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文庫化で削除される初出情報から—堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』文庫版あとがきから

日本の出版においては、最初に単行本で刊行されて、数年経ってから文庫本として刊行される文学作品やエッセイは多い。

主となる中身自体は基本的に単行本でも文庫本でも大きく変わるわけではない。新刊が出ると、文庫になるまで待とうかな、といった声がところどころから聞こえてくる。もっとも、それは比較的短期間で文庫化されるような人気作家や話題作だからこそ生まれる贅沢な選択肢でもある、と最近分かるようになったが、しかしそういった発想が出ること自体は当然だろう。私はそれを批判しようとは思わない(図書館に入るまで待つ、という一部からは非難される行為も同様だ)。

ただし、当然のことながら単行本と文庫本は同じ作品でも、まったく同じものではない。それは判型、組版、装幀といった外見の要素のみならず、文庫版で新たに短篇が追加されたり、作者のあとがき、書評家などによる解説が付されるなどの、プラスの面ばかりでもない。単行本から文庫本になる過程で、往々にして消えてしまうものがある。その代表が、書き下ろし本ではなく、既存の作品を本にする類いのものに付されている作品の初出情報だ。

おそらく多くの読者はそんなところは有っても無くても気にしないだろうし、私自身、かつては特に気にも留めなかった。

また、最近の作家の言動を見ていると、実のところ作家にも掲載誌という視点は薄いように感じられる。それこそ、出版社がなにかしら大きな問題を起こしたときにそのときだけ、その出版社に対するスタンスを表明する、といった程度のものしかないのではないかと思われるくらいだ。

そんなことを常々考えていたため、堀江敏幸『オールドレンズの神のもとで』の文庫版(文春文庫、2022年)を書店で手に取ったとき、文庫版で追加された「記憶が薄れる前に——あとがきにかえて」と題された文章の冒頭を読み(余談だが、私はあとがきや編集後記というものが、読むのも書くのも大好きだ)、すでに単行本で持っているこの作品をレジまで持っていくことに躊躇はなかった。

 書き下ろしではなく既出の作品を集めた形になっている本には、通例として巻末に初出が示される。本文庫の親本『オールドレンズの神のもとで』(二〇一八年)は、長短さまざまな十八篇の作品で構成されているので、最初の発表媒体の一覧が掲げられているのだが、文庫になるとそれらの情報は削除されるのがふつうだ。読み手にとってはどうでもいい話かもしれない。しかし書き手にとって、いつ、だれに、どのようなテーマで依頼されたのかという外的な要素はかなり重要である。私の場合、執筆の動機はつねに注文であり、言葉の自発性はそのあとからついてくるので、いったん作品ができあがると出発時の負荷がなくなって、なぜこんな書き方をしたのか理解できなくなってしまう。ここでは私自身の備忘のために、個々の作品の来歴を親本より少し詳しく記しておきたい。(200頁)

その少し前に、私は著者の『いつか王子駅で』を巡る小説的な文章で、この作品の初出が雑誌「書斎の競馬」(飛鳥新社)であり、作品の根本には競馬の要素があったはずにもかかわらず、島村利正などの文学の要素が強調されたあらすじ、解説文が付された文庫が流通する今、この競馬の要素は文学談話の要素に伴う、おまけか蘊蓄程度の扱いとなっていることに対する違和感について書いていた。無論、単行本の方では初出が「書斎の競馬」であり、休刊以降の部分は書き下ろしであることが明記されている。

書評やエッセイから分かるが、著者は作品のみならず、その作品が書かれた背景や発表媒体、刊行された本の形などについてもこだわる。——いや、この言い方は適切ではないかもしれない。当然、それを含めての「作品」、そして「読書」であるという姿勢をとっている。先の「読み手にとってはどうでもいい話かもしれない」という箇所は、だから「場」への意識を喪失した現代に対する多少の皮肉が込められているようにも感じるのだが、それは勘ぐりすぎだろうか。

もちろん、初出等の情報を知らないで、また知ろうとしないで作品に接することが悪い訳ではない。各々が好きなように読めばいい。本は、小説はかく読むべきものだ、といった読書論を私は好かない。私とて、気にするときと気にしないとき、作品や目的、体調などによって異なる。むしろ、そこまで気にして読む方が一般的には余程特異なのかもしれない。

ただ、最近は妙にクリエイター信仰があって、あたかも作者がすべてを主導しているかのような空気を感じることがある。そもそも私は作者というものをそんなに偉いものだとは思っていないのでその流れには乗れないのだが*1、それを抜きにしても、皆がこればかりだと全体として視野が狭くなるように感じ、長い目で見たときには出版を始めとして、表現が隘路に陥るのではないか、いや、すでにそうなってきているのではないかとも思う。

それにしても、「執筆の動機はつねに注文」というが、本当にいろいろなところに書いていて驚く。文藝春秋の本ではあるが、初出が文藝春秋である作品は「文學界」掲載の1作品のみで、他の文芸誌では純文学系では「すばる」「GRANTA JAPAN with 早稲田文学02」、大衆文芸系で「野性時代」「小説現代」があるくらい。他には「週刊新潮」「ダ・ヴィンチ」「MONKEY」「読売新聞」あたりはまだ想像がつくが、資生堂のPR誌である「花椿」、住宅情報誌「HOUSING」、中高年向けライフスタイル誌「男の隠れ家」などは、「花椿」は企業文化誌としては非常に有名で、カルチャーの一つとして文芸についても発信していたはずだから言われてみれば、という印象もあるが(今回調べて、2015年で月刊誌としては廃刊してデジタルに移行していたことを知った)、特に後者は少々意外だった。

おそらく著者自身意外な依頼も少なくないのだろうが、自分の得意場所ばかりで書いていたら起こり得なかったような運動が、そこでは起きてくる。「言葉の自発性はそのあとからついてくる」という言い回しが面白い。外的な要素の影響を受け止めるか、あたかもすべて自分の知識と想像力によって生まれたかのように見せるか。そこの差が、この運動を認められるか否かに懸かってくるのではないだろうか。

もっとも、口で言うのは簡単だが、実際には慣れ親しんだものではないものに手を出すにはそれなりの勢いか、半ば強制的なものが必要になってくる。私自身、ともすれば内へ内へと入っていくきらいがないとは言えない。それも、心身に余裕がなくなればなくなるほどその傾向が強くなる。

先日、友人の家に遊びに行った際、彼が何度も観ているという『バーフバリ』を見せられた。数年前にとても話題になっていたのは知っていたが、自分にはあまり興味はないだろうと思い込んでいたので観ていなかったし、特にこれからも観るつもりはなかったのだが、これが観てみるとかなりハチャメチャで、非常に面白かった(一方で、私はこの作品を批評的に観ようとはほとんど思えなかった。言うまでもなく、これは作品を軽んじているのではない)。いままでは正直映画に少し苦手意識を持っていたのだが、もうちょっといろんなものを観てみてもいいな、と思うようになった。

それで、家から比較的近い映画館が、過去作のデジタル版を早い時間帯に放映する「午前十時の映画祭」の実施館のひとつであることを知ってはいたのだが、ずっとなんだかんだ行かないでいたのを、平日の休みを利用して行ってみた。『ドライビング Miss デイジー』と、これまたこんな機会でなければ私はきっと観ることがなかった作品だが、これも予想以上に面白く、入場前に買ったチュリトスの半分を、エンドロールが流れるなか慌てて食べきることになるくらいだった。当たり前だが、なんでもやってみなければ分からないものである。

ものを書くとき、私には外からの注文があるわけではない。だから、自分の書きたいものばかりを書こうと思えば書けてしまう。それはそれで楽しいのだが、せっかくならば自分自身でも新鮮な、それこそ、後になってから、自分はどうしてこんなことをこんな風に書いたんだろう、と首を傾げるようなものを書きたい(ほとんどあり得ない話だろうが、もし文章を依頼されるようなことがあれば、関心外のことであったとしても挑戦してみたい)。

それで、いつか自分の短篇集なんかを編むときには、このような「あとがき」を書きたいものだ。

これも、この文庫版を手に取って読んだから感じたことだ。それに、同じ本でもその時代、あるいはその人がそのときにどこを重視して読むのかによっても見え方は変わる。たとえ同じ作品でもこのようなことがあるから、やはり本当の意味でひとつとして同じ作品はないのだ、と改めて思わされる。

ただ、その場合行き着く先は、本に物理的に圧迫される部屋ということになる。本は好きなのだが、本当にここだけは悩ましい問題である。

 

(矢馬)

*1:作者一人に任せたときに種々のクオリティが恐ろしく低下することが多いのは、SNSを見ていれば明らかだ。