日第三号まで刊行することができた。現状、その執筆者は矢馬のみとなっているが、来年こそは様々な書き手の作品を届けたい。もちろん私も書き続ける。というより、ちょっと楽しくなってきた。〈封切〉は基本として6000字程度の分量なのだが、この量が思いの外、書き手、読み手双方にちょうどいいような気がしている。

3月に修士を出て、4月から本格的に業務委託として出版社の校閲部で仕事をし始めた。4月1日に出社したのち、さっそくしばらくは完全リモート、たしか6月頃から出社とリモートが半々という勤務形態で、そのときどきで生活リズムを整えるのでいっぱいいっぱいだった。おかげで、自分でも分かるくらい校正・校閲の技術は上がり、これからの活動にも是非活かしたいところだ。

とはいえ、さすがに疲れてもいたのだろう。先々月あたりに右太腿裏にしびれを覚え、軽い坐骨神経痛だろうということで最近はリハビリテーションに通い、休みの日、ストレッチをしながら家でぼーっとしている時間も増えたが、それでも多少は本を読んでいた。

私は読書日記を付けていない。過去に何度も挑戦したが、まったく続かないのだ。だから、本棚を眺めながらこの1年に読んだと思しき本を思い出してみる。紹介も兼ね、自分の1年を振り返り、来年以降への弾みとしたい。10作品程度を目安にしようと思う。また、過去に取りあげたものとの被りもあるかもしれないが、その点はご了承願いたい。

 

1.鈴木一誌『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』(誠文堂新光社、2017年) 

 

ブックデザイナー・鈴木一誌が2005年から2016年の12年間で発表したエッセイをまとめた本。デザインや出版に関する文章が多いが、書名に「生活」という言葉が入ることからも分かるように、それは日々の生活のなかで生まれた思考が「ただの文章」として記されたもの。ゆえに、編集人・郡淳一郎によれば、鈴木の執筆活動の軸である表現論については「不日の各々の集成を期して」、採録を見送っているという。

商業出版のみならず、個人出版・同人出版を志す人には鈴木の「意見」はもちろんのこと、言葉は「水や土や空気と同じ公共財」であり、「出版(パブリケーション)は公共性(パブリックネス)を本義とする。本の美しさは公正さ(フェアネス)をいう」という郡の編集後記を嚙みしめて自己を省みるべきだろう。

 

2.『ぐらごおる単曲版01』(鐵線書林、2020年、売り切れ)

ロシア詩の翻訳を中心とした同人「鐵線書林」主宰・澤直哉設計の郵便本。封筒の小口を切り裂くことではじめて読むことができるようになる。緊急事態宣言のなか、限られた資材で作られたこの本により、家にあるもの、家にある道具で本をつくり、読者に届けることはできることが示される。

シンプルな疑問がある。同人出版がこれだけ増えているなか、果たして人は多岐にわたる出版工程の、どこからどこまでを担ったことがあるのだろうか。執筆のみ、という人も少なくないだろう。編集や組版まで担当したことのある者も、ままあるだろうか。しかし、製本までを一人で行う人は、全体の数からすれば決して多くはないと思われる。

もちろん、絶対にすべてをやらねばならない、などとは言わない。しかし、最近、商業出版の領域において、現場の一人一人への想像力が欠如しているのではないかと思われる事象がしばしば見られる。分業が進み、出版行為の中でも分断が起きている、そんな気がしてならない。由々しき事態だと思う。しかしながら、だからといって商業出版を行う者がそのすべてを担うことなど、不可能である。だとすれば、これはむしろオルタナティブの出版としてのポテンシャルを持つ同人出版において可能となる領域なのではあるまいか(同人出版がオルタナティブの意識を持っているかどうかは、この際措く)。

この活動を始めてから、それまで執筆のみだった私は、校正や編集、組版に表紙を含めた装幀などをするようになった。ここまできたのなら、自分も設計からすべてやってみたい。家の中で長い時間を過ごすうち、こうして湧き出た意欲が〈封切〉叢書の刊行に繫がった。

 

3. 稲泉連『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房、2017年、文庫版2020年)

というわけで、本づくりにおける様々な分野のプロに取材したこの本が、読みやすく、まず一つの参考になるだろう。ここで取りあげられているのは、「活字」「製本」「活版印刷」「校閲」「製紙」「装幀」「翻訳書のエージェント」「児童文学作家」。非常に多岐にわたる。が、これでも本づくりのほんの一部である。1冊の本を作り、そして読者の元に届くまでには、非常に多くの人が関わっている。そのことを忘れ、自分(と近辺の協力者)の力で本を作っているかのように振る舞う傲岸不遜な人間や組織を、私はしばしば目にする。全員とは言わないが、私は基本的に「カリスマ編集者」や「カリスマ書店員」と呼ばれる人を、まずは疑って見てしまう。というのも、そういった人の中にはしばしば、それを自分の功績であるかのように喧伝し、そして周りもそのようにおだて祭りあげている、といった例が見られるからだ。

べつにこの本でなくても良いし、もっと言えば、必ずしもなにか1冊本づくりに関する本を読まねばならないとも言わないが、1冊の本にはそれだけの人の手と技術が関わっている、ということは覚えていて欲しい。

ところでこの本、最近文庫化した。単行本を持っているから必要ないと言えば必要ないのだが、文庫では解説を武田砂鉄が書いているらしい。元々この人の文章があまり好きではなかったのだが、『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版)などを読んでから、最近は少し変わってきている。なんて書いているのだろう。ちょっと気になるところだ。

 

4.野呂邦暢『夕暮の緑の光——野呂邦暢随筆選』(みすず書房、新装版2020年)

緊急事態宣言の中、私にとって一番つらかったのは中学時代からの行きつけの書店が閉まっており、書棚の間をふらふらと歩く気分転換がほとんどできなかったことだった。それまでは、多いときには週に3回、少なくても数週間に一度は訪れていた書店はショッピングモールに入っていることもあってかなかなか開かず、じれったい日々を過ごしていた。

ようやく開いたその日の昼、さっそく自転車を漕いでお店に向かった。長時間の滞在と立ち読みをしないように、との注意喚起があり、さすがに以前のように2時間、3時間とぶらぶらすることは難しいか、と感じながら棚を見て回り、思いきって1万円強の本を買った。そのうちの1冊がこの本だった。地に足がついた文章でありながら、ふわっと風景が広がる印象を受けた随筆だった。ほぼ忘れられかけており、古書の価格はなかなか高い野呂邦暢だが、これからも折に触れて読んでいきたい作家となった。「生活が無ければ作品は無い」。この言葉を改めて嚙み締める。

 

5.磯﨑憲一郎『日本蒙昧前史』(文藝春秋、2020年)

 大学時代、読むもののほとんどは小説だった。現在、小説はあまり読まない。その理由と思しきものがあるにはあるのだが、自分でもまだうまく言葉にできない。

そんな中でも、磯﨑憲一郎の作品はやっぱり好きだ。私にとっては数少ない、その著作をほぼすべて持っている作家だ(エッセイなどを集めた『金太郎飴』は未読だが)。

前作の私小説的要素を含みながら、やはり自在に時空を飛びこえた『鳥獣戯画』ももちろん良かった。『鳥獣戯画』の私小説性とは対照的に、今回は、もしかしたら少なくない読者が実際に見聞きしたであろう、戦後日本の大きなニュース(大阪万博、三島由紀夫自決、ロッキード事件、五つ子ちゃん誕生、グリコ・森永事件、横井庄一帰還など)を下敷きに、著者独特の語り口で、この国の、ある一つの時代が描かれる。

それにしても、やはりこの文体が良い。〈封切〉叢書第二号「埠頭警備人」は、この作品に大いに影響を受けている。

 

6.武田徹『現代日本を読む——ノンフィクションの名作・問題作』(中公新書、2020年) 

『日本蒙昧前史』はジャンルとしては小説だが、実在の出来事を扱っている点ではノンフィクションの性格も持ちうる。私はノンフィクションというジャンルに、いままであまり触れてこなかった。ひとつの入門書として、この本は有用だろう。

「非−フィクション」、つまり「フィクション」ではないという定義が主になってしまうジャンルではあるが、しかし当然のことながら、フィクションとノンフィクションは完全に断絶されているわけではない。ノンフィクションはただの事実の報告ではない。物語の想像力によって、断片的な情報に文脈を与える。しかし、ノンフィクションはあくまでも「非−フィクション」である……。こう見てみると、ノンフィクションは非常に難しい表現方法だ。

個人的に最も興味深く読んだのは、北条裕子「美しい顔」を巡る問題を扱った箇所だ。結局一過性の話題で終わってしまった感が否めないが、これから疫病やマスクをテーマとした作品がどんどん出てくるだろうことを考えると、改めて考え直さなければならない問題だと思われる。『美しい顔』単行本を、私は発売してすぐに買っていたのだが、まだ積んでいる。近く読もうと思う。

 

7.大崎善生『将棋の子』(講談社、2001年、文庫版2003年)

そのようなノンフィクション作品のひとつであるのが本作。日本将棋連盟の規定では、プロ棋士となるためには一般的に、「奨励会」と呼ばれるプロ養成機関に属し、規定の年齢(原則26歳)までに奨励会三段リーグを勝ち上がって四段となる必要がある。ただでさえ、全国の「神童」「天才」が集う奨励会で、それは非常に狭き門だ。幾人もの天才たちが、プロの門を叩くことを許されず奨励会を去っていく。その過酷さは、本書のプロローグで触れられている、年齢制限で崖っ縁の三段リーグ最終日、ほぼ希望が潰えたところから奇跡のような四段昇段(プロ入り)を果たした瞬間に壁に背中をもたれへたり込み、膝を抱えた右腕に額をつけて俯く中座真(現七段)の姿に、残酷なまでによく表れている(この姿を『週刊将棋』が掲載した)。

主に、のちに「羽生世代」と呼ばれ将棋界に一大革命を起こす、羽生善治を筆頭に、森内俊之、佐藤康光などの登場のあおりを受けることになってプロ棋士になることなく奨励会を去った人々を、元『将棋世界』編集長の著者は追う。

その中心となるのは、同郷で、少年時代に将棋道場で邂逅していた神童、成田英二だ。著者が長く将棋の世界にいたことも相俟って、本作はノンフィクションとしては、やや個人的感情が入りすぎているのかもしれない。とはいえ、非常に好きな作品になったことは間違いない。

この前の著作、夭折の棋士・村山聖を追った『聖の青春』と合わせて読むことをおすすめしたい。おそらくだが、より本流のノンフィクションに近いのはこちらの作品であろう。

 

8.田島列島『水は海に向かって流れる』全3巻(講談社、2019〜2020年) 

ここ最近、あまり漫画を読まなくなった。元からそれほど多く読んでいたわけでもないのだが、まさにめっきりという言葉が当てはまるくらいだ。すると、私は小説を読まなくなったというより、フィクションとして提示された物語から少し距離を置いている、ということなのかもしれない。

ただ、この作者の前作『子供はわかってあげない』もその空気が好きで、この最新作も本屋で見つけて、迷いなく購入していた。親同士が駆け落ちした、高校1年生の少年と26歳のOLが一つ屋根の下で暮らすことになる……という、かなり重い設定のボーイミーツガールなのだが、この作者の特徴は、それがコメディ調のシーンを挟みながら重くなりすぎないことだ。もちろん、だからといって不必要に軽いわけでもない。この按配が絶妙だと思う。深刻な物語を、さもありなんといった深刻な筆致で書かれると、気が滅入ってしまう。かといって軽すぎれば、物語が上滑りする。言うは易し、である。

来年以降、このような漫画、ひいては物語に出会えるといいな、と願っている。

ついでになるが、昨年、同じようにして気に入った漫画、中村ひなた『やさしいヒカリ』(講談社)のフランス語版が来年刊行されるそうなのだが、ちょっと欲しいな、と思っている。購入方法を調べてみるつもりだ。

 

9.池内了『寺田寅彦と現代——等身大の科学をもとめて』(みすず書房、新装版2020年)

最近、角川ソフィア文庫で寺田寅彦の作品集が数多く刊行されている。また、書店を巡っていると、その他にも寺田寅彦関連の本がいくつも出ているようだ。

寺田寅彦といえば、文理の境界を越えて悠々と動き回り思考する人、という印象だ。というより、本来、文理を明確に分かつものなんてないのだ。寺田は、科学的思考を軽んじる文学者を批判し、哲学的思考を持たない科学者を叱責する。博学になれ、と言っているのではない。広い視野を持たなくてはならない、そうでないと危険だ、ということだ。寺田は科学が急速に発展していくなかで、しかし科学を万能と思ってはならない、と言う。そして、すべてが数式に還元できる、数式に還元できるものだけが科学だ、と思い込む人が多くなっていることを指摘する。直観。その能力が優れていない人で優れた科学者はいない、と。また、彼が提示した科学的テーマは、複雑系科学の先駆けでもあったことが丹念に示されている。

本書は、寺田が書いてきた文章の広いテーマをひとつひとつ検討し、それを近・現代科学史の中に位置づけようとした意欲作だ。その過程では、戦争に対して反対を示しながら、しかしそこで示される科学的成果にはつい「おもしろい」と言ってしまうアンビバレントな反応や、晩年、自然災害をある種、宿命論的に論じてしまう寅彦の姿についても述べ、ただの寺田寅彦礼讃に堕することがない。

旧版は2005年の刊行だが、疫病が蔓延するいま、寺田を通して現代の科学を取り巻く状況を論じている本書が新装版として刊行されたのにはそれ相応の背景があるのではないだろうか。寺田の言葉を各々が批判的に(むろん、良いところと悪いところをはっきりと見分ける、との意)見ることで得られるところ、少なからずであろう。

余談であるが、本書では寅彦の思想のひとつの実例として、セレンディピティーの概念が紹介されている。失敗や偶然を見つめるなかで生まれる思わぬ発見。道草を食う余裕がなければみすみす逃してしまう欠片。学生時代に寺田寅彦の文章にはまったという外山滋比古がのちに『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)という本を刊行するのは、きっと偶然ばかりではないだろう。

 

10.山本貴光『マルジナリアでつかまえて——書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020年)

 

紙の本にはかならず「余白」がある。もっとも、最近ではこの余白の意識が非常に乏しい本も散見されるのであるが、その点については「ソガイ」第五号の論考でも触れたので、ここでは措く。

マルジナリアとは、そんな本の「余白」への書き込みのこと。本書の帯では「人類は大きく二つに分かれる。本に書き込みをする者と、しない者に——」と壮大な命題が掲げられているが、あながち大袈裟でもない。本への書き込みを絶対に受け入れられない人や、そこまでいかずとも、自分で買った本に書き込みをするという発想自体を持たない人は案外少なくないらしい。どちらが良い悪いということはないが、この両者の間の壁は、案外厚い。

数年前から、私は積極的に本に書き込みをするようになった。というよりは、書き込むことをまったくためらわなくなった。メインは、上下で赤鉛筆と青鉛筆になっている鉛筆で線を引いたり、丸をつけたり、言葉と言葉を繫いだり、といったものだが、ときどき、思いついたことや気になったことを天地小口の余白に書き込む。その1冊を読み終えたら、頭からぺらぺらめくり、色のついているところや余白の書き込みに目を通す。必然、たくさん書き込みがあるものは、書き込みを追っていけば全体の流れをなんとなく思い出せる。それだけのめり込んでいるからだ。ほとんど書き込みがなかったものは、現時点ではそれほど響かなかった本、という可能性が高い。自分にとって、わりかしいいバロメーターになっているようだ。

マルジナリアによる効用は様々あるが、ざっくりまとめると、それは本との対話を促し、そしてその本を育てていくということになるだろう。

たくさん本を読むことを自慢する人をしばしば見るが、多読それ自体は悪いことではないとはいえ、それ故にただ受動的にテクストを読んでいるばかりであれば、無用というより有害とすら言える。先に挙げた外山滋比古の言葉を借りれば「知的メタボリック症候群」、知識で頭でっかちになり、思考力が落ちることを表した言葉だ。知識は豊富だが、著名な人物の言葉を引用するばかりで自分の考えに乏しい……誰しも、周りに一人や二人くらいはいるだろう。

本書の冒頭、夏目漱石のマルジナリアをあげながら、「読書とはツッコム事と見付たり」と言うが、まさにその通り。「分かってんじゃん」「んなばかな……」「それは無理があるのでは?」「これはすごい!」「何言ってるのか全然わかんないぞ」「いやいや……」——こんな風に、簡単な反応を残すだけでも十分だ。とにかく無批判に書いてあることを受け入れるだけになるのは避けたい。

無論、マルジナリアをするにあたって、それが正常性バイアスに影響され得る可能性があることは意識する必要がある。つまり、自分の考えに合う箇所ばかり注目してしまう、ということだ。だから、まずマルジナリアをすること自体を目的にはしない。そして、ツッコむ。良くも悪くも印象に残ったところ、なぜかよく分からないが引っかかったところ、直接関係があるかどうか分からないけれどふと思い出したことなどをとりあえず残しておく、くらいのスタンスがちょうどいいのではないか、と個人的には思う。

ここだけやたら長くなってしまったので、この本で個人的に一番面白いと思った一文を引用して終わる。

「余白が少ない本は、読者が書き込むという使い方を想定していないとも言えそう」(86頁)

結局本づくりの話に戻ってしまった。すると、やはりこの1年、私にとっては「本」とその周辺を巡ることを考え続けた1年であったのかもしれない。

 

(矢馬)