ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ15

11月9日

最近、仕事から帰ったあともなかなか本を読んだり、ものを書いたりできていない。その一番の原因は、部屋にものが、主に本が溢れていていちいちそれを動かしてからではないと次の行動に移れない億劫さにあるのではないか。

私はもう1年以上も、本を半分にしたいと言い続けてきた。いや、本当は4分の1と言いたいのだが、そう言う勇気がないから暫定的に半分にしているのであり、その時点で意志の弱さが露呈している。

それはともかく、本当にものを減らしたいとは思っているのだ。私は昔から、というより生まれてこの方、ものを捨てるということがとにかく苦手だ。もう絶対に使わないとわかっているものでも、なかなか捨てられない。幼稚園時代になにかのお祝いでもらった紙製の金メダルなんて、持っていてどうするのかと大掃除の度に思うのだが、それでも捨てられない。数年前に学生時代のテストやプリントなどは思いきってだいぶ処分したが、人に言わせれば、これでも無駄なものが多いことだろう。

こういったものですらこの有様なのだから、元から保存の役割を持つ本をなかなか手放せないのもむべなるかな。

本読みの最大の敵の一つは、まさに物理的空間を圧迫する本自身であることは言うまでもない。では場所をとらない電子書籍にすればいいじゃないかと思うのだが、これがなかなかしっくりこない。しかしこれも習慣の一つだろうから、いつか慣れるのかもしれない、などと思いながら、せっせと紙の本を買い込むことになる。

しかし、部屋を見渡して、もはや待ったなしの状態に近づきつつあることを認めないわけにはいかない。固めの本は贔屓の書店に、ブックオフで100円で買ったようなものはもう一度ブックオフに、といういつも通りの整理の他に、友人に譲るなどしてとにかく減らさなければと思う。いっそのこと、かつては好きで読んだ現代文学を思いきって絞ってみるのもいいかもしれない。正直、当分そのような小説を読む気にはならないだろうから。

ところで、私にはなぜか複数冊持っている本がいくつかある。単行本と文庫で2冊、というパターンが大半だが、同じ版元の文庫を2冊持っているようなこともある。

私の場合、新潮文庫の谷崎潤一郎『春琴抄』、ポール・ギャリコ『雪のひとひら』、岩波文庫の永井荷風『濹東綺譚』、谷崎潤一郎『吉野葛・蘆刈』を2冊ずつ持っている。『春琴抄』の場合は1冊は版が古く、組版等が異なるから別のものとしてもよいかもしれないが、その他は基本的に大きな相違はない。しかも、それぞれまた別の版元のものや単行本なども持っている。なぜこんなことになってしまったのか。一応、それぞれの理由と経緯は思い出せるのだが、ここでは割愛する。

ともかく、するとまずこのあたりは処分する最有力候補に挙がりそうなものだが、むしろ真っ先に手放さない本になる。いままでも、これらの本について悩んだことは一切ない。そもそもそれほど強く惹かれたから何冊も性懲りもなく買ってしまうのだろう。

そういえば、電子書籍は同じフォーマットを使っている限り、同じ本は2冊以上買うことができないのか、と気付く。いや、買うことができない、という言い方は変ではないか? 前に買ったことを教えてくれるのだから便利な機能ではないか、と「お客様はこの商品を2022/5/18に購入しました。」というKindleの商品ページの注意書きを眺めながら思うのだが、それはそれでなんだか不自由だな、と思ってしまう私は、やはり本を溜め込む運命にあるのかもしれない。

 

(矢馬)