ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ12(修正について)

8月9日

ようやく「ルックバック」を読んだ。

配信開始当日から、嫌でもその存在は知っていたのだが、ものすごく話題になっているものはすぐに手を出す気にならない、といういつもの悪い癖が出て、また、その後にいろいろとこの作品について語るツイートが氾濫したことから、読む前からなんだかもう読んだ気になってしまったところもあって放置していたところ、気がついたら「修正」が入ってしまって、元のものが読めなくなってしまった。

だったらもうどうでもいいか、と思いはじめてもいたのだが、この問題について真剣に考える人たちと話すなかでいろいろと思うところもあり、ようやく重い腰を上げて読むことにしたのだった。

まず作品について言うと、これはあまりにも皆が絶賛するから身構えてしまったためなのかもしれないが、確かに巧みだとは感じるが、皆がこぞって大絶賛するほどなのかな、という印象は禁じ得なかった。これは、京都アニメーションの事件の追悼の含意を差し引いた上での感想だが、含めた場合には私の評価はもう少し落ちる。もっとも、こればっかりは個々の好みにもよるので、これ以上深掘りはしない。

だが、やはりこの修正については疑問を覚えた。

まずそもそも、集英社が発表し、修正版の「ルックバック」の先頭ページに載せられている文言だ。これはこの作品に限らないのだが、このような修正に際し、「こういった声があって検討した結果、一部修正しました」だけでは不十分だろう。このような意見があり、検討の結果こういった箇所がこのように問題があり、かつ修正の必要ありと判断し、ここをこのように直しました、という説明が最低限必要なのではないか(もっとも、私は修正もせず、註の形で経緯をしっかり説明することがベターだったのではないかと考えるが)。まして今回は電子での配信だ。修正されたら、グレーな方法を使わない限りは元のものが読めない。ただ「修正しました」だけでは、どこのことかさっぱり分からない。これでは臭いものに蓋をする、という態度だと取られても仕方ないのではないか。

事実、今回のことで直されていない箇所について、だったらこの箇所については問題がないと考えたのか、という声がある。少し意地悪なようにも思うが、理はある。これも、場所を明示すればまだ違っただろうに。結果的にそのような声を生んでしまう説明だったと言わざるをえない。

また、これについては深追いはしないが、この修正はやはり元の作品のメッセージを減ずる気がしてならない。これでは、わざわざ事件のあった日に満を持して上げた意味が分からない。これについて、抗議の声によって表現を変えられたという皮肉にもなっている、というアクロバティックな擁護もあるが、だとすればやはり修正の経緯を明確にしなければ、あとから読む者がかならずしもその経緯を知っているわけではないのだから、一過性のもので終わってしまうではないか。Twitterで話題になったから皆知っている、などとの考えは傲慢だ。Twitterの呟きを「世間の声」と見なすのは、怠慢な大手メディアだけでもう充分だ。もっとも、その瞬間だけで共有できればいいと作者も版元も考えているのならば、それでもいいのかもしれないが。しかし、このメッセージの可否はともかく(実のところ、私は完全には賛同できない)、少なくとも私には、もっと切実なものではなかったのかと思われた。

今度単行本になるそうだが、この点についてどのように対応するのかだけは気になる。大方、今回付した説明文をそのまま付けるだけだろうが、もしも、より詳細な説明を付し、版元のみならず作者の言葉も載せられることになれば、私はとりあえず一定の評価はできるだろうと思っている。

だが、なにより納得がいかないのは今回の修正が、あまりにも雑だったことだ。

本来あまり良くないことだとは思うが、Twitterには修正前後の比較画像がある。それを見たのだが、とくに殺人の動機の報道が「作品から自分を罵倒する声が聞こえた」から「誰でもよかった」に変わったところだ。元は新聞記事の一部を切り取ったコマになっていた。これが修正後は、ただトーンの上に字があるだけだ。それもあきらかなデジタルフォントで、周りのコマから異様に浮いている。上から貼りました感満々だ。

本当に問題があると思ったのならばちゃんと修正すれば良かったと思うし(それだけの時間もあったように思う)、深読みすれば、明示はしないけど、ここのコマを直されたのですと暗に示しているのだとすれば、良く言えばまあしたたかだなと思った。

やはりこの修正には納得していないのかもしれないが、そんな風にするくらい納得していないなら直さなければいい。発表とは、本来いかにしても取り返しの付かないものである。この「取り返しの付かなさ」が、多くの表現者に発表をためらわせる。私は、そういったためらいを一切覚えないのならば、表現者として失格だと思う。その責任を負うこともまた、発表者の責務である。

しかしこれでは、それこそ、言われたから直しました、という態度が見えてきてしまう。その程度の覚悟で、まだ日の浅いあの凄惨な事件を作品に取り込んだのか、と呆れる。それならまだやめておけば良かったのに、というのが、甘いのかもしれないが、私の正直な感想だ。現実の事件を取り込むというのは、それだけ難しいことなのだ。また、今回のことで「フィクションと現実は違うということが分からない人のせいで〜」というお決まりの擁護が多く見られたが、少なくとも、現実の事件を取り込み、そしてその文脈で評価されたこの作品についてそれを言うのには無理があるのではないか。そもそも、現実と接続しないフィクションなんてものが存在するのだろうか、と思うし、たとえば現代文学など、いまやそんなものばかりではないか、と思うのだが。作者を擁護したい気持ちはわかるのだが、それならもう少し筋の通る擁護を選んだ方がいいと思った(そもそも、作品が好きだからといって著者のすべてを肯定する必要もないと思う)。

なによりそれこそ、あの作品は「表現」というものをかなり神格化していたではないか。私はそこにまずもって賛成できないのであるが、しかしそう思うのであれば、やはりそれを訴える作品は「表現」に誠実であるべきではなかったのか。残念ながら、この修正から、私は誠実さを見ることはできなかった。

結局、このタイミングで修正を発表したのも、やや忘れられたところでもう一回話題に上るタイミングをはかっていたからではないか、という邪推を否定しきれないものになっており、最初からただ話題になりたかっただけなのかな、と思えてしまうことが、扱うテーマ自体には非常に関心があったからこそ、本当に残念だ。単行本での誠意ある対応を望む。

 

(矢馬)