ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ11(あっという間に過ぎ去ってしまった「希望と喜び」の議論と、潮流からの訣別)

7月24日

実は、直木賞の選評を巡ってのごたごたについて思うことがあったので、それなりの分量を使って記事を書いていた、いやほぼ書き終わっていた。だが、いま公開するのはやめることにした。

SNS、ことTwitterは文字数のこともあってか、どうにもみな、簡単に物事を断言してしまう傾向がありはしないか、と常々思っていた。たとえば今回のことで言えば、「文学とは」などという、どんなに議論を尽くしても共通の解は得られない、得られるはずのないテーマについて、随分と簡単に「正解」めいたものをなんの疑いもなく言い放ち、他者の文学観をとりつく島もなく程度が低いと切り捨てて嘲笑し、勝ち誇ったかのような空気が、非常に気持ち悪かった。また、「べき」論にたいして別の「べき」論をぶつけているという意識の乏しさには愕然とした。

予め言っておくと、私は件の「文学」というものを諸手を挙げて賛成はしない。が、そういう考えがあることは否定しないし、できるようなものでもない。文学観というものは、はっきり言ってしまえばその人の好みに拠るところが大きい。そして、好み自体に貴賤はない。これが好きな人は高尚で、こんなのが好きなのは低俗、などという振り分けは、鼻持ちならない選民意識に他ならない。ところで、選民意識とはリベラルを自称する文化人が嫌いな言葉ではなかっただろうか。

また、この選評にたいして、「さすが美しい国の文学」だとか言って賞賛された某文芸誌の編集長もいた(また、その自分のツイートに対し、「引用リツイートするときにはそれがトーンポリシングになってないか考えてください」などとつけ加えていることなどは、批判すること自体を抑制させた同出版社の柳田國男の文庫本の帯の出来事を思い出した)。ほかにも、「希望を与える」というところに、オリンピックの話を持ってきた人はかなり多かったが、これは本当に思慮した上での発言か。ともすれば、これは牽強付会、あるいは自分の反政府、反オリンピックを補強するための我田引水になりかねないのではないか。直木賞とはいえ、ただの一文学賞にすぎない。そんなたかが一文学賞の一選考委員が、自分の文学観を議論の場で問題提起として語るのは許さないのに、自分は己の主義主張を押し出すために「文学」というものを利用するとは、矛盾とも取られかねないのではないか。

しかも、この選考ではかなりの激しい議論の末、件の作品には賞が与えられたのだ。だとすればなおさら、今回のことで、その選考委員の文学観にも変化が生まれたかもしれないではないか。私は基本的に文学観の貴賤など認めるつもりはないがそれは措くとして、結果として、彼らが言う「程度の低い文学観」から「高尚な正しい文学観」に変化し始めたとすれば、それは喜ぶべきことなのではないか。人は最初から正解にたどり着けるわけではない。それは高名な作家も同様だ。第一、文学や芸術などというものは、一人の人間の人生で極めることなど、到底無理なものだ。100冊の本を書いて、1万冊の本を読んだとしても、だ。その道程にある者の意見を、たまたまその先についた(もちろん、その「先」という概念からして私は疑問だし、その文学観もまた先人たちが築いてきた数あるなかの一つの文学観の恩恵に与っているだけでは、と思うが)者が低水準だとして嘲笑するのは、あまり趣味が良いとは思えない。また、今回話題になたフレーズは、3時間の議論を林真理子がまとめたものをさらにまとめたものの、さらにほんの一部分のもの過ぎない。そこだけを切り取って一人の人間の意見を批判するというのは、あなたたちが一番忌み嫌ってきたことではなかったのか、と問いたい。

最後につけ加えると、「文学観」なるものは時代によっても容易に変わる。そんなことは100年ちょっとの日本文学史を見てみるだけでさえ、分かりそうなものだ。いや同時代においてさえ、プロレタリア文学対既存の文学(「ブルジョワ文学」)なんて対立もあった。主義主張によっても「文学」なんてものは平気で変わる。

今回は直木賞だったが、それに対して、やれ芥川は太宰はカフカは文学じゃないのか、といろいろな名前が挙げられたが、それらを文学として見なしているのは大文字の「文学史」でしかないではないか。べつにこれらの作家を文学と見なさないことだって可能だが、しかしそれを疑う気配はない(また、これらの作家の作品に「希望と喜び」を感じることだって自由だ。多くの人が、これらの作品に「希望と喜び」を感じる読みの可能性を言外に否定し、また「希望」と「喜び」という言葉を拡張して考えてみて、この言葉の持つ意味の可能性を見つめてみようという姿勢を見せなかったことは、非常に残念だ)。結局、自分が挙げる名前は「当然文学である」、少なくとも「文学ではない」と言われることなど到底考えていないから、自信満々でこれらの名前を出せるのだ。しかし、それは既存の権威に依拠しているだけではないか。本当に自分で感じたのか。いや、完全に他者の評価に縛られない評価など不可能だから、それらの文学だと思うことは別に構わない。ただ、そこに無自覚と感じられるものが多すぎた。大体、文学界隈というのは支配的なものがかなり嫌いである一方で、大文字の「文学史」を案外素朴に認めている節がある。ゆえに、たとえば出版人のような「文学史」にほとんど記されない人物たちのことが非常に軽視されている状況など、然もありなんと思わされる。

さらにいえば、これらはむしろ芥川賞側の名前であり、せっかくなら直木三十五や中里介山や菊池寛や(芥川賞受賞者だが)松本清張や山崎豊子、源氏鶏太や東野圭吾のような名前を挙げて欲しかったし、そうするべきではなかったか。ところがこれが挙がらないとなると、それもまた狭い文学観による見方をしてしまっていることの証左になるだろう。これに対して、あとから名前を挙げても意味がない。なぜ最初に大文字の「文学」の書き手の名前を多くの人が挙げたのか。それについて考えねばならない。それにしても、当時あれだけ売れた菊地寛の作品が、いったいいまどれだけ読まれているのだろうか。そのような作品は幾多もある。繰り返すが、「文学」なる評価は、このように短期間でも大きく変わりうる(もっと言ってしまえば、今回の「希望と喜び」という、たしかにいささかふわっとした、脇が甘いと取られてもやむを得ないかもしれない言葉に、しかしこれほど過剰に反応した「文学観」もまた、オリンピックのゴタゴタなどによって作られた「文学観」だとも言えないだろうか)。

それにしても、たかが直木賞にこれだけ振り回される「文学」とやらも、あまりにも情けない。当たり前だが、芥川賞・直木賞が日本の文学を決めるわけではないし、その象徴でもない。第一、世の中にはこんなに多くの本があって、ほとんどのものが芥川賞・直木賞を取っていないどころか、最終選考にノミネートもされないのだから……と思うのだが、どうやらそうはなっていないようだ。いったいいままでなにをやってきたのか、と愕然とする。結局、日本の文学を芥川賞・直木賞にずっと預けてきたのではないか。

……結局、少し話してしまった。他にもまだまだ思うことはある。結局自分に都合のいいものはソースに当たらないのか、とか、「児童文学ならいいが」という身も蓋もない矛盾を恥ずかしげもなく書いたものなど、本当はこれよりもずっと多くの分量で思うところを書いていたのだが、しかしもう数日もすると、ほとんどこの話題については話されておらず、やがて「ルックバック」に支配されていた。なんだ、こんなに真剣にこの問題について日をまたいで考えているような人はいないのか、と急にばかばかしくなって、公開するのは止めることにしたのだ。しかし、その「ルックバック」についてさえ、数日もすればずいぶんと議論は下火になっていた。きっと、いまはオリンピックの開会式について話していて、もう何日もすればそれすら語られていないことだろう。

現代社会において、「文学」とは随分と時間がかかる表現方法だ。しかし、それに関わる者たちがこうも時流に流されている目の当たりにすると、果たしてそういった人々が語る「文学」とやらに深みがあるとは思えない。もちろん、だからといって無視していいわけではないのだが、しかしこちらがじっくり考えて意見を述べようとすると、向こうはもうそっぽを向いてどこか別のほうに走っているという状況はまさに暖簾に腕押しといったところで、気勢も削がれ、意気阻喪にもなるというものだ。

そんなときだった。私は一連のことを騒動の翌日くらいに少し長い分量でツイートしたのだが、これにはまったく反応がなかった一方、2年前にぼそっと呟いた、しょうもない(が、自分としては小さくない発見)ツイートに突然反応があった。それも、ピンポイントで検索しなければ絶対に出てこないようなもので、これは非常に驚いた。

変な話だが、私はこの対比に感動した。皮肉でも大袈裟でもない。本当に感動したのだ。

そうだ、私が求めていたのはこの時間の幅、そしてこだわりの深さだ。まさかTwitterという、それとは対極にあるメディアでそれを思い出させてくれるとは思いも寄らなかったが、しかし、これで決意は固まった。やっぱり私はこの方向で行こう、と。

ちなみに、私は今回話題になった直木賞受賞作を読む気はいまのところない。直木賞にそこまで特別なものを感じていないのもあるが、なにより単純に興味が湧かない。私はああいった作品があまり好きではないのだ。