ソガイ

批評と創作を行う永久機関

筆まかせ16

12月5日

出版のことを少し追わなくなってある程度の時間が経った。

それでもちょこちょこと嫌な話は耳に入ってくるが、良い話については皆無に近い。実際には良い話題もあるにはあるのだろうが、数やインパクトにおいては、やはり悪い話の方に分があるということだろう。

また、いくつかの「論争」めいたことは起きているようだが、これは前にもどこかで書いたが、その主戦場がもっぱらSNSになって久しい。しかし、SNS上での論争は論争たりえてない。めいめいがいかに耳目を集めて多くの味方をつけるかの勝負になっており、非常に不健全な言論の場になっている。ここで起こっていることは、戦争ごっこであるように思えてならない。実のところ、いま行われている「論争」は、「議論」ではなく「ディベート」なのではないか、と感じている。なぜみな、そこまでして「勝ちたい」と思うのだろうか。

それにしても、名のある書き手でもSNSになった途端にその多くが文章、議論のレベルが格段に落ち、品もなくなるのは一体なんなのだろう。出版業界が進んで自らの価値を落としているようで、とてもではないが見ていられない。やはり勝利への欲がエンジンとなると、人間、露骨になるのであろうか。

最近では、編集者の呆れるような発言も目立つ。わざとやっているのか、それとも根っからそうなのか。もしそうだとして、では果たしてどちらの方がマシなのか、私にはもうよく分からなくなってきている。

本は大事だとみな口ではそう言うが、このような有様なら早晩、限りなく最小限にまで縮小したとしても仕方がないのではないか。斜陽の要因を他のメディアや読者の「思考力・想像力の衰退」といったような外部のものに求めてばかりで、刻々と腐っていく自らの身体を顧みることがなければ、それは必然としか言いようがないではないか。

いやいっそ、一度強制的にでも本の数が減った方がいいのかもしれない。いまの出版は明らかに供給過多だ。本を大事にしろと言っても、このように本が文字通り溢れている状況では、大事に思えと言う方が無理ではないか。荒療治的ではあるが、数が減って、手に入れるのに多少の手間がかかるようになれば、いまある一冊一冊をもっとちゃんと読もうと思うようになるかもしれない(最近話題の「倍速視聴」の問題も、私はこの点がもっとも大きいのではないかと考えている)。

そもそも、本当にこんなに本が必要なのかをまず考え直すべきではないか。大量の返本に溢れる現状は、言うなれば「ブック・ロス」問題か。SDGsや人新世を論じるのもよいが、まず自分たちの足元が薄利多売で、小売り事業者などに十分に対価が払われない歪な産業構造にあることにもっと注意を向けるべきだ。

いま私たちは、自分で本の価値を下げている。いや、それでいいのだ。そうして「身近」なものになってもっと回転率を上げ、完全にインスタントな娯楽産業としての地位を築くことが延命の手段だ、と言うのならばまあそれもそれで一つの選択肢かもしれないとは思うが、もしそうではないならば、しっかりとこの事実を自覚しなければならない。

本や言葉を、ちゃんと大事にしたい。

 

12月10日

鹿島茂『神田神保町書肆街考』(筑摩書房)を読み始めた。

私も学生時代から頻繁に通っているこの街は、足を運ぶ度に、本当に独特な空間だと思わされる。いったいここにはどれだけの本があるのだろうと考えると、途方もない気分にもなる。

まだまだ初めの方だが、著者らしくさまざまな資料を駆使してこの街の歴史や実像に迫っているばかりではなく、実際にこの街に住んでいた土地感覚も相俟って(著者はどちらかといえば否定しているが)大長篇エッセイとでも呼べる作品になっていそうだ。ここでのエッセイとは、身辺雑記ではなく、試論であり私論、といったようなものだ。私はいつかそのような文章をまとめた本を作りたいと思っているのでその点で参考になるだろうが、しかしあまり目的論的に本を読むこともちょっとつまらないと感じてきているので、まあ素直に読んでいくつもりだ。

ところで、いまこのように言うと私が読んでいるのはつい最近にちくま文庫で刊行された文庫版であるように思う人も多いだろう。しかし、私が読んでいるのは単行本の方だ。それも、もともと持っていたものではない。文庫版が刊行されてからしばらくして、古本を買ったのだ。では文庫版より安いのかと言われれば、それも違う。文庫版は税込み2200円だが、私はこの単行本を確か3850円くらいで買った。

元々は文庫版を買うつもりでいた。発売前からかなり楽しみにもしていたから、間もなく書店に行って平積みになっているその本を手に取った、その瞬間までは買う気でいた。

しかし、784頁というその分厚さにまずたじろぐ。個人的にちくま文庫は比較的紙が薄い方だと思っているが、それでもあまりにも厚い。少々嫌な予感を抱えながら中を開く。案の定だった。版面が四方に広がり、びっちり文字が詰まっている。本を広げていても閉じた状態に戻ろうとする力が強く、かつ自重も小さいので本が自身で本を広げようとする力は小さいので、とにかくストレスで仕方ない。意気阻喪し、決断は一度持ち帰ることにして書店をあとにした。

帰ってから調べてみると、古本と新本の両方を扱う馴染みの書店に単行本が置いてあるらしいことが分かった。価格は文庫版より高いが、一度は東京堂書店にまだ置いてあるのを確認した4400円の新本を買おうとすら思ったくらいだったから、これくらいならまったく問題はない。

だが、もうひとつ確認しなければならないことがある。後日、再び書店で文庫版を確認する。後ろの頁をめくる。初出情報が載っているところだ。そこを見ると、どうやら本文において大きな加筆修正はないようである。いや、実際にはあるのかもしれないが、学術的な研究をする訳ではないから、もうこの際そのくらいは目を瞑ろう。文庫版のあとがきや解説が読みたくなったら、そのときは図書館で借りるなどすればいい。

そしてその数日後、書店に足を運んで単行本を購入した。バックヤードから出してもらうとき、「ありますけど、単行本の方ですよ?」と尋ねられ、いや実は……と文庫本を手に取ってからこっちに来たことを告げると、ああ、やっぱり。そういうことなのかなと思いました、と言われた。

そこでも話したのだが、このボリュームで文庫本一冊というのは、ちょっと無理があるのではないか。本来なら分冊にすべき分量だろう。

しかし、いまの出版状況がそれを許さないのもいたく想像できる。800頁の本を1冊作るのと400頁の本を2冊作るのでは後者の方がコストがかかるだろうし(故に、2200円のこの本を分冊にしたとき、上下巻各1100円で売り出すのは難しいだろう)、かといって皆が皆、上下巻両方を買ってくれる訳ではない。また書店にしても、上下巻となると平台展開の際は2冊分の場所を用意しなくてはならないし、在庫管理なども少々面倒そうだ。入荷の自動化が進めば、片方だけが売れたときに果たしてそれがちゃんと入荷されるかどうかもかなり疑問だ。AIでの管理が進んでいるらしいが、もしAIが「この店でこの本が売れるのは1冊だ」と判断したら新たに入荷はせず、もう片方だけが残り続ける、という状況も想像できる。そのような事情を考えると、単巻という選択に辿り着くのも分からないではない。

ただ、常々私は主張しているように、本とはまず道具である。使いやすさは最上位に位置してもよいほど重要であるのではないか。たとえ内容がよかったとしても、道具として使いにくい「モノ」であるならば、客——とあえて言うが——が離れるのは必然だろう。中身が良ければ評価される、と考えるのは、そもそもどんな作品であってもヒットには社会状況や運の要素が占める割合が大きいように、あまりにも楽観的、あるいは表現至上主義が過ぎるというものだ。

本の作りの問題は、なにも本書に限ったことではない。私はむしろ、現代の本は古書店で見られるようなものと比べて、質としては落ちていると思う。端的に言えば、読みにくく、使いにくくなっている。たしかに、かつてのそれは出版を含め経済的に成長していた特殊な時代の産物であるのかもしれないが、しかし技術自体は発展していることを考えると、だとしてもこれはどうなのだろう、と思い悩む。

業界として苦しいからこのような本の作り方になるのだろうが、しかしこのようにしているから客が離れ、そして本の作りにまたしわ寄せがくる。そんな負のスパイラルが生まれているのではないだろうか。

日本の「本の街」の歴史を辿る本書で現代の出版の苦境に改めて思いを巡らすことになるとは、皮肉なものだ。

 

(矢馬)