ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ10

吉本隆明・蓮實重彥・清水徹・浅沼圭司『書物の現在』(書肆風の薔薇、1989年)

9人の連続講義「書物の現在」から4人の講義を文字に起こした講義録。

浅沼、清水が出版原理について、蓮實、吉本が雑誌製作の現場について話している。

やや古い本ではあるが、けっして古びてはいない内容だと感じた。

特に「原理編」の2人の話が、映像や電子化と既存の出版との関わりについて論じていて興味深かった。両者とも、映像メディアやデジタル化を紙の本の「敵」とすることには懐疑的であり、その点に関して、私は全面的に同意だ。特に浅沼は、印刷した書物の発展や展開が、人間の直接的体験への欲望を喚起し、映像メディアを引き寄せたこと。書物と映像は相互補完的な関係にある、と述べており、この視点を抜きにして本の電子化や未来の本を語っても無意味だろう、と思いを新たにした。

 

清岡卓行『随筆集 窓の緑』(小沢書店、1977年)

清岡卓行の第二随筆集。

まず装幀が非常に好みの本。古書フェアにて、見た目に惹かれて購入した。

今回は割と軽い気持ちで読んでいたこともあって、それほど内容を憶えているわけではないのだが、なんだか心地よく読んでいた印象が残っている。

清岡が戦後、日本野球連盟に勤めており、主にセントラル・リーグの運営に携わっていたこと。1選手における1試合3安打以上「猛打賞」を発案した人物であることは知っていたが、この随筆集の最初に収めされている文章は、1974年、後楽園球場にて行われた日米対抗野球、そこで催された王貞治とハンク・アーロンのホームラン競争についてである。

詩や小説を初めとして、絵画や音楽、もちろん野球など、様々なテーマについて、そして日夏耿之介や萩原朔太郎、渡辺一夫に金子光晴といった人物を論じ、追想した文章が、やっぱり心地よい。

一部、自作の解説、註釈の文章もある。そこで取りあげられている作品が気になってきている。

 

池内紀『恩地孝四郎——一つの伝記』(幻戯書房、2012年)

蔓延防止等重点措置とやらで書店までも閉店時間が早まるなか、仕事のあと、文字通り神保町を駆け巡ろうとした初っぱなに、澤口書店の表に出ているラックに刺さっているのを見付けてしまった。3800円と決して安くはなかったが、戻しがたかったので購入。閉店時間も迫っていたので悩む時間もなかった。

恩地孝四郎が版画家であることは知っていたが、私としてはどうしても装幀家の印象が強い。「本は文明の旗だ。その旗は当然美しくあらねばならない」という言葉は、「美しくない」本が跋扈する現在においても有効だろう。本書でも述べられるように、恩地孝四郎はアルスの『白秋小唄集』や春陽堂の『泉鏡花集』など、豪華な本の装幀をしている。これらの豪華本は、大量複製芸術である版画を主戦場としながら、手刷りにこだわり、また多くても10点も刷ったら版木を壊してしまうこともあったという芸術家らしい仕事とも言える。

しかしながらその一方で、昭和初期の円本ブームの反動として起こった豪華本ブームに対しては、本が「宝石匣であったり、額縁であったりしてはいけない筈だ。そこで、本が本であるためには、あくまでそれが、内容と共に融合した、装、実、共に合体した二重奏でなくてはならない」(「装本私見」『みづゑ』1929年12月号)とも言っていることは気にとめておくべきだろう。豪華本といえば革装やクロース装のイメージがあるが、恩地自身の著作、たとえば『飛行官能』や『海の童話』(共に版画荘)は紙装である(言うまでもなく、版画荘もまた豪華本で有名な版元だ)。

それにしても、恩地はいくつもの雑誌の編集を行ってきている。その経験が、内実ともに融合した本を志向させた要因の一つかもしれない。

最後に、本書で特に驚かされたのは「変体活字廃棄運動」である。戦争期、印刷業界が自発的に活字統制委員会なる委員会を組織し、「角ゴシックと明朝と正楷書の三種だけをのこして、ほかの文字はいっさい即時廃止する」決定をしたというのだ。その理由にはやはりというか、地金の供出、贅沢品禁止令に併せる、などが挙げられていた。

いまの情勢で、芸術分野が自身の実用性、明け透けに言えば不要不急ではないことを声高に主張する図が散見されるが、そういった態度は、この「変体活字廃棄運動」と背中合わせであるようにも感じられるようになってきた。

芸術は、商業でもあると同時に虚業性が占める割合も大きい分野であると思う。というよりも、現代の資本主義社会において芸術は、理念的にはお金を求めるところからは一番遠いところにある営みでありながら、しかし商売を成り立たせるという大いなる矛盾、葛藤のなかにあるものではないか。にもかかわらず、自信満々に、自分たちは社会に必要なものだ、と主張してしまえることにいささか違和感を覚える。むしろ主張すべきは、行政の都合で商業行為を要/不要に勝手に分けて、営業の可不可、補償の有無を決めるな、ということだったのではないか。そこを間違えたことで、演劇の「必要性」を訴えた演劇界の大物が、おそらく無意識に他業種を下に見るような発言をしてしまったのではないか、と思う。

「変体活字廃棄運動」は背景に戦争という大きなものがあったものではあるけれども、しかし、自分たちの必要性を主張するために行ったものである側面を思えば、やはり現代と切り離すことはできないものなのではないか、と考えた。

 

寿岳文章『書物とともに』(布川角左衛門編、冨山房百科文庫、1980年)

英文学者であり、書誌学者であり、和紙研究家でもある寿岳文章の文章のうち、書物に関してのものの一部を集めた本。

ちなみに、1989年には沖積舎から『壽岳文章書物論集成』という1000頁超の大著が出ている。私は地元の図書館で借りたことがあるが、あれはさすがに借りて読むのには無理がある。本書に収録されている文章は大半が、この『書物論集成』にも収録されていたと記憶している。より壽岳文章の書物観を味わいたいなら最初から『書物論集成』の方に手を出してもよいと思うが(もっとも、それなりに値段は張るし、持ち運びにはまったく適さない)、この本でも充分の内容になっている。現代から見れば書かれたのはかなり前で、戦前のものすらあるくらいなのだが、少し怖くなってくるまでに現代の出版にも通用する内容になっている。それは、寿岳文章が先を見通す目を持っていた、ということもなきにしもあらずかと思うが、出版があまり進歩しておらず、長年の問題を解決できていないとも言えるのかもしれない。

語りたいことが多すぎるので、ここではひとつひとつは取りあげないことにする。まとめて言えば、なんだかいつもこんなことを言っているような気がするが、プロアマ問わず、本をつくっている人は、目を通しておいて絶対に損はない本だと思う。私もまた、自分の本づくりを顧みることにする。

 

 

さて、最後に関係ないことを書き残しておくと、書店の倒産が激減したというニュースがあり、著名な書き手を含めて多くの人が、これを喜んでいた。

www.bunkanews.jp

もちろん、倒産件数が少ないのはいいことだ。しかし、書店がなくなるのは、なにも倒産だけではない。町の小さな本屋はむしろ、倒産ではなく、廃業による閉店の方が多いのではないか(現に、2020年度の書店の倒産件数は12らしいが、かといって、その1年の間に書店の数が12だけ減った、となるわけがない。いまや、書店は1日に1店以上がなくなっている計算なのだ)。

www.nippan.co.jp

倒産件数の減少と、書店の総数の減少の度合いにいったいどれだけの相関性があるのか、私は大いに疑問だ。

また、その記事の内容も、巣ごもり需要による本の需要増、『鬼滅の刃』『呪術廻戦』などのヒットタイトルの影響も大きい、という、新しい発見には乏しいものだったと言わざるを得ない。ここ数年、だいたい同じようなことを繰り返しているだけにすぎないと感じた。

『鬼滅の刃』の最終巻発売日、なにも知らない私は朝一で地元の書店を覗きにいったのだが、それはもう異様な行列ができていて驚くと共に、薄気味悪さも感じた。それは鬼滅専用レジに並ぶ大人たち(平日の午前だから当然だ)だった。タイミングが悪かったのだろうか、もう一つのレジに並ぶ人は皆無に等しかった。

この現象を巡って、ブームの話題に参加するために流行を追う人がいる云々という言説を持ち出した人がいて、それに対して賛否両論が巻き起こるという事態もSNSでは起きた。私としては、なにをいまさら、そりゃそうだろ。そんなのなにも今に始まったことではないし、ブームというものはそうして作られるものだろう、としか感じられず、醒めた目で眺めていた。念の為に言っておくと、別に流行に乗るという動機である作品を手に取ること自体は、なんら悪いことでもない。だいたい、動機というものは往々にして不純なのである。いまは特に興味もないから読んでいない私ではあるが、もし学生時代に周りの友人がみんな読んでいて、自分一人が話についていけない状況が生まれていたとしたら、アニメくらいは見ようとしたかもしれない。そして、そういった理由で作品に入っていったとして、いったい誰がそれを責められるだろうか。どうやら最近まで親に、私は「鬼滅」が嫌いだと思われていたらしい。私は別に作品は嫌いではない。というより、特に関心を惹かないだけだ。私は元々バトルものを好んでは読まないだけだ。ただ、マスコミ、コンビニが「鬼滅」一色になる光景には気味悪さを感じ、途中からは鬱陶しいとも感じていたが……。

ともかく、直接攻撃でもしてくるか、余程悪意のある、あるいは犯罪目的でもない限り、見ず知らずの人がどんな動機で作品を手に取ってるかなど、はっきり言ってどうでもいい。大切なのは、そのあとだろう。作品を手に取る動機までこちらが指図する権利も、また意味もないだろう。当然、私だってその作品を手に取った動機をつべこべ言われたくない。まあ訊かれたところで、「良いと思ったから」くらいのことしか言えないが。

これに限らず、みな他人にあまりにも興味がありすぎるのではないかと、つとに感じているのだが……。

話を戻すと、このニュースでは種類別の店頭売上の各月前年比がグラフとなって掲載されている。件の出来事において、「鬼滅が客寄せパンダになってくれたおかげで書店に人が集まり、他の本も売れるようになった」とあまりにも明け透けな、せめてもうちょっとオブラートに包めばいいのにと思わされる言葉遣いのツイートで多く「いいね」を集めていた書店員などもあったが(無論、私はこの書店員だけではなく、「客寄せパンダ」という揶揄で使われる言葉の使い方を疑問に思わない、そこに集まる無数の「いいね」にも辟易した)、このグラフを見ると、果たしてどこまで「鬼滅」の相乗効果があったのか、大いに疑問を覚える。確かに「書籍」も「雑誌」も、多少はコミックの線と連動しているように見えなくもないが、結局「書籍」はほとんどの期間で、「雑誌」にいたってはずっと、前年を下回っている。もちろん、休業要請等で営業時間が短くなっているなかでこれは健闘なのだ、という見方もできるかと思うが、だとしても「鬼滅」はもう終わってしまったわけで、これではなんの根本的な解決にはなっていないだろう。『呪術廻戦』が「第二の鬼滅」といった言い方をされて、作品へのリスペクトがないと憤っていた人は多く、私も同意見ではあるが、しかし、事実求められているのは「第二の客寄せパンダ」でしかないのかもしれない。

これではただ、「鬼滅」で延命されて、問題が先送りにされただけとも言えるのではないか。

もしかしたら、私はあまりにも意地悪な見方をしているのかもしれない。その可能性は認めるが、弁解すると、私はけっして悲観主義者ではない。いままで出版について書いた文章を読んでいただければ恐らく分かるかとも思うが、むしろ楽観主義者たろうとしているところすらあるくらいだ。しかしそんな私でも、これだけの情報で、手放しに「本屋の倒産が減った! これは良かった! 読書の力、バンザイ!」とは、どう無理をしても言えない。

ここで思うのは、私がこう言うと矛盾していると思う人もいるかもしれないが、あまり読書というものを神格化してはならない、ということだ。

読書の「効果」を称揚する人の多くが、読書によってじっくりと物を考える力が付き、また小説などを読むことで相手の気持ちになったり、多角的な視点を持ってものを見ることができるようになる、そして、本を通して過去の偉い人と対話することで知識が身につく、といったようなことを挙げる。なるほど、非常に明快だ。私も19、20歳くらいまでは、たしかにそんな風にも思っていた。

しかし、これはどうだ。読書好きを自認していると思われる人の多くが、自分の好きなものに関してプラスにとらえられそうなワードが目に入ると、条件反射で喜んでいる。およそじっくりと物は考えてないし、ここに多角的な視点などない。そもそも、大して長くもないこの記事をちゃんと読んでいるのかすら怪しい。見出しだけしか見ていない可能性だってある。しかしその態度は、文人がしばしば批判する「与党支持の大衆」や陰謀論者のそれではないか。いったいどの口が言っているのだろう、と思う。

すなわち、「読書によって知性が身につく」など、幻想もいいところだ。そんなものは人間の思い上がりだ。読書は万能楽ではない。ときには大きな災厄を引き起こしてきたことを、もう忘れたのか。むしろ、このような読書にすべてを委ねる態度こそ、読書に失礼ではないか。

たしかに、読書には人間を大きく変える潜在能力は間違いなくある、と私も信じている。しかしながら、結局は、人間がそれをどうするかが肝要なのだ。結局は人間なのだ。だが、それは当たり前のことである。どんなことでも、それをする人間がいる。生かすも殺すも、その人間の行い次第である。それだけは忘れてはいけない。

 

と、ちょっと言葉が強くなってしまったが、正直なところ今現在、私はけっこう冷静だ。傍から見れば醒めているようにも思えるかもしれないがそうではなく、しかし、これらの事象に、それほど熱くはなっていない。とにかく自分の視座を確立すること。それだけを考えている。

そんななかで、私はいま、本や出版に関する本に強く興味がある。こういった出来事の数々を目の前にして、自分なりに考えるための武器を求めているからなのだろう。

 

(矢馬)