ソガイ

批評と創作を行う永久機関

秋文フリ不参加のお知らせと、次号について。(近況報告あり)

11月23日に開催予定の第33回文学フリマ東京ですが、新刊がないこともあり、今回は出店を見送ります(矢馬については、他のサークルに作品を寄稿するかもしれません)。

来年春の新刊刊行を目標に、活動を続けていきます。まだほとんど動き出せていませんが、暫定ですがテーマは決まっています。(既刊はBOOTHでも購入できます)

sogai.booth.pm

 

 

第7号のテーマは「デビュー作」です。

 

どんなに偉大で、多くの作品をものした作家であっても、デビュー作は一つしかない。また、一般的にデビュー作というのは荒削りであったり、未熟であったりするものだが、それゆえにその作家の原石のようなものが詰まっていることもある。

完成度ではその後の多くの作品に劣るであろうその作品に目を向ける。きっと、そこには数々の「失敗」もあるだろう。しかし、私はいま「失敗」にこそ興味がある。

だれも、失敗したくてしている人はいない。成功を目指して、あるいは、少なくともそうすることが良いと感じたために取った方法が、結果的に失敗に結びついてしまう。意に沿わぬ結果として生じてしまった失敗。ここにもまた、荒削りな本質が潜んでいるように感じる。

発表が容易になった現代、もちろん良い面もある一方で、一つにはこのような「失敗」がしづらくなったように感じる。

しばしば、現代文学の堕落といったようなことが言われる。昔の方がよかった。つい私もそう口にしてしまうことがあるのだが、言うまでもなく、たとえば近代文学の方が質が高く思えるのは、時間の中で淘汰され、そういったものしか残らなかったからだ。

現代文学から距離を置いている私が言っても説得力はないかもしれないが、現代文学は平均して質は高くなっているのではないかと思う。アマチュアのなかにも、個人の活動でそれなりの注目を集め、やがて商業出版に引っ張られることも多くなった。プロとアマの垣根が、近代文学とはまた違った形でなくなってきている。

ゆえに、読み手も書き手も、それなりに質の高い作品に慣れて、荒削りの作品は相対的に悪い方向に目立ってしまう。また、感想のような文章も簡単に発信できる環境ができたことで、匿名の心ない批判に即時に晒される可能性も低くない。ゆえに、発表を躊躇わせることになる。井の中の蛙でいることができない。

しかし、本来デビュー作というのは「井の中の蛙」の特権だ。

デビューにより、蛙は井戸の縁に立ち、目の前に広がる大海原の広さ、その迫力に戦き、絶望する。しかし、それでいい。一度そこで立ち止まって、やがてその脚で飛び立てばいい。

その点で、前号のテーマ「青春」と地続きになっているのかもしれない。青春の痛さ、青臭さとデビューの怖いもの知らずの蛮勇。成熟に至る前の未熟な時期にあるものを見つめてみたい。

 

以下、近況報告。

お察しの方もいらっしゃるかもしれませんが、私矢馬は、現在、絶賛スランプです。なかなか文章を書く意欲が湧かず、アイデアが固まってようやく書き始めたかと思えば、その筆も持続しません。

私は一人でいることが好きな人間だと思っていました。事実それはそうなのですが、やはり人と会わないことが、どこかこの無気力に影響を及ぼしているようにも感じます。人と会っているときは、自分の体の中と外との言葉の行き来が調っていたのかもしれません。いまはその流れが滞り、空気が澱んでいるのかもしれない。だから言葉を出そうとすると、余計な力が掛かってしまう。そんな緊張は長続きしません。この期間、出版業界においても様々な問題、事件が起きました。その一部については思うところを書きましたが、書いていないことについても、私はかなり怒っていました。その激情もまた、充分に吐き出されることなく不完全燃焼している。

いまは、とにかく力を抜いてみようと思っています。具体的には、エッセイ(=試論)となる短文を積み重ねてみています。これもまた長続きしないのですが、あまり気にしないことにしました。なんか書けそうだな、と思ったときにちょっとやってみる。この文章については、とりあえずのところ発表の予定はありません。文庫本にして150頁くらいの分量になったら、ちょっとした本にして30部くらい刷って(手製本でもいいかもしれない)、友人などに配ってもいいかなとはおぼろげに考えています。

読む本についても、実のところ「出版関係のものを読もう」と肩に力が入りすぎていたきらいがありました。いまはあまりそういうことも考えず、気分にまかせて読みたい本を読んでいます。小沼丹を再読したのですが、やはり良い文章だと思いました。また、積んでいた野呂邦暢『愛についてのデッサン』も読み始めました。近頃小説を読んでいなかったのですが、とても好きな作品になりそうです。なんでこんなに愛着が湧くのだろうな、と考えていたとき、そういえば自分が、堀江敏幸『いつか王子駅で』が好きなことに思い至りました。『愛についてのデッサン』の古本屋店主を視点人物とした語りと、『いつか王子駅で』の語り手。古く、そして半ば忘れられている作品を携え、しかし作品そのものには過度に入り込まないあの距離感が、私にとって心地よい語りなのかもしれない。たとえば小山清「落穂拾い」もそうだ。偶然かもしれないが、どの作品でも古本屋が重要な役割を果たしている。これは些細な、でも大きな発見でした。

現代小説でも、実在する書物を引用する作品はしばしば見られます。ちゃんと読んでいる訳ではないのですが、私にはどうしても、それが露骨すぎるように思われてしまうことが多かった。引用した作品に自作が飲み込まれているというか、自作が、その引用書の解説文みたいになってしまっているのではないか。具体的な書に限らず、小説が、ある思想や社会問題の解説書であるかのように感じてしまう。無論、そういった作品の需要はあるのだろうが、私はその向きに関心はない。それは「漫画で分かる○○」といったい何が違うのだろうか、と思ってしまう。

私はいま、「○○の自由」という言葉に慎重になっている。まさに「読みの自由」という言葉が問題になっている。たしかに作品はどのように読んでも良いのだが、しかしその「自由」という言葉があまりにも無邪気に利用されていないだろうか。これは当然、「創作の自由」「造本の自由」「表現の自由」などにも当てはまる。はたして「自由」とは、なにをやってもいい、という意味なのだろうか。まだ明確に言葉にはできない。しかし、疑問に思っている。その「自由」は、ともすれば「無秩序」になっていないだろうか……。

とにもかくにも、私は近々小説を書き始めると思う。「本」を中心に据えた作品を書こうと思っている。それも、いったん自然な形で書いてみるつもりだ。先日、数年前の自分の作品をいくつか読み直す機会があった。無論恥ずかしさもあるのだが、我ながらなかなか良いじゃないか、と不遜にも感じた。しかし、いま同じクオリティのものを書ける気が、まったくしなかった。それは、やはりどこか余計な力が入っているせいだと思う。

それと並行して、新刊に向けてゆっくりと動きだす。その流れで、〈封切〉叢書を一冊出せればいいな、とも思っている。