ある日突然、高田馬場のロータリーが閉鎖された。それがすべての始まりだった。
彼はレインボーファルトの上に置いてある飲みかけのストロングゼロの缶を拾うと、器用に中身をいろはすのペットボトルの中へ注ぐ。不器用な僕は、同じような作業をするといつもこぼしてしまう。この点は、彼の尊敬できる数少ない点だ。それから、ペットボトルを満杯にすると、余ったストロングゼロを一気飲みした。呆れと少しだけの心配を込めて彼に語りかける。
「よくそんなに飲めるね。酒はカロリーが摂取できるけれど、のどが渇いてしょうがないから僕はごめんだ」
彼はストロングゼロが詰まったいろはすをボロボロの黒いリュックサックの中にしまいながら、僕のほうを見もせずに質問に答える。
「飲まなきゃやってられないよ。それにしてもここの酒はひどい。ストロングゼロ、クリアアサヒ、金麦、ブラックニッカ、コンビニのペットボトルワイン。アルコールが摂取できることだけが取り柄の安酒ばかりだ」
僕は歩きっぱなしで疲れた体を休めるために座り込む。
「みんな、貧乏な大学生だったからな、しょうがないじゃないか」
「特にストロングゼロは最悪だ。人工甘味料が甘ったるくて飲めたもんじゃない」
彼の愚痴は止まらない。
「それに他人の飲み残しばかりだから炭酸の気は抜けているし、味は劣化している。おまけにだいたいゲロが吐かれているし、つまみは最低ときた。食い残しの柿ピーやポテチがあればいいが、そうでもなければ自分で調達するしかない」
そういうと彼は緑の茂みの前へと歩いていって、右足で葉も枝も構わずに乱暴に蹴とばした。途端に驚き慌てた鼠が飛び出してくる。次の瞬間には奴はあっという間に彼の掌中の中だ。奴は生命の危機に体中を暴れさせ、必死で逃れようとするが、望みは薄いだろう。恐怖からか、全身の毛が逆立っている。
ロータリーの鼠を捕まえるのにはちょっとしたコツがいる。体を見てはいけない。尻尾を見るのだ。その曲がり方で奴がどこに進むのかが分かる。これに先に気が付いたのは彼ではなく僕だったが、それでも一月はかかった。方向を見極めても、実際に鼠に追いつける速さで体が動くにはもう一月かかる。無理もない、こんな事態にでもならなければ、一生使わないスキルだ。彼は嬉しそうに、用心深く、力強く握りしめながら、とった鼠を僕へと見せる。
「上物だ。丸々と太ってやがる」
無駄に誇らしそうな彼の顔になんだか僕までうれしくなってくる。人間、最低の環境に放り込まれたら、最低の喜びを見出すものなのだ。確かにその鼠は久しく見たことがない大きさのものだった。それから、彼はナイフで鼠を刺し殺すと、茂みの葉っぱを多めにちぎり百円ライターで火をつけた。僕も食事をとろうとバッグからさきいかを取り出す。
ゲロ、ネズミ、ストゼロ。万華鏡のように同じ模様のようで、同じロータリーは一つもない。それらの細部はよくよく見ると異なっているし、ロータリー内でおかれている場所もまた異なっているからだ。野球のグラウンドほどの大きさのロータリーに出会ったこともある。頭の中にある、いつものロータリーのイメージと異なりすぎて変な感覚になった。彼は鼠を食した後に柵に腰かけるとあくびをして、それから思い出したように尋ねた。
「現在地を教えてくれ」
僕は腕時計を嵌めている左腕を顔の前に持ってきて、表示を時間モードから経緯度モードへと変更する。
「北緯三五度七九分、東経百三十九度七二分」
彼は僕の答えをまるで聞いてなかった。続けて尋ねる。
「ありがとう。それで結局、今どのあたりにいるんだ」
自然とため息が漏れた。僕はこの質問にうんざりしていたからだ。大まかな経緯度が書かれている日本地図を持っているというのにそれを見ようともしない。もう僕は注意する気も起きなくなっていた。もう旅の終わりは近いし、今更いったところでどうにもならない。自分のその諦めにも、またうんざりする。こんなことを覚えきれないほど繰り返しているのだから、僕がデジャブ―の感覚を味わったのも無理はないことだった。
「もうすぐ、荒川だよ。もっとも、川だった痕跡は見つけられないだろうけど。目的地にはあと数時間で着くだろう。まだ昼前だから、夜になる前に到着できるよ」
幸いなことに今日は雲が多い。天候が崩れて雨が降らなければ、体力を消耗せずに移動できるだろう。彼は、落ち込んでいるような声で言った。
「いよいよだな。いよいよあそこに行けるんだ」
そんなしんみりとした雰囲気とは関係なく、左側から轟音が響いた。反射的に耳をふさぎながら見てみると、銀色の塗装をした戦闘機が真っすぐ飛んでいた。機体の尾部から吐き出される飛行機雲が空に映える。戦闘機はいつまでも続く同じような世界に彩を与えてくれる。右を見てもロータリー、左を見てもロータリー、前を見てもロータリー、後ろを見てもロータリーでは気が滅入る。もっとも最近は戦闘機を見る機会もめっきり減ったが。
それから小さな物体がそれのウェポンベイから落下すると、先ほどの飛行音とは質が全く違う爆音が聞こえてくる。爆撃がやんだ後に、彼は騒音に負けないような大声で言った。
「あんなことをしても全くの無駄骨だよ。せいぜい、事態の悪化を遅らせるだけだ。むなしくなりそうなもんだが、よくやるよ」
僕は彼に軽く反論する。
「そうかな。最初からあきらめるよりはましだよ。諦めてもどうしようもない。旅の始まりには、僕たち二人がここまでたどり着けるなんて思っていなかっただろう」
彼は否定も肯定もせずに、じっと戦闘機のほうを眺める。いつのまにか、それは原型をとどめない形になっていた。ロータリーになったのだ。揚力を失ったロータリーは亜音速で徐々に落下していった。墜落するところを見届けることもなく、僕たちは太ももの高さほどある茂みを超えて次のロータリーへと足を踏み入れる。
荒川のあたりで、真ん中に寝そべった死体があるロータリーに行き着いた。死体は男性で、損壊の具合を見ると、恐らく殺されたのだろう。白骨化するほどまではないが蛆がわいて、周囲では膨大な数の蟻が忠実に職務をこなしている。
特に信仰する宗教があるわけでもないが、自然と死体に手を合わせる。率直に吐露してしまえば、よほど傷んでいない限り、亡骸を見ること自体のショックはさしてなくなってしまった。それでも死後に時間が経過した死体の匂いには慣れることがない。死体を避けて歩きながら、彼はつぶやく。
「全く最低の野垂れ死にだよ」
敢えて反論することはなかったが、僕は彼の不遜な態度に少し反感を覚えた。あの男性と僕らとの間には何らの差もないのだ。
それから一時間ほど歩いたロータリーでは、三十代ぐらいの女性が柵の前で足を延ばして座り込んでいた。よれよれのサイズが合わない白いTシャツと色落ちした茶色いGパンを着ている。こんな世界では小ぎれいなファッションなど望めるはずもないが、それにしても不格好な印象だ。小太りの体はだらりとしているのに、目だけはぎらついているのもアンバランスだ。酒を飲んで体温が上昇しているせいか、額から汗が流れ落ちていた。
僕たちの存在に気が付くと、酒が入ったペットボトルやアルミ缶を守るように抱えて、アルコールでつぶれた声で叫ぶ。
「馬鹿野郎、近づくな」
彼は彼女と目を合わせようともせずに、怒る気力もないようにつぶやく。
「言われなくても、近づく気もしない。また発狂しているやつと会うとは、気が滅入るよ」
全く同感だった。そういえば、近頃は人間と出会うこと自体が少ない。食料をめぐる殺し合いだけではない。鼠が跋扈する、不衛生なロータリーの環境による病死。アルコールの過剰摂取による肝硬変。極度のストレスによる自殺。あまりにも簡単に人間が死んでしまうのだ。ロータリーは、人間が暮らしていける場所ではないのだ。
また、当然のことだが、ロータリーになってしまうものもいる。そのうえ、いわばここは震源地に近い。人間はロータリーと追いかけっこするように逃げ延びていった。生き残ったわずかな人類も、馬場の近くにはほとんどいないはずだ。
生きている人間に会ったのは彼女が久しぶりだった。その前も、その前の前も彼女と同じく、明らかに精神に変調をきたしていた。まともな人間に最後に会ったのはおそらく数カ月前だが、明らかに僕たち二人を警戒していた。無理もない、こんな世界だ。人間を簡単に信用することはできない。
僕は口にこそ出さないが、彼に感謝した。もしも一人で旅を続けていたら僕もおかしくなっていたかもしれない。だいぶ離れたところで振り返ってみると彼女は泣きながら、ワンカップ大関を飲んでいた。
目的地が近づくにつれて、普段は多弁な彼の口数がどんどんと少なくなっていった。僕たちはロータリーからロータリーへと渡り歩いていく。僕はしきりに腕時計を眺めるようになっていく。もちろん表示は経緯度モードで。
衛星測位システムの原理はごく単純なもので、ただの三点測量にすぎない。もっとも地球上の全ての地域をカバーするには数十基もの衛星を構築する必要がある。ただ一点を、例えば高田馬場のロータリーを測量するのには原理的には三基、誤差を考えても四基の衛星があれば十分だ。あとは相対論的な時間のずれを補正すれば、何十億というロータリーの中から高田馬場のロータリーを見分ける、正確な測位ができる。
「待ってくれ」
僕がそういうと、彼は踏み出そうとしていた左足をすぐに止めた。まるで僕がそう頼むと知っていたかのように。このロータリーは他のものとは違ってフェンスで封鎖されている。声が震えそうになるのを抑えながら、慎重に数字を読み上げる。
「北緯三五度七一分三秒、東経百三十九度七〇分四秒。ここだ」
彼は目を瞬き、深呼吸してから言った。
「本当か」
「ああ、ここが高田馬場のロータリーだ。間違いない。この数字は何度も見て、もう暗記してしまったんだから。それにフェンスもある。僕たちは間に合ったんだ。すべてがロータリーになる前にたどり着けたんだ」
言葉に出すことで、ようやく高揚感が湧き出てきた。僕は彼と目を見合わせる。何も語らなくても、もうよかった。お互いの感じていること、言いたいことは一緒だ。馬場のロータリーのフェンスはさして高くなかった。彼は四つん這いになって僕の足場になってくれた。
なんとか、フェンスをよじ登ってロータリーの中に入ろうとする。手に力が入って登りにくい。ベルリンの壁を越えた人間もここまでは緊張しなかったろう。フェンスを越えると、足を怪我しないように慎重に飛び降りた。そして、ロータリーに両足が触れた刹那。
「私を破壊しても無駄だ。私はオリジナルだが、そのことに大した意味はない」
威厳のある低い声が、突然脳に直接響いた。不思議と驚きはなかった。確かにこの状況ならば、ロータリーを破壊するために来た、と思われても仕方ないだろうな。それでも、僕は弁明を試みる。
「違う、そんなことのためにここまで来たんじゃない」
「では懇願でもしに来たのか。それもまた無駄で愚かしいことだ。私は司令官などではない。我々に中枢はない、誰も制御などできないのだ」
ロータリーのつれない態度に僕はいら立ちを抑えきれない。
「違う、僕の話を聞いてくれ。君はもっと人の話を聞けるはずだ。それとも久しく会わないうちに傲慢になってしまったのか」
おし黙って聞いているロータリーにはっきりと言う。
「僕がしたいのは単なる学生時代の一風景としてのロータリーをもう一度味わってみることだけだ。旧友との再会を望むのがそんなに気に食わないのか。それともロータリーは、人間よりもそんなに偉いというのか」
ロータリーは小さな唸り声をあげた。
「なるほど。勘違いをしていたようだ。先ほどの非礼を詫びよう」
分かって貰えれば、くどくどと追及する気はない。重くなった雰囲気を変えようとして、話を変えた。
「ところで君は僕のことを覚えているかい」
ロータリーは自信ありげに答える。
「もちろん、覚えているとも。私の記憶力はお前たち人間よりもずっと優れているのだから。訪れた全ての人間を覚えているよ。私を好きな人間も、嫌いな人間も全員だ。君がいつ訪れたかまで分かる。一〇年ほど前から百五十四回ほど会ったことがあるはずだ」
僕はロータリーの驚異的な記憶力に脱帽した。回数まで覚えているとは普通ならば信じられない話だが、その声と態度には疑う余地がなかった。訪れた回数など数えきれないほどだが、きっと事実なのだろう。
引き寄せられるようにロータリーの中心部へと向かう。癖で腕時計を眺めると何も表示されていなかった。恐らく、残されていた数基の人工衛星がロータリーになってしまったのだろう。あるいは単純に寿命で落下したのか。どちらにしても本当にぎりぎりのところだったわけだ。経緯度なしにロータリーの海の中で、一個のロータリーを探し当てるなんてできるわけがない。ロータリーは続ける。
「先ほどの非礼の埋め合わせと言っては何だが、これを受け取ってくれ」
彼がそう言った瞬間、周囲が暗くなった。後ろからは電車の走る音がする。振り返らなくてもわかる。緑色の電車が走る山手線だ。その音を何年ぶりに聞いただろうか。
目の前に大勢の人が溢れている。ゲロをはいている大学生ぐらいの女性を、茶髪の男性が介抱している。心底めんどくさそうな顔をしているが、見捨てていないところを見ると、意外と優しいやつなのかもしれない。声を張り上げて都の西北を歌っている十人位のサークルか何かの集団もいる。懐かしい母校の校歌だ。
道路の向こうにはドン・キホーテが見える。お馴染みの間抜けなテーマソングも聞こえる。先ほどまで存在していたフェンスは消滅していた。ロータリーの外を人が歩いていた。感傷的なほうではないと自覚しているが、思わず頬を伝うものがある。そこには確かにすべてが変わってしまう前のロータリーがあった。僕はロータリーの外延部、柵のほうへと向かった。ロータリーはおどけて言った。
「外には出ないでくれよ。所詮これは私の作り物だ。私の外に出たらすべては元に戻ってしまう。私の力には限りがあるからな」
「十分だよ」
僕が答えると、ロータリーは続けていった。
「おっと、大事なものを忘れていた」
途端に僕の足元で、アルミ缶が現出した。ストロングゼロだ。プルトップを開け、てろくに味わうこともせずに胃の中に流し込む。最悪で最高の味がした。
「ありがとう。ところで質問をしていいかい」
ロータリーは無言でうなずいた。
「これでも僕は生物学やウィルスには詳しいんだ。西早稲田で学んだ人間だからね、修士号も持っている。無機物のロータリーが増殖するなど標準理論からは考えられないことだ。その矛盾を解消するために世界中の高名な学者が説明を試みていたが、どれもしっくりこなかった。からくりを教えてはくれないか」
ひととおり問いを聞いた後に、ロータリーは呆けたような顔になった。
「お前たちはそんなことが分からなかったのか」
「ああ、さっぱりだよ。頼む」
すると、ロータリーはあっさりと教えてくれた。
「本当に分からないのかね。奴だよ」
ロータリーがそう答えた瞬間、茂みの中から灰色の小動物が素早く飛び出し鳴き声をあげた。まるで舞台役者のお披露目のようだ。心なしか、奴も嬉しそうに見える。彼が下がってよいと命じると、行儀よく一礼して帰っていく。僕は奴に缶を持ってない左手を振る。
「なるほど、これならば自然発生説というわけでもないし筋が通っている。どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう」
ロータリーは愉快そうに笑う。
「発想の転換だよ。あまりに奇抜すぎて普通の人間は気が付けないだけだ。ニュートン力学から量子力学への大転換のような大仰な話じゃない。気づいてしまえば、単純な話だ。いくつかの大陸をつなぎあわせるとぴったりとくっつき、超大陸ができあがる。私だって、普通の人からしたら駅の待合場所に過ぎないが、大学生からしたらチャージ代がかからない飲み屋になる」
その言葉にはうなずく。金のない学生時代の僕らにとって、ロータリー飲みは革命だった。社会人になった後は生活に余裕ができたから、いい飲み屋にも行けるようになったが。
今度はロータリーが質問する番だった。
「これからどうするつもりだ」
僕は考える前に答えていた。
「正直言って、すべてがどうでもよかったんだ。爆撃で死んでも、飢え死にしても、発狂しても。だけど君と再会できて生きる気力がわいてきた。君と出会って勇気をもらえた。これから、もうしばらくこの道を歩いてみようと思う」
「また来ればいいさ、私はいつまでも待っている」
ロータリーの言葉に僕は少しだけ、悲しみを感じた。
「無理だよ、衛星測位システムがお釈迦になったせいでもう経緯度が分からないんだ、どうしようもない。これが今生の別れさ」
ロータリーの朗らかな笑い声が響く。
「そんなものは我々には必要ないだろう」
それから、力強い声ではっきりと言った。
「私と君の間には絆があるじゃないか。どれだけ離れていても、ここで繋がっているんだよ」
ロータリーは自分の胸を強くたたく。僕もつられて胸を触って見ると、暖かいものを感じた。それはきっと体温や血流のせいだけではないだろう。腕時計をそっとレインボーファルトの上へと置く。
「分かった。じゃあまた会う日まで」
「ああ、私はいつでも待っているからな」
大きく手を振った後に、馬場のロータリーに背を向ける。いつの間にか、時間帯は夜から日中になっていた。雲量ゼロの快晴だ。僕は次のロータリーへと足を踏み入れた。
雲葉