ソガイ

批評と創作を行う永久機関

DISPLAY BOOK

2022年2月1日に開館予定の中野区立中野東図書館の「巨大本棚」が問題になったことが記憶に新しい。吹き抜けに3階分もの高さがある本棚の写真は、それだけの反応を呼ぶには充分すぎた。その殆どが否定的な反応だったようだ。

もっとも、一言に「否定的」といっても、そのポイントは多数ある。たとえば「取れないところに本を置くことの意味」であったり、「地震対策はどうなのか」、「これを公共施設(=税金を使って)が行うこと」、たとえそこにダミー本を置くにしても「本は飾りではない」など。

それぞれに思うところがあり、本来ならば一つずつ検討していくべきかとは思うが、さすがにそれは骨が折れるので、今回は深くは立ち入らない(それにしても、やはりTwitterはこのような複数の視点で物事を考えるときには不適な媒体だと思わされる。その議論は大抵ワンイシューにならざるを得ない。物事は、ワンイシューで可否を断じられるほど単純ではない。そして、たとえそこに多面的に考えている人がいたとして、Twitterではそれが細切れで、後から議論を追うのも非常に億劫だ)。

私がここで一番考えたいのは、「本は飾りではない」という点だ。

無論、今回は公共施設という点がこれを難しく、あるいは非常に単純にしているかもしれない。すなわち、限られたスペースで最大限のサービスを図書館として提供するには、より多くの蔵書を抱えるべきではないか、ということだ。吹き抜けにダミー本を置く空間があるなら、もっと他の本を置くべきという主張は、かなり説得力がある。もっとも、現代の図書館でそれだけのことが出来ていると自信をもって言えるところがいったいどれだけあるのだろうと考えると、かなり疑問もあるが(この点は「ツタヤ図書館」に対する批判も同様だ。私もこの図書館には問題が山積みだと思うが、しかしその批判のなかに「ツタヤ図書館」に限らない、図書館全体の問題までが「ツタヤ図書館の」問題とされているように感じるものも散見する)。

しかしこれもTwitterの悪い点で、「本は飾りではない」と言う人が、果たしてこの「公共施設において」という点を踏まえているのか、それとも一般論として「本は飾る物ではなく読む物だ」と主張しているのか、そこが判然としない。そして、私の感覚としては、後者の場合も少なくないと思われる。「これは本を愛する者がすることではない」「本を愛する人は絶対に激怒する」といったトーンのものもあった。

大前提として、私は今回の中野東図書館の巨大本棚には否定的だ。そして、上記のように怒る人の気持ちはいたく理解できる。しかし、それでも諸手を挙げて賛同することには躊躇いをおぼえる。

 

一つには、本にオブジェ、インテリア的要素があることそれ自体はまったく疑えない、と考えているからだ。そのように考える理由はいくつもあるが、分かりやすいのは装幀だ。本を買うとき、あるいは思い出すとき、装幀をまったく抜きにして考えることができるだろうか。むしろ、装幀は関係ない、文章だけあればいい、良い文章があればそれはどんな形の本であれ、それは良い本なんだ、という読書好きがいたとしたら、私はその者はたしかに「文を愛する者」かもしれないが、「本を愛する者」と呼ぶことを躊躇する。むしろ電子書籍が増えていく中、このオブジェ性は紙の本の大きな特質になっていくだろう。オブジェを含めた物質性を抜きにして出版を考えることは、不可能になっていく。

装幀無くして本はない。そして、読み終わった本は多く、本棚やそれに類するものに並べて仕舞うだろう。それも、常に自分に見える形でその本を置かないだろうか。またそのとき、並べ方にはなんらかのこだわりもあるはずだ。つまり、「本を愛する者」は本の見え方を気にするはずだ。

見方を変えれば、オンライン会議などで自室の本棚を背景に映すことによって自分の知性をアピールする(勝手にされた気になる?)という「本棚マウント」という言葉がにわかに流行ったが、そもそも本に飾り的要素がなければ、このようなマウントは成立しないのである。また、円本や、そこまで遡らずとも、百科事典が読みもしないのに家庭に並べられていた時代もあった。つまり、本がある種のインテリアでもあるという価値観は近代以来のものと言えるし、いわゆる「本を愛する者」にも、少なからずその意識はあるはずなのだ。

どんな問題でもそうだが、ゼロか百か、という議論が多すぎる気がする。そんな単純な話はない。他の場所でも何度も言っているが、結局大事なのはその行動そのものではなく、そこにある精神性だ。精神、あるいは倫理や道徳、信念と言い換えても良いだろう、もちろんそれはどんなに頑張っても確実な正解など見えてこないのだが、それを省くと短絡的な水掛け論に陥りがちだし、そのように考えてみた方が余程有意義だと思われる。

私はそれを考えてみた上で、この図書館の「図書館や本に親しみを持って欲しい」というのは噓ではないだろうが、どこか取って付けたもののように感じてしまった。ダミー本については私は最初からそうだろうと思っていたので驚きはまったくなかったが、やはり「飾り」や「映え」に重点が掛かりすぎているように思った。なので繰り返すが、「本を蔑ろにするな」という意見自体には肯ける。

しかしながら、それはそれとして、いままでのままの図書館を再生産するだけでいいのか、という問題は大いにある。もしかしたら、なにかを変えなくては、いままでとは違った形にしなくては、という意識が多少なりともあったとも考えられ、それ自体は妥当な問題意識だとも思う。蔵書を増やせば利用者が増える、などという単純な問題ではない。その程度で現在の図書館が抱える問題が解決すると思っているのならば、その方が問題だろう。

一方で、この本棚のような発想は、正直かなりありがちなものだとも思った。いわゆる「ツタヤ図書館」に限らず、角川武蔵野ミュージアム、東洋文庫ミュージアム、蔦屋書店、上野の森美術館でも行われていた「世界を変えた書物」展など、パッと思いつくだけでもこれだけある。もちろん、実際に使うことに主眼を置いた図書館と展示として作られたものを同一視するのは違うが(もっとも、角川武蔵野ミュージアムの本は手に取ってよく、届かないような場所にある本も事前に申請すれば見られるように検討していた、と聞いたこともあるが)、本を魅せる形で置くという点ではそこまで変わらない。そして、これらのものは賛否両論はあれどある程度認められている。私自身、「世界を変えた書物」展は観に行ったが、とても楽しかった。

評価もされる背景には、やはり本には見せる/魅せるものとしての価値もあるという共通認識があるからではないだろうか。少なくとも、今回の中野東図書館ほどの総叩きばかりではないようだ。いや、しかし角川武蔵野ミュージアムについては批判的な意見も見られたか。思うに、今回ここまで大きく叩かれた一因には、やはりこれが公共施設である図書館だったということ、そして区長が「ツタヤ図書館」に憧れていたようだという情報があるのではないか。嫌われがちな角川の場合もそうだが、反発されやすい状況が整っていたゆえに、という感じも少々否めない。

 

そしてこれが二つ目の理由に繫がるのだが、本をオブジェとして利用することについてなら、たとえば、私は大型書店がしばしばやる「タワー積み」の方が余程醜悪だと思っている。

もちろんタワー積みに対しても批判はあるが、相手がたとえば三省堂書店などの大型書店であるせいか、それほどの勢いはないように感じる。ビルの建て替えのために閉店することになる三省堂書店神保町本店について、閉店発表後、いかにここが良い書店であり、本好きから尊敬されているかについて口々に語られたが、批判的なコメントはあまり見当たらなかった。もしそれが、三省堂書店神保町本店という本の聖地のなかのランドマークで、多くの本好きから重宝されている書店であるから批判しづらい、という理由であるならば、正直情けない限りだと思う。

これについては過去に書いたので繰り返さないが、批判はありながら、結局いまのいままで温存させて市民権を与えてきたのは出版業界であり、そして読者でもある。果たしてこの中野東図書館の発想を大上段から批判できた身なのだろうか、という疑問もある。

 

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あるいは、やはり代表的な例として蔦屋書店の話になってしまうのだが、本を買わずとも併設のカフェに持ち込んでそれが読める、という書店がある。最近読んだ山下賢二『完全版 ガケ書房の頃 そしてホホホ座へ』(ちくま文庫)と落合博『新聞記者、本屋になる』(光文社新書)の両方で、この商品持ち込み可のカフェ併設型書店について同じようなことが書かれていたのだが、この取り組みは、沢山の人が関わって作られ、ここまで届けられてきた本を蔑ろにしているように、私にも思える。

また、私は知らなかったが、なかには持ってきた本を戻さずにカゴに入れておくと、後で店員が戻して置いてくれるサービスなどもあるという。これは明らかに「過剰」(山下)だし、「客を甘やかしている」(落合)。

藤森善貢は、本の使い方として、飲食をしながら本を読むことを禁忌としていた。もっとも、私はさすがにそれを完全に禁じるのはやり過ぎかと思うが、しかしそれは自分の本であれば、という話ならばである。まだ買っていない、自分の本ではないものについては、汚損の可能性が高い行為を店側から認める、推奨するというのはいかがなものか。書店において食料が入った買い物袋や飲料を平積みの本の上に置いて立ち読みする客は決して少なくない。これは店側も当然注意するだろう。しかしカフェへの持ち込みを認めているとしたら、果たしてその注意に説得力を持たせられるのだろうか。

これは結局、本という物ではなく、本をだしに足を運ばせ、飲食の売上、あるいはカフェに入るための場所代をあげようとする方針である。たしかに、いまや本だけで経営を成り立たせることは困難であり、このような複合的商売はビジネス的に一つの方法であることは間違いないから一概に否定はできないが、これもまた、本をインテリアとして用いる精神と通底したものがあるだろう。

ほかにも、ときに出版社自身も使う「鈍器本」という言葉。これもまた本の見た目をフィーチャーした表現だろう。私はこの言葉があまり好きではないが、鈍器のように重厚な本ということ自体になんらかの付加価値を見る見方自体は理解もできる。しかし、少なくとも私は、そのような本に、物として読みにくいと感じたことが少なくない。これだけ分厚くて重いのに、机上に広げて置いておけないとはどういうことなのだろう。これなら分冊にしたほうがマシだ、など。もちろん、分冊にすると売れ行きが悪くなることは想像できるが、しかし本は第一義にはたしかに読む物なのだから、見た目重視でそちらが疎かになれば、元も子もないだろう。

最近、質量、内容ともに「軽い」本が少なくなっている印象がある。『書物』というそのまんまの書の共著者、森銑三のこんな言葉に、私は深く共感する(岩波文庫版から)。

質の良否は凡眼には識別しがたい。量の多寡は一目して瞭然する。それで質よりも量において人の注目を惹こうと企てる。そうした人が存外多い。(53頁)

それでなくても書物があり過ぎる。その上にも出過ぎている。我人ともに仕事を控えて、その余暇に読書に親しもうというのに、大き過ぎる書物に貴重な時間を費やすのは決して嬉しいことではない。書物は適当な量のものが望ましい。(54頁)

書物は外観よりも実質で行きたい。書物は読むべきものという第一義を忘却してもらいたくない。(55頁)

別の箇所では、内容面について、気軽に読める優れた随筆類が少ない、ということも言っている。

「愛書精神」から書物を見つめ、戦前から戦後直後に書かれたこの本は、ほかにも現代においても示唆的な記述に満ちている。これを読むと、私たちは本を愛している、などと簡単に言っていいものかと反省する。

 

話が長くなったが、これまでのことを踏まえた上で、やはり私は、精神性、倫理と、そこから生じるバランスの問題なのだと思う。あるいは、本に対する畏怖の有無。身も蓋もない結論になってしまうが、そしてそれは個々の事象を見て、各々が考えるしかないのだろう。

今回のことで言えば、やはり本をインテリアとして「だけ」で使っている点に疑問を覚える。とはいえ、そこに入れるのがダミー本となっており、そこに対してさらに怒りを覚える人もあるようだが、適当に古書店から安い全集を買い漁って置かれるくらいなら、私はむしろその方がマシだと感じる。

もちろん、だったら、たとえば最初から壁画でも良かったのでは? などとも思うが、どうやら本棚ありきで話が進んでいたようだから、そうもいかなかったのだろう。だからこそ、「本に親しみを」という狙いが後付けのように聞こえてしまう。それに、たしかにダミーとはいえ立体としてあるのと平面の絵とでは、見る者の受け取り方が違ってくるのかもしれない。

そう考えつつ、では視点を広げて、自分のお店や自室の雰囲気作りのために、正当な対価を払って本を買う人があったとして、果たしてそれを一読者が責める道理があるのだろうか、とも思う。

私もそうだが、本を読む人の多くは本を「積む」。もちろん、やがて読むつもりで買うのだが、結局読まないままになってしまう本も少なくない。このとき、「いや読むつもりで買ったのだから、飾る目的で買った人とは違う」と言うのは綺麗事にも感じる。結局その時点ではどちらも読んでいないわけで、もっと言えば、飾ることで本の外側を生かしている点で、そちらの方が本を「使っている」、とも言えるのかもしれない。

また、たしかに飾る目的で買ったかもしれないが、ものとして手に取れる状態であれば、なにかの拍子に読んでみる可能性はある。それは、大量の積み本を抱えている人がその一冊を読む可能性と、そこまで変わらないとも思うのだ。これについては、老舗洋書専門古書店、北澤書店の取り組み「KITAZAWA DISPLAY BOOKS」についても取りあげた『東京の古本屋』(橋本倫史、本の雑誌社)を読んだときにも考えさせられた。

思うに、今回の問題の肝は、「本を飾りとして使う」ことではなく、「本に親しみを持ってもらうという目的として飾りで用いるにしても、見たところ、それが本当に利用率の上昇であったり新たな読者層の創出に繋げるような具体的なビジョンが、現状あまり感じられない」ということにあるのではないだろうか。それに、たとえば北澤書店がディスプレイとして洋書を売ることに対して語った精神のようなものを感じられない。だからこそ、自己満足のように思えてしまうのかもしれないし、私もそう感じている。

とはいえ、もしかしたら、まだこちらには分かっていない独自の取り組みがあって、この巨大本棚の光景とリンクして本の利用が増えるような工夫が用意されているのかもしれない。もちろん私とてそう信じている訳ではないが、分からない以上はなんとも言えない。もしその工夫が効果的なものであれば、そのような飾りを作った意味も生まれるかもしれない。そんなものがあるのだとすれば、私はそれを見てみたい。だから、ある意味ではこれからにかなり期待もしている。

 

多くの問題点のなかの一つでこれだ。これに、冒頭に挙げた他の問題も絡んでくると、また違った結論も出てくるだろう。この問題はこの図書館を否と断じれば済むほど単純なものではなさそうだ。最近起きた出版関係の「論争」についてもそうだが、短い文字数で語ろうとするからか、どうにも雑なものが目につく。もう少し丁寧に考えた方がいい。自戒を込めて、私は思う。

 

(矢馬)