聞くところによると、今回の文学フリマ東京はコロナ禍以降で最高の盛り上がりだったそうだ。一方で私たちは、確かに人が多いことは感じていたが、数字上はそれを見受けられずに終わった。様々な要因はあるだろうが、まずは反省をして次回に繫げていきたい。
通販の方も無風状態である。もっとも、通販のいいところは一度開いておけば、いつでも購入の機会があるという点だ。気長に待つとする。
ところで、今回私たちの数字が伸びなかった一つの要因には、いわゆる「知り合い」があまり、いや今までと比較すればほとんどといっていいほど来なかったことがある。同人誌とはある程度、知り合い同士の相互互助的要素がある。故に、とくに私たちのような小さいところはそれが数字にかなり直結する。
念の為に言うと、これは責めているわけではない。来るも来ないも自由だし、私も、文学フリマに参加することはそれとなく伝えることもあるが、気が向いたら来てねくらいは言っても、来て欲しいとまでは言わない。友人とは、それこそ別の機会に会うこともあるし、買ってくれるのならば、そのときに渡せばいいのだ。
ただ、それは私たちの本だけについて考えたときの話だ。会場にくれば、目当て以外のブースもおのずとのぞくことになり、思わぬ出会いもある。その機会は、当日しかない。
私は大学から文芸サークルに入り、その後は文学系の大学院に行っているから、周りには本を読む人が多く、そして自分で本をつくっている人も数多くいた。出店者、一般参加者の別なく、特に差し合わせなくても、会場では多くの顔見知りに会ったものだった。
しかし、第5号を初めて文学フリマで出した回あたりから、明らかにその機会が減じた。このときはコロナ禍真っ只中であったから、そういうこともあるのかなと思っていたのだが、今回もほとんど同じ状況であり、どうもそれだけが要因ではないようだ。
だが、考えてみればそれも当然なのかもしれない。社会人としての時間が長くなってきて、貴重な休日に、わざわざ足を使って欲しいものがあるのかどうかも分からない、しかもその多くがアマチュアのものである場所に来ようという意欲は、もしかしたら湧きづらいのではないだろうか。
なにより、今は情報過多の時代だ。人々は、たとえ本を読まずとも、絶えず大量の情報を「読まされている」。そんな恒常的な満腹状態では、その上でさらに未知の書き手の、未知の本を選びに行こうと思えるのかどうか。
もちろん、それでも私はその流れにただ流されたくはないと思っている。しかし、そう感じてしまうのは無理からぬことだとも思ってしまう。使用頻度を減らしたSNSをときに眺めているだけでも、しばしばうんざりさせられるのだから。これでも私は、あまりテレビは観ないし、ゲームもほとんどやらないのだから、そうでない人ならなおさらだ。
いま、世の中はなんでも「知らなきゃいけない」「もっと現実を見なくてはいけない」「もっと読め」といった圧に満ちている。これは立場を問わない。もっと、もっと、と多くの人が訴えている。
確かに、知らないよりは知っている方がいいのかもしれない。しかし、それでも私は、むしろ今の人はあまりにも「読み過ぎ」だ、なにもかも知りたがり過ぎていると言いたい。
この「読む」とは、字だけではなく、広く情報を「読む」ということを意味している。私は、意識してでも、もっと少なく読むべきなのではないか、と思っている。
これは、一つのものを大切に、という意味もあるが、同時に、なにも「読まない」時間をそれなりに作ることを意味する。
たとえば電車。いま、電車では大半の人がスマートフォンで何かしらのものを読んでいる。もちろん、連絡をとっていることもあるだろうが、大半の人はそうではないだろう。手持ち無沙汰でそうしているのだ。何もしていない人があまり見当たらない。頭に情報が流れない時間を作ることが難しくなった。
最近、私はときどき、その時間を作ってみている。最初の内はやはり、少し落ち着かないこともあったが、慣れてくると、たった20分程度の電車の時間でも、頭がすっきりする感覚が得られるようになった。そのときはもちろん音楽も聴かないので、そんなことしてると変な人に見られない? と言われたこともあり、私自身それは少し危惧していたのだが、良くも悪くも、みな自分の手元しか見ていない。一時期は、絶対に電車の中では本を読むと意気込んでいたが、それも緩やかに、気が向いたときだけでいいや、くらいの心持ちだ。
必然的に読む量は減っているのだが、今のところ、悪くはない感じだ。なにより、去年一年、SNSなどで起きた議論に突っ込んでいた時期と比べて、心が落ち着いている。あの頃は、いつも怒っていた。もちろんときには怒ることも必要なのだが、SNSでの議論に怒ってもそれは陣取りゲームに過ぎず、真剣に考えても詮無いことに気付いてからは徒労としか思えなくなっていた。正直、現状はSNSでの議論というものにほとんど意味を見出せないでいる。
もう少し続けてみて、そしてちょっとずつ自分なりに調整して、自分にもっとも合う本、情報とのつきあい方を見付けていきたいと思っている。
ところで、読む量が減るとなると、それは「ソガイ」が読まれなくなるということにもなるのかもしれない。自分で自分の首を絞めているような感もあるのだが、しかしそれはそれで仕方ない。その上で、私は真摯に活動を続けていくだけだ。詰まるところ、それ以外に必要なことなどないのだ。
(矢馬)