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フィルムパックについて感じたこと

4月の講談社文庫、講談社タイガの新刊から、フィルムパックが実施されることになった。この前、改めてその光景を書店で見てきた。やはり違和感は拭えなかった。少なくとも私はいまのところ、フィルムパックに包まれた本はいままでほど、「書店で気になったから買ってみよう」とは思えないだろうなと思った。

 

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詳細はこちらを見てもらいたいが、現状、私としてはこの方法については基本的に反対だ。もっとも、なぜこのような手段をとったのか、その事情はなんとなく推測でき、気持ちは分からなくもない、とはいちおう言える。 とはいえ賛成はできないし、それだけの理由ももっている。

 

まず困るのは、多くの人が言っているように、書店で中身をちらっと覗いたり、奥付を確認することができなくなる、という点だ。発表当初の反応を見ると「中身」や「文体」について話している人が多いようだったが、私としては同等か、あるいはそれ以上に「奥付」が見られなくなるのが厄介だ。その本がいつ刊行されたもので、それが何刷なのか。本を選ぶとき、この情報がかなり重要になってくる場面もあるのだ。もちろん、刊行年はその場で検索機やスマホ等で検索すればいい話かもしれないが、その度に検索機に行くのは面倒だし、そもそも書店は、店内でスマホを使って書籍について調べるたりすることを良く思っていないことも多い。内容をメモするデジタル万引きや、アマゾンマーケットプレイスなどでより安く買えるものを探すのに使われることもあるからだ。かたやスマホで検索するしかないが、かたやスマホで本のことを調べることは出版業界を縮小させる、という論がある。この不一致感が、なんだか気持ち悪い。第一、出版時期を調べるために書名で調べれば頭のほうに出るのはAmazonの商品ページであり、だったらAmazonで買えばいいし、なんだったらマーケットプレイスでより安く買うこともできるかもしれない。やっぱりちぐはぐな感じが拭えない。

この点については、書店で1部だけパックを剝がして立ち読み用を用意することを推奨する、とあるが、まだ一部の新刊に限られている内はそれでも良いかもしれないが、これが長く続いたとき(というより、当然続けることが前提だろうけど)、1冊を棚差しする本についてはどうするのか、という問題がある。1冊しかない本のために見本をもう1冊用意するというのは、スペースにおいても資材においても無駄だろう。だからといって、たくさん売れる作品や新刊だけに見本を用意するというのも、多様性を謳う出版業界としてはいかがなものかと思う。

たとえば、「新刊以外はある程度情報があるのだから、見本は要らないのでは」という意見が考えられるかもしれない。だが、書店の良いところは時間を隔てた本同士が同じ立場で書棚に並ぶところにある。考えても見て欲しい。再版、改版があるとはいえ、初版が昭和の時期の本ですらまあまあ置いてあり、しかもアンティーク的価値があるわけでもない小売店など、なかなか珍しい。これはまた本そのものの特徴でもある。古い本でも、その人にとってはなによりも新しい、という経験は往々にしてある。それを、「古いものはみんな知っている、調べられるから」という理由で差別化するとしたら、いよいよ今の時代における本の強みは失せる訳で、これは緩慢な自滅だろう。それこそ、内容を知っているのならばネット書店でいいのである。ネット書店の方がいい、と言ってしまっても構わないだろう。フィルムパックは本を立体から平面に押し込み、もはやそれはサムネイル画像とあまり変わらない。

この点に関し、「ネット書店を使えるのは、通信デバイスを所有できる人間に制限される。書店は、そういった手段を持たない人(たとえば子どもや情報機器に疎い高齢者、様々な事情でクレジットカードを作ることが難しい人)のためにも存在する。だから、どんな風になっても書店は必要だ」という意見が考えられる。私はこの意見に賛成だが、そもそも「古いものはみんな知っている、調べられるから」という発想自体が、そういった事情を持つ人をすでにして度外視しているのである。このフィルムパックは、回り回って書店という「場」を捨てることになりはしないか、と危惧している。

最後の方は少し、「長期的に見たとき」という面に入ってしまったかもしれない。余談だが、今回の講談社について「プラごみ削減を推し進める世の中において、それに逆行するものだ」という意見も散見された。一理あるが、そもそも例のポリ袋有料化は海洋プラごみ問題の対策として打ち出されたものだったが、全体に占めるポリ袋の割合は非常に小さいものであった。書店なんかよりもずっと多いコンビニやスーパーから出るものでその割合だったのだから、斜陽産業である出版の、いち出版社の一部のレーベルの本だけで済むのであれば、根本的な問題にもならない気がする。もちろんプラごみは可能ならば減らすべきだし、いち企業としては、環境に配慮していますというアピールは経営努力としていまや必須なのでは思うが(もっと大きなことを言ってしまえば、私はあらゆることにおいて欧米の施策・思想が「先進的」だとは必ずしも思えない)。しかしながら、それを言ってしまえば製作段階から紙を大量に使う出版業界は、どうあがいても自然に負担をかけてしまう産業のひとつだと思わないでもない。というより、まず出版業界がすべきは、いまの無駄に多い新刊出版を適正量まで減らしていくことではないだろうか……。

 

無論、このフィルムパック化の理由も分からないではない。

ひとつは4月から始まった「総額表示義務」。

それまで本やCDについては特例として税別表示が認められていたのだが、4月からはその特例が認められなくなった。いままでは「本体1400円(税別)」とできた表記が、たとえば「定価1540円(本体1400円+税10%)」といった表記をしなければならない。もちろん、「定価1540円(本体1400円)」とか「定価1540円(税込)」でもいいのだが、こと出版物においては、それでは後々厄介なことになりかねない。

つまり、消費税の税率が変わればその表示が使い物にならなくなるからだ。出版物は息の長いものである。一方、1989年に導入されてから、消費税はもう3回も税率が変わっている(3→5→8→10(一部軽減税率で8))。この状況では、数年後にはまた税率が変わるかもしれない。そのとき、(+税10%)としておけば、「これは税率10%のときの表示ですよ」と主張することもでき、とりあえず、回収してカバーをかけ直したり、シールを貼ったりしなくても済むかもしれない(そのあたりのことについては詳しくないから間違っているかもしれないが)。そもそも、私は総額表示については消費者にとって利便性が高いのは分かるが、消費税とはあくまで消費行為にかかる税金であり、その「モノ」の価格ではないのであって、よくよく考えればおかしいのではないかと思っている。また、よしんば総額表示を、本やCDなど商品自体に金額を印字する必要がものを含めたどんな商品にも適用するのであれば、そんなにぽんぽん税率を変えるなと主張したい。税率の変更こそが消費活動を阻害する面もあるのではないか。

話が逸れたが、ではすでに刷ってしまっている本についてどうすればいいか、という問題に出版界は直面した。わざわざカバーを刷り直すなどは、少部数の本についてはあまりにもコストに見合わない。すると、絶版するということになる。事実、消費税導入だったり、バーコード印刷義務化だったりで絶版になった本は少なくないのだとか。

その点で、この講談社の一手はひとつの方法とは言える。つまり、フィルムパックの方に総額を表示したシールを貼ることで、すでにカバーに印刷された情報をカバーする(駄洒落ではない)ことができる。しかも、講談社はすでにコミックにおいてこの方法を用いているので、同じ作業工程を利用すればすぐに対応可能。わざわざ新しいレーンを用意する必要はない。

また、日本の出版においては委託販売制度がある。書店は取次を介して出版社から本を預けられているのであり、一定期間内であれば返本ができる。その箱詰めや輸送、あるいて店頭に並べているときに客の不手際でカバーが汚れたり破れたりするケースが少なくない(いわゆる「ヤレ本」)。そういったものはカバーをかけ直したり、小さい汚れなら取ったりしなくてはならないが、このフィルムパックなら、そういったことも少なくなる。むしろ無駄の削減である。

また先ほどの記事では、コロナ禍において、他人が触れたものは買いたくないというニーズがあり、それにも応える目的がある、とあった。これについては……まあたしかにそういう声もあるのかもしれないな、と言っておこう。いや、理解はできるし、そういう声があるだろうし、理由のひとつだとも思うのだけど、どうにも取って付けた感が拭えない。たぶん本心はここではないだろう、と考える(第一、それなら先の「1部見本」とどこか矛盾する気がする。これだとより多くの人が同じものを触ってしまうではないか)。

あと、それこそこれはデジタル万引きの防止にもなる。良識ある人は驚くかも知れないが、書店で本の中身をカメラでカシャカシャ音を鳴らしながら撮る人は、それほど珍しいわけでもない。ということは、無音カメラで撮っている人もいるわけで、するとそれはかなりの数になるのではないか。本を開けないのだから、中身を撮られない。合理的だ。もっとも、立ち読みによる売上減の防止という点は、こと文芸書においては疑問もある。というのも、コミックスは立ち読みされてしまうと、1巻30分くらいで読もうと思えば読めてしまうものもあるし、紙もザラ紙を使っていることも多いので汗や皮脂で波打ったりと、いろいろと問題があるが、個人的な感覚として、文庫本1冊を立ち読みで読み切るのはちょっと大変な気もする。

 

と、いちおう擁護もしてみた。しかしながら、冒頭でも述べたように、基本的には私はこの方法に反対だ。やはり、これは書店という「場」を捨てる序章になりかねないのではないか、と思うからだ。

考えてもみて欲しい。フィルムパックに入った文庫本と、同商品のAmazonの商品ページ。どちらの方が情報量が多いか。

フィルムパックの文庫から得られる情報は、表紙、キャッチ文、価格くらいのもの。一方Amazonなら、これらに加えて電子版、マーケットプレイスの中古本の情報、著者紹介、刊行年月、ページ数、レビュー、著者の他の作品、そして多少の試し読みもできる。正直これなら、私なら圧倒的にAmazonを選ぶ。

しかしフィルムパックがなければ、著者紹介などは袖などで確認できるし、加えて手触りや版組、自社広告、(あれば)解説なども確認することができる。これでようやく、かろうじてAmazonとトントン、言えるくらいだ。

そうこうしてパラパラめくっているうちに、はっとする一節に出会ったり、なんだか妙に気になってきて手放しがたくなったりして買う。いま書店が書店としての「場」を固持するのならば、そういった事件性こそが最も重要なのではないか。フィルムパックは、この事件性を削いでいるように思えてならない。

最後に、コミックスでやっているのだからいいのではないか、という意見も考えられるが、これに対して、思うところを挙げておく。

コミックスの方が立ち読みがしやすい、紙の質の問題などの理由は先に挙げたが、ほかにも、コミックスは表紙が、たとえば小説などとくらべるとかなり作品の内容を表現していると感じられる。つまり、表紙そのものが持つ情報量がまったく違うのであって、単純に同一視はできないのではないか。

このように、作品、あるいはその本の性格を考慮することはますます重要になってくると思われる。

 

(矢馬)