ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ13(「こそ」について)

6月3日

 

「〜こそ」という言葉、とくに言論の界隈で使われているそれが、少し前から妙に気になっていた。

疫病禍、災害、戦争、その他諸々の事件……いま起きている様々な事象から、「今こそ○○を知らなければならない」「こんな時代だからこそ、○○を読まねばならない」といった警句、あるいは宣伝文句が目につく。

非常に力がある文言だし、一見正論だ。おそらく私も、いくらかこのような言い回しを使っていただろうし、今だって、ふとした拍子に口に出しているだろう。それだけ、魅力のある言葉というわけだ。

だが、ここ最近、この言葉に言い様のない違和感を覚えるようになっている。正しいはずなのに、なんだか居心地が悪い。実のところ、最初の疫病禍で文学フリマが中止になったとき、私は「だからこそ、予定通りに新刊を刊行する」と書いたような記憶がある。後日、それをなにかの拍子に読みかえした際、自分の言葉遣いにやはり違和感を覚えた。なんだか偉そうな自分に呆れた。「でも」くらいで良かった。いや、そもそも接続詞など不要で、「文学フリマ東京は中止になりました。新刊は予定通り発行します」で十分だったのだ。

「こそ」には、どこか傲岸不遜な匂いが滲み出ることがある。「今」というとき「だからこそ」意味がある。しかし、それはそれ以前にもやはりそれ相応の意味があったはずではないか。そこに意味を見出さ(せ)なかったのは、人間の怠慢か無神経故だっただけではないか。だから、この「こそ」の偉そうな気配を感じると、反感にも似た違和感を覚えるのだろう。

しかし、現代はこの「こそ」言説がとかく注目を集め、そして同意や賛同を得る世の中だ。多くの文芸時評は、まさにこの「こそ」の集合体だ。「今こそ」という意図で書かれた本を、「今こそ読め」と読者に促し、「今こそ読まなければならない本がある」という共同認識の売買の場、言葉の流通の場が生まれる。それも一概に否定はできないのかもしれないが、私はそこから距離を取りたい。はっきり言えば、私は何冊か本を読んだくらいで世界など分かりはしない、と今は感じている。

私にはやはり、本など、各々が勝手に書いて、勝手な動機で、勝手に読めばいい、という意識がある。そして、その「勝手さ」を担保することに(ここで今まさに、私は「こそ」の2文字をつけ加えようとした。この2文字の力は恐ろしい)、出版の意味があると考える。本は、勝手に書いて残しておけば、読者が好きなときに手に取り、そして勝手な速さ、順序、タイミングで読むことができる媒体なのだ。「勝手さ」がなくなった出版なぞに魅力は感じない。

しかしながら、作家などもこの「勝手さ」を許容できなくなっている気配を感じるいま、もはや「勝手さ」の息吹は風前の灯火なのかもしれない。

 

(矢馬)