ソガイ

批評と創作を行う永久機関

「本屋」の包容力

「本」というものが指す範囲は広い。

とりわけ日本では本と雑誌の境界すらかなり曖昧だ。漫画雑誌を求めて「本屋」に行くなんてことはありふれている。

そして、読んで字の如く「書を読む」という「読書」もまた、本を読むことから雑誌、あるいは漫画や新聞だってその範囲に含んで不合理なことはない。もしかしたらこれからの時代は、ブログを読むことも読書とするコンセンサスが醸成されていくのかもしれない。

しかし、このようにこれといった定義がつくれないからだろうか、自身のアイデンティティを守るためにかいわゆる「読書家」のなかには、これは読書であって、これは読書ではない。あるいは、これは文学だが、これは読み物に過ぎない。果てには、これは必要な本、これは不要な本。このような選別をわりと簡単に、そして不用意にやってしまっている例が多く見られる。

気持ちは分からなくもないのだが、このような選別は容易に自分に跳ね返ってくるということへの意識があるのかどうか。

たとえば、「自己啓発本は読書ではない、不要な本であり、それよりは小説を読んだ方が有意義だ」という言説は、どうやら「読書家」には概ね喜んで受け容れられているようだ。どうにも「自己啓発本」憎しから出ている発言だとは思うが、しかしこのような考え方は「ラノベは小説ではない」「エンタメ小説は読み物」「古典を読まなくてはだめだ」といったように、その範囲でそれぞれヒエラルキーが作られることに繫がる。そしてその度に、その下に格付けされた本の愛読者は反発する。このような光景はよく見られる*1

このような格付けにいったいどれだけの意味があるかは甚だ疑問だが、それ以前に、このような心性は出版の本義からはかけ離れているだろう。出版者や文学者、読書家はしばしばそこに多様性や想像力の醸成を主張するが、これはむしろ真逆の行いではないだろうか。

これとは別件で、「薄っぺらい」自己啓発本やビジネス本で溢れる普通の本屋に違和感を覚え、理想の本屋(これが社会通念上の理想なのか、自分にとっての理想なのかが少しわかりづらかった)を作る人のインタビューが話題になっていた。

gendai.ismedia.jp

私はこの店のすべてを否定しようとは思わない。言っていることには一理あり、なかなか参考になる記事だと思った。

ただ、街の普通の本屋を「本をよむ人にとって、からっぽの本ばかり並ぶつまらない場所」と言ったときの「本をよむ人」に、やや選別の意識が垣間見えた。無論、事業を興す上で顧客層を絞るのは当然のことである。しかし、皆が同じ本に意味を見出すわけではなく、自分からみてからっぽでも、ある人にとっては意味があることもある。編集の結果かもしれないが、インタビューの内容を鑑みても、これは少々不用意だと感じた。そういったところに反感を覚えた人に、批判的に言及された。その立場の意見も、私にはよく理解できた。

それにしても、ある店が文学や学術系ばかりを置いても良いが、全ての書店が「意味のある」それらの本しか置かなくなったら、それはそれで息苦しそうだ。

 

もちろん、個々の好き嫌いはある。また、明らかに特定の人種や人物を毀損することを目的にした本に対しては、厳正に当たらねばならないだろう。だが、先日の自己啓発本叩きはちょっと異常だった。たしかに自己啓発本はやたら嫌われている印象もあり、私もそこまでいい感情は持っていないが、自己啓発本を十把一絡げに、これは読書ではない、薄っぺらいものだ、有害な本だ、不要な本だ、とまで断罪することには躊躇を覚える。どうにも、これは叩いてもいいという対象と見なされたがゆえの現象にも思え、それは常日頃「読書家」のような人たちが批判する行いではなかったか、と感じた*2*3

自己啓発本が良くない人間を生む、本自体は悪くないがこれによってマルチ商法に繫がることがある、自分の主張を押し付けることが云々、役に立たない、などと言われていた。牽強付会な論も少なくないが、たしかにそういうものもあるだろう。しかし、それにしてもここでの「自己啓発本」という括りは、あまりにも雑に感じた。

そして、ここで持ち上げられている「小説」という括りも随分と雑だ。

このようなブログを運営している人間が言うことではないかもしれないが、小説にだって薄っぺらいものはたくさんある。「くだらない自己啓発本を10冊読むくらいなら小説1冊の方がためになる」はある場合においては真かもしれないが、ひっくり返しても同様のことが言える可能性は充分あるだろう。また、自己啓発本によって生じるとされるような害をもたらす小説もまた、いくらでもありそうなものだ。

自己啓発本の中でも悪いものを「自己啓発本」という言葉に、小説のなかでも良いとされているものを「小説」という言葉に代用しているのだとすれば、この対比はいささか卑怯な気もした。

 

そもそも、「自己啓発本」が示す範囲はそれほど明確ではない。

先日、中学時代以来に再読した養老孟司『バカの壁』は、見ようによっては立派な自己啓発本でもあろう。エッセイだって自己啓発的要素はあるし、むしろ最近の文学作品には、良い悪いではなく、これがわりと濃厚であるようにも感じるのだが……。

 

www.sogai.net

 

閑話休題。無論、たとえば『バカの壁』をくだらない本だと思うこと自体は自由だ。しかし、この本は大ベストセラーとなったことは事実だ。この他にも、ある自己啓発本が売れる要因を、国民の知性が落ちているからだ、社会が間違っている、などと断じるのは自尊心を保てるうえに楽だろうが、しかしそれはねじ曲がったエリート意識でしかなく、それこそ思考停止に陥っているのではないだろうか。

よせばいいのに、この件についての反応を追っていると、徒労感をおぼえてくる。出版業界がダメになっている、とは確かに自分も言うが、そこには当然のことながら読者も無関係ではないはずだ。

 

 

自分が、駅前のワンフロアでそこまで大きくない、全国チェーン書店でアルバイトしていたときに特に印象に残っている話をしたい。

休日の昼下がりだった気がする。オフィス街のこの店は、休日はけっこう暇でレジ内でのんびりしていた。このようなときはむしろ、早くお客さん来ないかなあ、と待ち侘びている。

そのとき、一人の小さなお客さんがやってきた。台からようやく肩が出るくらいの背丈の彼女が置いた1冊の本は、薄い、インコの飼い方の本だった。彼女の後ろには、少し離れたところに母親らしき人が静かに立っていた。

本を受け取ってバーコードを読み込み値段を告げると、お願いしますと少し恥ずかしそうに言ってカルトンに3000円分の図書カードを置いた。まだ未使用だった。小中学生くらいのお客さんが図書カードを使うことは多い。親戚や学校からお祝いかなにかでもらうのだろう。そういえば私が小学生低学年くらいのころは、まだ図書券だった。そしてここで働いている間に、磁気式の図書カードは、QRコード式の図書カードNEXT に代わった。

この子はインコを飼い始めるのだろう。もしかしたらそれは長い間願っていたことなのかもしれない。自分で責任持ってお世話できるなら、という約束で念願叶い、その準備として、自分で本を選び、レジまで持っていって、そして自分に与えられていた図書カードで買う——そういうことなのではないかな、なんて想像が膨らんだ。

初めて穴が空けられた図書カードを返し、袋に入れた本を渡す最後まで少し緊張していたようだったが、ありがとうございます、と口早に言うと母親の横について、ようやく笑みがこぼれた。

本屋っていい場所だな。このあと、私はしばし感慨に耽っていた。

自分のお金で本を買う、という経験をした少女はこの先、小学校の課題図書であったり、流行りの漫画、部活動の指南本、受験勉強が始まれば過去問や参考書、雑誌を買うこともあれば、少し話は飛ぶが、やがて生涯を共にしたいと思うパートナーができたならば、この店で「ゼクシィ」や子どもの名付け本を買っていくことだってもしかしたらあるかもしれない(事実、この種の本は定期的に売れた)。

ともかく、本屋、そして出版というものは人生のあらゆるシーンにおいて人間を受け容れるだけの包容力があるのだ、そう感じさせられた。本屋は街の風景の一つ、という言葉はこういう意味なのだ。

当然、このなかにはいわゆる自己啓発本だって入るかもしれない。自己啓発本はすぐに効くが、またすぐに効かなくなるとよく言われる。確かにそうだと感じることも多いが、しかし今この瞬間救われたい場合にはそれも効果的で、そして、すぐ効くことそれ自体は一概に否定できないと思うのだが。確かに、内容にかなり問題のある自己啓発本もあろう。しかし、それは他のジャンルの本でも同じではないだろうか。

 

この書店で5年近く働いて、正直なところ、不愉快な思いをすることの方がずっと多かったと思う。万引きやデジタル万引きは日常茶飯事、立ち読みで本を汚したり、平台に放り投げたり、雑誌の上に飲み物や食べ物を置いたり、随分と横柄な態度を取ったり、客注で取り寄せさせて、やっぱりいらないと言ってみたり、あまり好ましいと思えない本に限ってよく売れたり……。少なくとも、「読書家」が言う「良い本」を買う人は態度がいい、といった相関関係は明確には見出されなかった。一方で、何冊もの「ヘイト本」を持ってきた高齢のお客さんが物腰が柔らかく、とても印象が良かったことに戸惑ったこともあった。人間とは、本当に不思議なものだ。

それでも、月に1、2回ほどこの少女のようなお客さんとの出会いがあると、やっぱり本屋は良い場所だ、と思った。

中年の女性にプロレスの専門誌の在庫を尋ねられ、スポーツ雑誌の棚に案内し、なんとか1冊だけ残っていたそれを見付けて手渡すと、少し照れて、これ私の息子なの、と表紙を示されたこと。

テレビで話題になっていたらしい、記憶は曖昧だがたしかベテラン女優の料理本がどこも売り切れていてこの店に来た高齢女性に、これまた1冊だけ残っていたその本を探して持っていくと、「わあ嬉しい!」と私の手を取って喜び、「はやくAmazonの注文を取り消さないと」と言っていたこと。

夏休み前、小さい三兄弟がそれぞれ1冊ずつドリルを持ってきて、母親に「すいませんが、それぞれ別の袋に入れてもらえませんか」と頼まれ、自分の買った本を自分で持って、「ちゃんとやるんだよ」と言われながら帰っていったこと。

お父さんに抱かれた男の子が、レジまで大事そうに持っていた絵本を会計のために(彼から見れば)取りあげられたことで大泣きしてしまい(会計するときに「取られた」と思って慌てたり、なかなか台に置きたがらない子どもはよくいた)、いつもと手順を少し変えてとにかくバーコードを読み込んだら先に男の子に渡してあげたが泣き止まず、謝りながら急いで会計を終えたお父さんが外に向かおうとすると、「ありがとー!」との泣き声交じりの声が遠ざかりながら聞こえてきて、思わずみんなで笑ってしまったこと。

いま挙げた例は、どれも文学の本を求めたお客さんではない。こういった経験があったからだろう。私は、本屋という空間が「本」「冊子」という形態が共通しているだけの多種多様な内容のものが並んでいることにこそ最大の意味がある、と思うようになったのかもしれない。そしてそのうち、私は「小説」ではなく「本」に、そしてそれを作って流通させて売る「出版」に関心を持つようになった。

 

本屋には、おそらく一生自分には無関係であろう本がたくさんある。そして、自分が愛してやまない本もまた、他の誰かにとっては一生無関係の本に違いない。この豊穣さ、あるいは混沌が、かろうじて書店文化を生きながらえさせてきたのではないだろうか。世の「読書家」が必要だと言う本ばかりが作られる状況になったとしたら、おそらくもっと早く、町から書店は消えていっていたのではないか、と想像される。

有名な話だが、終戦後の初のミリオンセラーは『日米会話手帳』だ。極端な話、ためになる文学作品などを頂点に置く出版物のヒエラルキーのなかでは、この『日米会話手帳』が単に終戦後の日本人の良く言えば逞しさ、悪く言えば忘れっぽさや従順さを示す社会的現象として傍流、あるいはサブイベント的に処理され、「出版」という営みを考える上では疎外されやしないだろうか。出版を考える上で、私はそれをあまり健全とは思えない。

 

念の為つけ加えると、私はしばしば、いま本は多すぎると言ってきた。しかし、これはこのような自己啓発本はすべて無くすべきだ、ということではない。たしかに自己啓発本は特にヒットした作品の二匹目のドジョウを狙った、ほとんど劣化版に等しい類書が多すぎる嫌いがあり、それは要らないのではないかと思うが、一匹目から要らないという訳ではない。

むしろ私は、小説があまりにも多すぎると感じている。それに二匹目のドジョウを狙ったような小説もたくさんあるのは、本屋にある程度通ってなんとなくでも棚を眺めていれば気付くはずだ。

『出版指標 年報 2019年版』によれば、2018年の書籍新刊において、「文学」が占める割合は18.2%*4。なかでも「日本文学小説物語」はそのうちの12.4%であり、「日本文学詩歌」1.5%、「日本文学評論随筆」1.5%、「外国文学小説物語」1.8%などと比べて飛び抜けている。詩歌は言うまでもなく、随筆・エッセイも立場が低いなと感じてはいたが、これほどとはと驚いたものだ。しかも点数は、全体が少なくなるなか、「日本文学小説物語」は2014年から2018年まで、前年からほぼ横ばいを続けている。

今回の件で、自己啓発本の類いに小説の領土が侵されているかの如き危機感を抱いていると感じさせる、切羽詰まったものも少なからずあったように感じたが、数で言えばいまでも随分と小説は優遇されているとも言えるのだ(確かに文芸単行本の棚は少しずつ縮小しているようにも感じるが、だからといって自己啓発本の棚が増えたようには見えない。むしろ、文房具などの本以外の商品が増えてきているように感じる)。

もちろん、これらの数字は調べないとなかなか出てこないから知っていないこと自体は責められない。しかし、それにしても不用意な発言が多いな、と改めて感じさせられた出来事だった。

 

少し気になって、インコの寿命を調べてみた。

種によってかなり幅はあるが、セキセイインコは5〜8年とのこと。

すると、もしかしたらあの少女はそのインコの死を経験しているかもしれない。身近な存在の死は、とても大きな出来事だ。その衝撃、自分の感情の動きに動揺するかもしれない。

そんなときでも、本屋は受け容れてくれる。それがどのような形になるのかはわからない。直球で「ペットロス」について書いた本かもしれないし、物語かもしれない。ランニングの本かもしれないし、それこそ、たとえ一時でも前を向かせてくれる言葉が並んだ自己啓発本かもしれない。

もしそのときに彼女が自己啓発本を手に取ったとして、私は「それは無駄な本だ、そんなものより文学を読みなさい」とは言いたくないし、言えない。

自分がなにを求めているのか分からないが、とにかくそこに行けばきっとなにかがある。本屋にはそういう場所であって欲しい、と私は思う。

 

(矢馬)

*1:今回も、「自己啓発本を読むくらいならラノベでも読んだ方がマシだ」といった意見も散見した。この「でも」に、すでにしてヒエラルキーの意識を感じる。

*2:これはいわゆる「ヘイト本」とはまた別の次元の問題だろう。自己啓発本と「ヘイト本」を並列して論じる意見も少なくなかったが、これはずいぶんと雑だなと感じた。

*3:また、これは自己啓発本自体が悪い訳ではないが、リスト化して押し付けるような形が良くない、といった意見もあったが、とはいえ、こんなにも本があるのに、皆が最初から自分で選べるわけでもないだろう。誰しも、外部の声をどこかで参考にして一冊の本を選ぶのである。もちろん経験を重ねればやがて直観で自分の欲しい本を見つけ出せるようにもなるが、そこに行くまでは指南役に頼ることだって間違いではない。また、そこまでいってもどこかで外部の声を感じながら選ぶことにはなるのだから、自分は自分で本を選べている、と言い切るのであればそれは傲慢である気もする。それにそもそも、自己啓発本を読むくらいなら小説を読む方が良い、というのも押し付けではないだろうか。

*4:コミックス単行本はその多くが雑誌扱いであるために対象外。書籍扱いのコミックスもあり、これは4.8%